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2008年04月01日

古代エジプトの謎に迫る。

こんにちわちわわです。
古代エジプト文明とは、エジプトで前3100年頃ナルムルによる統一王朝が起こってから、紀元前305年ローマ帝国に侵略されクレオパトラ7世の死により王朝が崩壊するまでまでをいいます。
これは、日本の縄文時代の頃の出来事で、前525年ペルシャの支配によりエジプト人の王朝が終焉し、外国人の支配下になる頃、日本でも、弥生時代に文化が移行しているのは全くの偶然でしょうか。
egypt.gif
古代エジプト文明は、日本に通じる部分が少なからずあるように思います。
ナイル川の氾濫による肥沃な土がもたらす農業社会。
母系集団による共同体社会。
🙄 自然崇拝から派生した宗教による国家統合。
🙁 侵略を受けにくい地形による,安定した国家運営のしやすさ。
国家事業としてのピラミッド建設の謎。
最終的にはユダヤ人モーセの「出エジプト記」では奴隷制を非難され、エジプト軍は悪役にしたてあげられますが、奴隷社会の実態とはどんなものだったのか?
今、尚、謎に包まれた古代エジプト文明ですが、シュメールの掠奪文明メソポタミアとの比較も交えながら、古代エジプトの実態に迫ってみようと思います。
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■エジプト概略年表
今から約3万年前に、古代エジプト人の先祖は西アジア方面から移住。この頃、地球上は沙漠化が始まり、人々は水を求めて移動し、ナイルの流域に定着。
紀元前5000年頃、新石器時代が始まる。農耕により集落が発生。
紀元前3500年頃▼ 先王朝時代 ▲紀元前3100年頃
武力や経済力の格差から身分制度や生まれ、更に職業の分化が起こる。
ナイルの流域でノモス(セパト、カーフ。約40の小王国~州または郡)が誕生し王国統一の動きが活発化。
紀元前3100年頃▼ 初期王朝時代 ▲紀元前2686年頃
ナルメルが上・下エジプトを統一。
紀元前2686年▼ 古王国時代 ▲紀元前2181年頃
ジュセル王のころ、王をホルス神の化身とする神王理念の基に強力な中央集権国家が確立。
ピラミッドの建設が始まる。
紀元前2181年頃▼ 第1中間期 ▲紀元前2055年頃
中央集権国家の崩壊。役人や豪族が台頭した混乱期。短期の王の世が続く。墳墓などの盗掘や破壊が行われる。
紀元前2055年頃▼ 中王国時代 ▲紀元前1795年頃
メンチュヘテプ2世がエジプトの再統一。
宰相のアメンエムハト1世がアメン神を守護として王位につく。
紀元前1795年頃▼ 第2中間期 ▲紀元前1550年頃
中央集権体制の崩壊。アジアからの異民族集団ヒクソスが台頭し、支配。
紀元前1550年頃▼ 新王国時代(前期) ▲紀元前1352年頃
アメンヘテプ1世が中央集権の官僚体制を確立し、国内は安定。
トトメス1世が軍事遠征や異民族の駆逐により領土を拡大し、繁栄の絶頂期。
ハトシェプストが初代女王となる。
トトメス3世が、数々の軍事遠征を行いエジプトの国土は最大。
紀元前1352年頃▼ アマルナ時代 ▲紀元前1336年頃
神官と対立した、アクエンアテンが唯一神アテンを国家神とする宗教改革。
ツタンカーメンが政治の拠点をメンフィスの移す。
紀元前1336年頃▼ 新王国時代(後期) ▲紀元前1069年頃
宗教改革が失敗に終わり、国家は再び繁栄。
建築王ラメセス2世の長寿統治。
紀元前1069年頃▼ 第3中間期 ▲紀元前747年頃
宗教改革は失敗するが国家は再び繁栄する。
テーベの神官が王権を主張し、国家が分裂。
リビア系のスメンデス王が下エジプトで新王朝を起こす。
前747年頃▼ 末期王朝時代 ▲紀元前332年
ヌビア軍のピアンキが王朝を起こし、エジプトを統一。
以降、紀元前525年アケメネス朝ペルシャの支配等の外国の支配を受けエジプト人による王朝は終わる。
紀元前332年頃▼ マケドニア時代 ▲紀元前305年頃
マケドニアのアレクサンドロス大王の侵入し、その支配下となる。
紀元前305年▼ プトレマイオス朝時代 ▲紀元前30年頃
将軍プトレマイオスがアレキサンドリアで王に即位。
ローマ帝国に屈しクレオパトラ7世が自殺して、古代エジプト時代が終焉。
紀元前30年▼ ローマ帝国の支配下 ▲西暦395年頃
西暦395年▼ ビザンツ帝国支配下 ▲西暦641年頃
西暦641年▼ アラブの侵攻によりイスラム化 ▲現代
1517年オスマン・トルコ帝国の支配下。
1952年ファールーク国王を追放してエジプト共和国になる。(エジプト革命)
1958年ナセル大統領のもとでエジプト・アラブ連合共和国となる。

投稿者 tiwawa : 2008年04月01日 List  

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コメント

面白いですねー
確かに、日本人的感覚から言うと、川を直接稲作場にしてしまうなんて発想ないですね。そもそも、川の水は引いてきて、ため池つくるっていう発想が自然です。
より安定して食料を確保しようという意識だったのでしょう。
引き続き、縄文時代の勤勉性追求を期待してます!

投稿者 さーね : 2008年5月8日 21:44

 一言で水田・稲作と言っても作業する中身も違えばそこに根付く意識も違うんですね。
 縄文も一言で言ってしまえば狩猟・採集がメインの生活様式ですが、その中身に日本人の気質を探るルーツがあるかもですね。
>引き続き、縄文時代の勤勉性追求を期待してます!(さーねさん)
次回調べてアップしたいと思います!

投稿者 ダイ : 2008年5月8日 21:57

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