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2009年05月05日

中国:北魏 律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステム

日本と中国は共に律令制を導入しています。同じ律令制でも導入された環境等が違うのでその中身は違うのではないかと思います。この比較から当時の日本の大衆と統治者の意識の有り様を把握しようと考えました。まずは中国の動きを見てみました。
NKブログ 「日本史についての雑文その304 律令制の成立」 から抜粋します。
main.200%5B1%5D.jpg孝文帝
>中略
五胡十六国時代はあまりにも諸部族諸勢力の興亡が激しく、異民族同士の憎悪も激しかったため破壊や殲滅も徹底的に行われ、そのうえこの時代は更に地球寒冷化が進んでいったため緯度の高い華北地方は飢饉にも見舞われ、極端な人口減少などが各所で見られました。そうして各所に無人地帯などが突然出現することなどもよくありました。
そこで各所で各部族勢力による農民の強制的な移住政策がとられ、戦利品として捕らえられた農民が無人地帯に強制連行されて移住させられて、その農民たちに権力者から土地を人数分で均等に分けて給付して耕作させて、農民は一定の租を納付させられるようになりました。中略
ただただ匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の各部族の諸勢力が互いに争い合い奪い合い、その中で各部族の農民が半奴隷状態であちこちに強制移住させられて農地を給付されて働かされていたという状態であったのです。
こうした戦乱の華北を439年に統一したのが鮮卑族の北魏だった
抜粋終わり
この後に遊牧民の北魏が律令制度を構築して行きます。その流れに興味があるかたは以下をポチッとお願いします。Blog Ranking
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引き続きNKブログ 「日本史についての雑文その304 律令制の成立」からの抜粋です。
戦争をせずに国家を統合する北魏の「孝文帝」のたくみな戦略を見てみましょう。長くなりますがお付き合いください。 😀 抜粋中の【 】は私のコメントです。
>中略
華北内での戦乱は収まったものの社会構造は五胡十六国時代と本質的には変わりないものでした。
北魏の皇帝はもともと独立して存在していた各部族を屈服させて配下にしていって、それらの諸部族の支持を得て皇帝にまで登りつめたわけですから、皇帝といっても絶対権力者ではなく各部族の発言力はかなり大きいものでした。こういう点、大和王朝の大王と似たようなものであったといえます。
そういった北魏の現状に不満を持ったのが他ならぬ北魏の皇帝で、471年に即位した6代皇帝の孝文帝は各部族の豪族の勢力を抑えて中央集権化を図り皇帝権力を強化することを望むようになります。
そのためにまずは豪族の勢力の基盤となっている私有地や私有民を奪って豪族を弱体化して、それらの土地や人民を皇帝が独占することを望みました。

そのために孝文帝は既に消え去って久しいシナ文化に目をつけました。シナ文化においては儒教において理想とされた社会制度は周の時代の「王土王民」「一君万民」、すなわち「土地と人民は王の支配に属し、王の前に万民は平等である」という理念を具体化した井田制というものでした。
ただこれは、実際にそんな制度が周代に実施されていたというわけではなく、あくまで漢代の儒学者が理想の制度として創作したものであったのですが、とにかくシナ文化においてはそれが理想とされていたのは事実なのです。

【かつての理想であった、「神に変わって」王が支配する制度への移行を実行するわけです。
>以下抜粋
中略
決してシナ文化に憧れたとか染まったというようなことではなく、単に豪族勢力を弱体化させ中央集権化を図るのに好都合であったからに他なりません。
孝文帝の漢化政策として、まず北魏の首都を北方にあった平城から洛陽に移し、配下の豪族たちに遊牧民の服装や言語の使用を禁じて、シナ服の着用とシナ語の使用を強制しました。更に遊牧民豪族にシナ風の姓を名乗らせ、シナ人の有力者を配下の貴族に加え、遊牧民の豪族たちにシナ人貴族との結婚を推奨して混血化を図ったのです。

>以下抜粋続き
遷都は遊牧民部族の本拠地から離れた地に首都を移すことで部族社会を弱体化させるためであったし、シナ文化の強制も混血化も、遊牧民の部族社会を解体してシナ文化への親和性を高めるためでした。配下の遊牧民豪族は部族がバラバラで言葉も通じなかったので、部族連合国家である北魏の朝廷内における共通語としてはシナ語が便利であったという事情もあります。なぜ便利なのかというと、当時の東アジアで唯一の文字が漢字であり、漢字を音読するにはシナ語が一番便利だったからです。
中略
とにかくこの5世紀末に北方遊牧民が漢字を導入して共通語として新しいシナ語を作ったのです。倭国でもこの頃は倭製シナ語を公用語として使っていましたから、まぁ似たようなものです。
またシナ語であれば北魏の豪族を構成する五胡の部族のどの部族にとっても母国語でないので共通語として公平であり、統一国家形成には適していたともいえます。同時期に仏教の国教化を進めたのも、これと同じで異国の宗教であれば諸部族をまとめる国教として相応しいという意味もあったのでしょう。また仏教の場合は部族ごとの祭祀権を超越した性格を持っていたので中央集権制との相性が良かったというのは大和朝廷の仏教受容の場合と同様ではあります。
このようにして新しいシナ人が作り出されていったのですが、孝文帝はこのようにして北魏の遊牧民の豪族たちにシナ文化を馴染ませつつ、「王土王民」「一君万民」という理想の実現をスローガンにして、豪族たちから土地や人民を取り上げて皇帝の直轄とし、土地を均等に分けて人民に貸与して耕作させ定額の租税を納めさせ、土地を取り上げた豪族たちは官僚として皇帝に仕えさせ俸禄を与えるようにしたのです。こういう点、仏教を国教としながらも国家理念としては漢の武帝以来の儒教的なシナ帝国の国家思想を引き継いで利用しているといえます。

人民は定められた年齢になると国家から貸与されていた土地を返還せねばならず、これによって私有地の世襲が制限されるので、豪族が多くの土地を囲い込むことが出来なくなり、皇帝への権力の集中が容易になったのです。これが均田制で、完全に私有財産が否定されたわけではありませんでしたが、豪族が弱体化し、部族社会を解体し、皇帝への権力集中を進めるには十分に効果を発揮しました。
もともと五胡十六国時代の戦乱の中で人民は権力者に強制的に移住させられたり土地を与えられて耕作をさせられたりすることには慣れており、そうしたスタイルは定着していたといえます。その権力者が豪族から皇帝に替わったというだけのことで、人民にとってはそれほど違和感は無かったのだといえます。言うなれば均田制とは、戦乱の中から生まれてきた非常時の制度なのだといえます。

ただ、この均田制を全国規模で実施するためには全国の人民の数や分布を正確に把握していなければなりません。そのためには戸籍が不可欠ということになりますが、戸籍を作成して均田制を実施していくためには緻密な地方行政組織とそれを支える官僚機構や交通制度などが必要となりました。そしてそれらを運用していくための体系的な法令が必要となり、晋時代に施行されていた律令が再活用されることとなったのです。
律というのはシナ古来の法家思想に基づいた刑法典のようなもので、令というのは元来は律の補完的なものであったのですが、北魏において均田制を実施していくための行政組織の整備が進むにつれて、その規定はどんどん増えていき、それが令に盛り込まれていったので、次第に行政法としての令のほうが重要性を増していきました。
孝文帝は599年に死去しましたが、6世紀になってからも北魏においては均田制の実施に伴って更に律令が整備されていき、行政組織や官僚機構が肥大化し発展していくようになりました。これが律令制の誕生と発展です。律令制とはその基礎を均田制に置いているので、基本的に乱世から生まれてきた体制であるといえるでしょう。そして、律令制は強力な中央集権国家を作って人民の生産力や戦闘力などを国家に効率よく集中させることが出来るシステムであったので、この律令制を効率よく運用し発展させた国家が乱世の中で勝ち抜くことが出来るという特性もありました。言い換えると、律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステムであるのです。
抜粋終わり

簡単にまとめると、
 漢代の儒学者が理想の制度を錦の御旗として、戦争をせずに、参勤交代のように遷都で散財させる。混血化で民族の血の結束を崩壊させる。日常的にも衣服や言語をシナ風に強制させて民族が持っていた独自のアイデンティーを消失させると共に新たな中央集権国家に組み込み豪族の土地の私有制を廃する戦略ですね。そして、豪族のあらがう力を削ぎつつ、人民には戦争のない安定した国家を見せつける中で、戸籍を造る為の制度を構築しながら税を収奪するシステムを完成させたようです。当初、日本はこの蛮勇な遊牧民族国家は無視していたようですが、国家統合が出来て安定した税を収奪出来るシステムは魅力的だったのでしょうね。
🙄
日本と中国の違いは、
・気候的には寒冷化が中国の華北程酷くなく戦乱の逼迫度合いは低かった。
・中国の人民が常に支配者に翻弄されるのに対して日本は民は古くから定住していた民だったということでしょうか。
次回の投稿で、人民の生産力や戦闘力を国家に効率よく集中させるシステムとなるこの律令制の運用について記載します。その運用を通じて上記の日本と中国の違い他を追いかけてみたいと思います。
しかし、過酷な環境外圧と戦乱という外圧を逆手に取ったこの律令制度とは実にたくみなものだと改めて感心させらました。 😀

投稿者 sakashun : 2009年05月05日 List  

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コメント

>そこで自分の意見を通そうと思ったら、相当な弁術が必要
ようするに、ああいやこういう、という技術ですね。
それは、今の政治家にも通じるものがあります。
政治力というのは屁理屈力ということでしょうかね。
う~ん、ヒマだ。

投稿者 うらら : 2009年6月13日 19:29

おもしろい

投稿者 KAKASIさんのコメント : 2011年4月30日 10:21

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