2021.01.01
アイヌは縄文人とは別系統でさらに古くから列島に漂着した最古の集団
>日本人の起源について追求するとアイヌとは何者かというテーマにも突き当たる。彼らはいわゆる渡来人のもたらした弥生以前の文化を保持しており、アイヌこそが縄文との見方もある。しかし、そうではなく、アイヌはもともとはシベリア系の狩猟採集民で、のちに縄文と長く接する中でこれを受け入れていったものと思われる。
上記はブログ「日本を守るのに右も左もない」に記載された記事で非常に興味深いのですがやや別の角度からの記事がありましたので紹介します。
アイヌは縄文人とは別系統で古くから列島に漂着した最古の集団であるという説です。
それは使っている言語の旧さによります。アイヌ語は抱合語であり、日本語は膠着語。
抱合語とは文に相当するような内容を一語で表すものです。たとえば「私は君に与える」に相当するアイヌ語は「a-e-kore」(私-君-与える)とう一語、食器は「a-e-pe-p」(われわれ―それで―食事するーおmの)という語になります。膠着語は朝鮮語や日本語に代表され、例えば「書く」という動詞はkakという語感に「書かない」「書きます」「書けば」のように語尾を付着(膠着)させて変化する言語形態です。抱合語はより原始の言語で、膠着語は後発的なもの。その意味でアイヌは日本語を使う人々より古く存在していた事が伺え、さらに抱合語と膠着語は同系とは認められず抱合語を持つアイヌがより古い言語形態を保持している民族であると示されています。
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2020.12.30
木柱列と環状列石の制作は、かけがえのない縄文人の仕事だった。
縄文時代の遺構には、日常生活に関わるもの(住居跡や墓など)とは別に、ちょっと現代人には理解不能な、長い時間と労力を注いでムダなものを造ったとしか思えないものがあります。それらは苦し紛れに「モニュメント(記念碑)」と呼ばれていますが、決して何かの記念に建てられたことがわかっているわけではありません。わかっているのは、それらがどうも、実利を目的として造られたのではないこと、しかもその規模たるや、途方もない年月と人員、労力を要する大層なものばかりであること、それ故に縄文人にとってはとてつもなく大切なものであったらしいということだけ。
モニュメントには、環状列石や配石遺構と呼ばれる石を並べたもの、木柱列と呼ばれる木を並べたもの、そして盛土と呼ばれる土を盛ったものがあります。日本の歴史上もっとも長く平和な時代が続いたと言われる縄文時代、戦争やお金儲けを尻目に、人々が大真面目に取り組んでいたらしい「モニュメント」とは一体なんなのか。
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2020.12.25
農耕なしの「縄文的定住スタイル」が社会持続の秘訣
我が国日本で、もっともサステイナブルな社会を実現した時代といえば、なんといっても1万年以上続いた縄文時代です。なぜ縄文時代は同じような文化を1万年も続けることができたのか? その秘密の一つは、自然を支配するのではなく、自然のほうに人間の生活を合わせていく、彼らの生活スタイルにありました。
一般的に歴史の中の時代というのは、政治の中心が変わったり、人々の文化体系そのものが変わったと思われる時に区切りをつけられます。縄文時代であれば、一般的には旧石器時代にはなかった「土器」の出現を持って、その幕開けとされています。そしてそれからおよそ1万2000年後、大陸からやってきた人々の伝えた水田稲作文化を受け入れることによって、縄文時代は終わりを迎えます。現在日本で見つかっている土器でもっとも古いものは、青森県で発掘された1万6500年前のもの。
土器を作るには、大変な時間と労力を要します。まず粘土となる土を選び、精製して、水を加えつつこねて下地を作り、そこから寝かせて、さらに造形し、何日も乾燥させてから、野焼きの作業を持って完成します。獲物を追いながらキャンプしつつ暮らす遊動生活ではとてもなし得ることではありません。土器の使用開始がなぜ、旧石器時代と縄文時代を分けるのか? それは土器を作るということが、新しいアイテムを手に入れるという単純なことではなく、遊動から定住へと変化した人々の生活そのものを示唆するからなのです。つまり縄文時代とは、人々が日本列島に定住し、水田稲作をはじめる前までの時代、ということができます。
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2020.12.24
近年発見されている縄文時代の巨大土木遺産は何を意味しているか?~集団が集団の為に産み出した遺産
最近読んだ本瀬川拓郎氏の「アイヌと縄文」の中に記載された記事を紹介。
縄文時代の巨大土木遺跡が近年次々と発見されており、この遺跡は何のために誰が作ったのかが推察されています。著書では集団が集団の為に産み出した遺産と表現しており、後の古墳時代の権力の象徴としての大型古墳とはそもそも動機が違うと指摘している。またこういう巨大遺産を産み出す縄文時代はそれ自体をもっても物的にも精神的にも豊かな社会であったと指摘しています。もちろんその豊かさとは現在の豊かさとは全く異なりますが、人として生きていく上で必要な心の豊かさであった事は間違いないでしょう。
物的豊かさを超えて次代の豊かさを求め探している現代の人々にヒントを与えるものになるかもしれません。
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2020.12.17
海外から見た日本人の「仕事意識」「職人気質」
ずっと日本にいると気づかないようですが、一度日本を離れて海外から日本を見つめ直すと、海外の出回っている日本製品の性能、品質の高さに改めて気づかされるようです。その底流にあるのは、人の役に立つ、喜んでもらうために働く「仕事意識」「職人気質」にあります。 その精神は縄文時代から引き継がれ、世界類まれな循環型社会を築き上げた江戸時代の人々の生活と産業で発展定着するに至ります。 今回は、古来から日本との接点の深い中国から見た日本人像について紹介します。
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2020.12.17
コロナ後は生活が変わる~江戸に学ぶシンプル生活の知恵3 協力が日常の長屋人はコミュニティーもイベントも要らない
江戸時代に学ぶというシリーズで続けていますが、第3回は江戸の人と人の関係という辺りでよい記事がありましたので紹介します。
江戸の長屋と現在の共同住宅、何が違うのか?そういう視点で書かれていますが、下記の記事を読むと全く違うもの。
共同住宅は固い玄関ドアで家庭というプライバシーが切り離されているが、江戸の長屋は薄い壁一枚。
そこは助け合い、互助の精神が中核になっていました。地域とか共同体とかを考える上でこれほど生々しい事例はない。
火事が多かった江戸の町、長屋とは文字通り様々な家族が繋がり人が生活も運命も一体になっていました。
コロナと人が密着している長屋とは全く馴染まないかもしれませんが、モノに囲まれ、塀で区切られた家の中に暮らす現代から一変するとしたら断捨離し、家族ではないバラバラの個人を繋げる共同体を求める、「江戸の長屋暮らし」的な方向性もあるのかもしれません。
少なくとも下記の記事を読むとなんだかすごく楽しそうで生き生きしていますよね。
深川江戸資料館職員 岡本綾さんの対談から紹介します
─「長屋」という居住スタイルならではの長所・魅力を教えてください。
岡本 一棟を薄い壁で区切っているので、良くも悪くもプライバシーがない、というところですね。隣の家の生活音やけんかの声なども筒抜けではあります。しかし、長屋暮らしの人にとってはそれが普通でした。そのお陰で、お互いに家族の事情までよく分かっており、調味料や食べ物の貸し借りまでする、密な関係が築かれていったとも言えます。日ごろから、お互いの不足を自然と補い合って生活していたのだと考えられます。
─「集合住宅」という点では、現代のマンションにも近い印象を受けますが、その共通点と違いを教えてください。
岡本 確かに「集合住宅」という点では同じなのですが、共通点の方が少ないでしょう。今のマンションはプライバシーの保たれた住居が集まった、いわば一軒家の集合体です。一方、長屋は一家族ごとに住まいが区切られているものの、セキュリティや防音という意識はなく、井戸やトイレなどは共有です。どちらかというと学生寮に近いイメージかもしれません。
─では、そのような環境で快適に暮らすためにはどのような工夫があったのでしょうか。
岡本 工夫というわけではありませんが、「大家」の存在が大きかったとみられています。現代では「大家」といえば物件の所有者を指しますが、江戸時代における「大家」は長屋の管理人を指します。地主から長屋を預かり、家賃の集金から長屋住民の身元保証、迷惑をかける住民の排除など、長屋というコミュニティを健全に運営するキーパーソンとして機能していました。長屋住民が犯罪を犯した場合は大家がその責任を問われるなど、大変な重責だったため、より一層長屋の管理に意識が向きました。
─現代のマンションでは、コミュニティ形成のためにイベントなどを行い、住民同士の交流を活発にするという試みをするところも多いです。長屋でも、住民総出の「七夕の井戸浚い(さらい)」など、協力して行う行事もあったようですが。
岡本 長屋での行事は、現代のようなコミュニティ形成のための目的はなかったようです。コミュニティという感覚は、私たち現代人が過去を分析するにあたり使っている言葉だと思います。当時の江戸の人々は、助け合うことが当たり前の生活だったので、意図せず互助の精神も育まれていったと考えるのが自然です。普段の生活の延長線上に年中行事が重なっていたと見られます。例えば長屋の住民で協力して井戸を掃除する「井戸浚え」は、七夕の風習にのっとって一斉に行われていました。協力が日常になっている人々にとっては、「コミュニティ形成のためにイベントを…」という発想はなかったのではないでしょうか。
─そういった協力し合う日常は、どのように形成されていったのでしょうか。
岡本 100万都市と呼ばれた江戸ですが、人口の半数を占める庶民が住むことができたのは、全体の敷地のほんの15%でした。人口の増加とともに、住居も効率的に圧縮されていく過程で、長屋住民の人付き合いのあり方が形成されていったものと思われます。
井戸、厠、路地など、生活スペースの多くを共有することで、自然とお互いを助け合う空気が生まれ、密な近所づきあいが生まれていったという点は、長屋生活のコミュニティの特徴ともいえるのではないでしょうか。
─現代でも、東日本大震災を機に改めて防災が注目されつつあります。江戸では当時、火事が多かったと言いますが、長屋では災害時どんな対応をしていたんでしょうか?
岡本 江戸時代の265年間で大小合わせて2000件近い火事があったとの記録もあります。平均すると1年に7回前後、2~3か月に1回くらいはどこかで火事が起きていたことになりますね。江戸に住んでいる人は一生に1回は火事に遭う可能性があったのではと推測できます。現代日本では地震に対する防災意識が強いですが、江戸の庶民の防災意識は火事に対するものが大きかったようです。
普段から火の用心を心掛けていました。火事が起きたらまず家財道具を全て運び出し逃げるというのが前提だったので、住居の中には持って逃げることの難しい大きな家具などを置いている家は少なかったようです。下着から鍋釜、正装まで借りることのできる損料屋(そんりょうや)というレンタル業者を利用するのも一般的でした。
また、町ごとに木戸があり、番屋という詰所に見張りがいて、夜間に長屋に出入りするものを確認、不審者の侵入を防いでいました。外部のものが町を通るときは一人で歩かせず、拍子木を鳴らして次の木戸の木戸番に知らせる、次の木戸まで見張りが付き添って送るなど、厳重な注意をしていました。犯罪の抑制とりわけ放火防止の役割が大きかったようです。
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2020.12.10
自然から発火の術を学んだ人類の原点に返って現代を見つめ直す。
人類が最初に手にした火は、落雷や火山の噴火による自然火災によってもたらされたものだと考えられています。
このようにして手に入れた火は、夜の闇を照らす「明るさ(光)」と「暖かさ(熱)」を与えてくれました。まだ自分たちで火を起こすことのできなかった人々は、夜行性の獣から身を守ってくれ身体を温めてくれる火を大切にし、これを絶やさぬように番をして守りつづけました。
やがて、風でこすれあう木の枝から発火するのを見た者が自然から発火の術を学び取り、人類は発火の術を手に入れます。渇いた木を横に寝かせ、その木に垂直に別の木を当ててこすり続け、摩擦によって熱を蓄えて発火させる方法は世界各地で行われたようです。 人類が火を手に入れた経緯については様々な神話にもそのエピソードが語られていて、今でも神社のお祭に木の摩擦によって発火させる儀式があります。(出雲大社や伊勢神宮)1929年には中国で発見された50万年前の北京原人の遺跡から火を使った痕跡が発見されていますので、人類と火の歴史は少なくとも50万年前にさかのぼると考えられます。
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2020.12.10
コロナ後は生活が変わる~江戸に学ぶシンプル生活の知恵2 「世の中にはわからない事もある」⇒「実はわからない事だらけ」というのが事実
前回ごみの話を通じて江戸の社会のリサイクル社会を通じて現在のグローバル社会の問題点を示し、我々は資源が有言で自然の中で生かされている規模の大きな「閉鎖系」社会、有限な社会の中で生きているのだという現実を示した。
同じブログの記事にもう一つ江戸に学ぶ記事があったので今回はそれを紹介して考えてみたい。傲慢な科学者と謙虚な素人という視点だ。現在のコロナにおける状況、これを社会は科学で抑え込もうとしている。様々な製薬会社が投資し効くかどうかが未解明なワクチンを既に運用を初め、副作用のリスクを冒しながら人体実験をしている。
これはどういうことだろうか?仮にコロナが解明不可能な化け物として、それを科学の力で突破しようとしている。しかし素人の私たちはコロナについてそれほどの必要性も恐怖も感じていない。インフルエンザよりはるかに死亡率の低いコロナは解明不可能でもさして問題ないからだ。
逆にコロナの恐怖を騒ぎ立て、混乱させているマスコミ始めとする側の人たちにこそ化け物のそれを感じる。
下記の記事に「世の中にはわからない事もある」という謙虚さこそが科学万能の現代社会の病を治す道だと説いているが、事実は「世の中にはわからない事だらけ」だから人間は常に追求し続ける事で辛うじて存在しているというスタンスの方がしっくりくる。
「江戸時代」に学ぶということより紹介します。
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「一日江戸時代」の疑似体験ではろうそくを使っていたが,実は江戸時代ではろうそくは贅沢品で庶民は綿実油や菜種油,イワシの油などを燃料にしたあんどんで生活していたのだと石川氏は言う。「早起きは3文の徳」という諺があるが,これは早起きをするということは早寝をすることにつながるので,あんどんの油を3文ほど節約できるという意味なのだそうだ。
「(前略)がむしゃらに突き進んだ科学の進化は,あらゆる所に光を当て,化け物の存在を許容する物陰を奪い取ってしまったのかもしれませんね。この“物陰”が,我々の心の余裕とも言い換えられると思います。光の当たる所へ引きずり出すためには,擬似でもエセでも良いから,科学的に見える衣を着けなければいけない様な強迫観念にも似た余裕の無さ。個人的には,いかに科学が進もうとも,解明できない事象,説明できない事象が必ず残ると思っています。具体的には“人の心の領域に類する事”が多いでしょう。そして,その畏怖こそが,科学者・技術者に最も必要な“謙虚さ”を産むと考えています。同時に,現代人である我々に欠けている物だとも(後略)」
つまり,蛍光灯を煌々と照らして部屋から暗部をなくしたように,近代科学はその時点のレベルでは解明できない事象まで無理やり説明しようとしてきた。それは,解明されたことが「正しい」かどうかというよりも,「解明されたと思い込む」ことによって精神的に安定してきたように見える。近代人は「解明できないものでも解明しないと気がすまない」という強迫観念にとらわれた「病人」なのかもしれない。
そしてその「病気」を癒す一つの道が,「世の中には分からないこともある」と「謙虚」に考えることだという。コメント氏はさらに,そうした「謙虚さ」の欠如が,独りよがりな製品開発につながり,「その挙句が“魅力的な製品が出来ない”,ひいては“物が売れない”と言う事態を招いている」のではないかと見る。
「江戸時代のあんどん」からだいぶ「遠く」にきてしまったようだが,「暗部=化け物」を許容することが,現在の製造業が抱えている課題を解決するかもしれないという点に,「江戸時代」に学ぶ一つの意味を見い出すことができるのかもしれない。
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2020.12.03
コロナ後は生活が変わる~江戸に学ぶシンプル生活の知恵1 「モノを使わない」という理念
コロナ禍の出口はどうなるか?
コロナが落ち着き、再び何もなかったかのように以前の暮らしが戻るのか?あるいは社会は貧困になり犯罪が起き、世の中が乱れるのか?現時点では誰も予測できない。しかし、来年早々には年度を越せずに倒産する中小企業、大企業が相次ぎ、人々は職を失い、国家の借金は膨れ上がり、中央銀行制度が崩壊、国家紙幣によってそれまでの預金は吹っ飛び、BI(ベーシックインカム)制度が始まると社会はもう元に戻れない。
さらに環境破壊阻止の為に人工物質が法制で制限されてくるとモノが高価になり、貴重になっていく。それは憂うべき事なのか、前に進んだ新しい形なのか?少なくとも都市への集中が緩み、贅沢な生活スタイルが変わり、農業が再生、工業生産は低下、環境汚染は改善され、荒んだ人々の心は反って正常化していくのではないか?今は断捨離やエコと言われる生活も普通に誰もが迎え入れる新しい粗食とシンプルな生活スタイルに馴染んでいき、やがてその方がよい、楽しいという事に気が付いていくのではないか?何より様々なところで工夫が生まれ、同時に人と人との間に繋がりが出てくる。
ついこないだ(30年前)までバブルに興じてきた日本は既にこの30年でその水準を下げた生活スタイルを始めている。それがより鮮明により普遍的に広がっていくのではないか。これから数回の縄文ブログでは江戸の暮らしを紹介しながら、コロナ後の私たちの生活を未来予想してみたい。第1回はブログ「江戸時代に学ぶ」より紹介してみます。
江戸時代,特に江戸には「ゴミ」を欲しがる人がたくさんいた。例えば,紙ゴミについてみると,資本を投じてゴミを集める業者がいたし,さらには道などに落ちている紙を拾って換金する者がいて完璧にリサイクルされていたのだという。
江戸時代では,紙だけでなく,様々なモノが回収されリサイクルされていたということはよく知られたことではある。古着,桶や樽などの木製製品,刃物などの金属製品,傘,さらには汲み取り便所に溜められた下肥を回収・流通させる業者までいたそうである。江戸がリサイクル社会であったのは,人口が100万人ちょっとで,人間が出す廃棄物の量が少ないために自然の物質循環にのせることができたことが大きい。また,そもそもモノの生産力が低く,モノ不足であり,モノ自体の価値が高かったということが挙げられるだろう。こうした点は江戸時代特有の事情のようにも見える。高度な資本主義社会である現代はそこから何を学べるのだろうか。
それは,電気もクルマもないという江戸時代の「実体」に戻ることではなくて,江戸時代が生んだ「モノを使わない」という「理念」に学ぶということだと思われる。「どう変える」かを考える際に参考になるのが,江戸時代の人々が持っていたライフスタイル観であろう。石川氏は番組の中で,「モノがない江戸時代の暮らしはとても楽だったのです」と語っていた。モノがない生活を嫌々やるのではなく,楽しむと思うことが,価値観の変革につながることだと考えられる。
現状では,どこまで省エネ生活をしたらよいのかは,各人の判断に任されており,その結果,一生懸命エコ生活をしている人としていない人の間で「不公平感」を招いているようにも見える。不公平感を持つのは,省エネ生活が損だという価値観がどこかにあるからである。これを解決するには,「省エネ生活のほうが楽だ」というように価値観を変えることが大切なのではなかろうか。資本主義の原理と相反する面もあり決して容易なことではないと思うが,そのヒントが江戸時代にあるという見方はあながち間違っていないとも思うのである。
また,視点をもう少し広く見ると,人口100万人という小規模な「閉鎖系」であることから循環型社会を実現できていた,という「成功例」から学べる教訓はあるのではないかと思う。例えば紙の原料である木を伐採すれば山がどうなってしまうのか,下肥を無秩序に捨てたら江戸の町がどのように汚れてしまうのか,といったことが「見える」ほどに「江戸」は小規模だったということではないかと思われる。
現代社会は,グローバル化によって,製品のライフサイクルが世界規模に拡大した。どこか遠くの国から無尽蔵なエネルギー・原料がやってきて,どこか遠くの国が使用後の製品や廃棄物をいくらでも使ってくれて処理してくれる,という錯覚があるのではないかと思う。今深刻化している環境問題とは,「開放系」だと思っていた地球が,規模は大きいものの「閉鎖系」であった,ということなのであろう。しょせん地球と言っても,江戸が大きくなった程度の有限なもの,と考えることが最初の一歩ということなのかもしれない。
さきほど,江戸時代は人間社会が出す廃棄物を自然が処理できる循環型社会であった,と述べた。この人間の出す廃棄物の量と自然の処理能力のバランスを調整する役目をしていたのが,共同体であったと考えられる。資本のグローバル化の進展は,この共同体を解体した結果,人間同士のつながりと,自然とのつながりを同時に断ち切ったのである。
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2020.11.26
母系社会が平和への鍵になる
現在はほとんどの国が父系社会ですが、古来、農耕部族は母系社会、狩猟部族は父系社会が生業との整合上一般的な社会形態でした。 母系社会が何故姿を消したかというと、欧米での略奪闘争と社会統合としての宗教が理由に挙げられます。戦争は当然男の主戦場。戦争により荒廃した社会を統合するために成立した宗教もまた、女性の地位を蔑視し、男優位の社会を解いています。
日本において江戸時代まで貴族、武家階級は父系社会でしたが、庶民は母系社会が色濃く残存していました。恐らく他国からの侵略の恐れの少ない島国であることと、それゆえ、宗教が庶民にまでそれほど浸透してこなかったからではないでしょうか。
父系社会の国家が滅亡を繰り返してきたのを横目に、母系社会のまま存続している部族は平和を維持したまま今日を迎えています。
母系社会を存続させてきた日本こそ、その理想的社会を示し、世界に先駆けて実践していくことが求められているのではないでしょうか。
posted by tanog at : 2020年11月26日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList