四隅突出型方墳の示唆すること【高句麗・新羅→出雲→東国のつながり】 |
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2009年03月18日
スサノオは半島を追われた亡命貴族!?
日本神話において、国家統一はスサノオが出雲に進出するところから始まります。神話の上ではイザナギ、イザナミの子孫となっていますが、イザナギ、イザナミ神話は南方神話であり、対してスサノオは北方的色彩の強い風神ですから、スサノオの出自は別に探る必要があります。スサノオの出自を探ってみると「朝鮮半島を追われた亡命貴族」ではないか、とする説が浮上してきました。
写真はスサノオの生誕地とされる宇美神社(http://websakigake.sakura.ne.jp/05-231.html)より拝借しました。
スサノオの故郷とされる島根県の宇美神社によると、素佐之男の父親は「布都御魂」として祀られている。その他、フツ、フルにちなんだ神社を調べていくと、スサノオの本名は「布都斯」、またスサノオの後を継いだとされるニギハヤヒは「布留」となります。
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya330a.htm
このフツ、フルの由来を辿っていくと、スサノオは半島にあった「布流」という国の亡命貴族といえそうです。
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-02futu.htm
>スサノオは,島根県平田市の宇美神社の地でフツを父として生まれている。フツという名は日本人らしくない名前である。「古代日本正史」によると,スサノオの本名はフツシで,ニギハヤヒの本名はフルである。どうも,同系統の名前のようである。
>これについて,百済本紀を見てみると,紀元前一世紀頃の記録に,権力争いに敗れた「布流」という人物が出てくる。要約すると次のようになる。「紀元前一世紀頃,高句麗王朝の朱蒙という王に二人の王子がいて,その弟の方の温祚王というのが王位につき,その子孫が百済王朝を築いた。この兄の方は名前を布流といい,海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが,布流の国は土地が悪くて住み難く,布流はそれを恥じて死んでしまった。」ここに登場する布流は,スサノオ一族と同系統の名で,ニギハヤヒの本名と同じである。布流はスサノオ一族と関係があるのではなかろうか。
>また、ほぼ同じ頃、高句麗の始祖伝承によると、始祖・朱蒙は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあった布流国を滅ぼして高句麗を建国したことになっている。BC37年のことである。この伝承の真実性は定かでないが、この頃「フル」という系統の地名なり、人名なりが、朝鮮半島北部にあったのは確かであろう。スサノオ一族の祖(フツ)はこのあたりに住んでいたのではないだろうか。あるいは、布流国王家の一族かもしれない。偶然かもしれないが、スサノオが誕生したと推定される時期(BC40頃)と朝鮮半島の伝承による布流国の滅亡の時期(BC37)がほとんど重なるのである。
>朝鮮半島の権力争いに敗れたフツ一族は,紀元前40年頃,朝鮮半島南端部から船出をしたということが考えられる。実験によると朝鮮半島南端部から漂流した場合,対馬海流に流されて,島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高いことがわかっている。スサノオの生まれたといわれている平田市の宇美神社は,河下湾のすぐ近くである。そして,河下湾周辺には,朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺跡が,伝承と共に存在している。この一族の一人にフツがいたのではあるまいか。
注目すべきは「兄の方は名前を布流といい,海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが,布流の国は土地が悪くて住み難く,布流はそれを恥じて死んでしまった」という百済本紀の記述です。
古事記では「スサノオは、イザナキによって、海原を支配せよと命じられたが、イザナミのいる黄泉の国へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた」と書かれています。そしてアマテラスが治めていた地高天原を追放され、出雲の国に降り立ちます。
ここで支配を命じられた海原を布流の国、母が治めていた根の国を高句麗、アマテラスが治めていた高天原を百済だとすれば、フルとスサノオは瓜二つです。つまり高句麗に与えられた布流の国では不満で、兄弟ゲンカの結果、半島を追い出されたフツこそスサノオの父、であり、そのことを示したのが古事記における「問題児スサノオ」のストーリーの出所という訳です。
記事を引用させていただいた、ホームページ「古代史の復元」さんをはじめ、ネットにはスサノオは半島での戦乱を経験していたため、武力よりも生産力を主要な力の源泉として日本に入ってきた、とする方は多いです。私の意見としては田和山遺跡(松江市)や青谷上寺地遺跡(鳥取県)は一定の武力衝突の足跡とみますが、それでも、半島での出来事に比べれば、かつての失敗を繰り返さないためにも極めて慎重にことを運んだものと考えます。ホームページ「古代史の復元」さんはスサノオ、オオクニヌシ、ニギハヤヒらが活躍した時代を青銅器祭祀(銅鐸・銅矛)文化圏が形成されたと時代とみますが、これには同意できます。そして、スサノオらが切り開いた青銅器祭祀(銅鐸・銅矛)文化圏という下地の上に、アマテラスの孫ニニギの「天孫降臨」(とはいっても、こちらも亡命ではないかと推察されるが)が行われたのであろう。
投稿者 staff : 2009年03月18日 TweetList
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コメント
投稿者 太郎冠者 : 2013年2月18日 22:08
少なくとも日本書紀を原理とした摂家神道ではないな。