2021.02.11

これからは東洋医学が注目されていく(その3)東洋医学の基礎となる「気」の概念とは・・。

東洋医学を把握しようとすればすべては「気」の概念を掴む事だ。
気象、元気、病気、殺気、気合、気になる、気持ち悪いなど、私たちの日常使う言葉の中には「気」という言葉がたくさん使われる。では気とは何かを考えた事は意外とない。おそらく東洋医学の概念がそこはかとなく我々の日常にも取り込まれているのだろう。
今回はこの「気」の概念を固定したい。参考にさせていただきたのは山田慶兒氏著書の「中国医学はいかにつくられたか」です。

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2021.02.04

アジアは西洋文明を克服できる~自然を支配対象とした西洋哲学の行方

人類は生存の危機に瀕しています。エネルギー、水、食料等の資源は次第に困難になりつつあります。炭酸ガス排出による地球温暖化や自然環境悪化に歯止 めがかかる予兆はありません。人間は危機を認識しつつも、その適切な処方箋を持ち合わせていません。待ったなしの状況は続き、危機にうまく対処できなければ破局 へと向かいます

では、この人類の危機を招いた根本的原因はどこにあるのでしょうか。人類が享受している便利で心地よい物質文明は、西洋に発します。西洋文明の世界への拡散がその他地域の近代化を推し進めてきました。では、西洋文明とは何でしょうか。その本質は何でしょうか西洋人はどのように世界を認識し、学問を生み、社会を変 革し、我々を今の状態に導いたのでしょうか。西洋では、学問の王様は哲学です。西洋文明を支える哲学を振り返ることにより、我々の現在立っている認識 的、歴史的位置を知ることができると思います。また、その位置を認識することによって、将来の展望が切り開かれるかもしれません。

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2021.02.04

これからは東洋医学が注目されていく(その2)東洋医学の視座~こころと身体が一つであるという 「心身一如」 の整体観

シリーズ第2回は東洋医学の基礎(歴史と視座)を扱います。大阪経済大学の黒木賢一教授が執筆された2006年5月に掲載された大阪経大論集によい記事がありましたのでそこから引用してしばらくこのシリーズを展開していきます。

黒木氏は臨床心理学を追求し、ツイッターには以下のような遍歴を披露されています。「大学院で臨床心理士を目指す学生を教えている。「心理職人」を目指しているうちに,東洋医学の「気」,気功,太極拳に興味を持つようになる。また,四国遍路にはまり2巡目の歩きを行っている」と自称「心理職人」という面白い経歴を持たれています。

東洋医学は「全体的」西洋医学は「部分的」。
また西洋医学の最も特徴的な事として身体と心を別のものとして捉える「心身二元論」であり、対して東洋医学は身体が一つであるという 「心身一如」の考えが基本にあるとしています。さらに人間は自然の一部であり、また人間の体の中に自然があるという自然と身体は共存していると説き、その意味では自然を敵対視し、克服しようとして来た西洋人と、自然と共存し、自然に同化を試みた東洋人に根本的な差が生じていると言えます。
日本人は明治以降、西洋医学を正として全面的に取り込み、医師の育成、病院、医療の推進を行ってきています。
その結果がまさに心身がバラバラで心が失われ、肉体が破壊されていく。今こそ、医療を見直し、本当の意味での心身の健康を取り戻す必要があるのではないか。その方法が東洋医学の中にたくさんあるのではないかと思い、このシリーズを続けていきたいと思います。最初は黒木氏の論文の序章の紹介です。

1) 東洋医学の視座 

東洋医学とは, 広義の意味ではアジアを中心に発達した伝承医学のことである。 その中 には, 中国の中国医学, チベットのチベット医学, インドのアユルベーダー医学, イスラ ム圏のユナーニ医学などがある。 狭義の意味での東洋医学は中国の伝承医学のことをいう。 日本においては, 6世紀ごろに, 仏教伝来と同時期に中国の伝承医学も伝来した。 江戸時代, オランダ医学を 「蘭方」 と称したのに対して, 中国から伝来した医学は 「漢方」 と呼 ばれた。 この漢方は, 時代を経ることにより, 日本独特の医学として変化しながら成立し ていた。 しかし, 明治初頭に国家政策により, 西洋の近代医学を正規の医学としてとりいれたために, 日本漢方は一時, 医療の世界から姿を消すという歴史がある。 

1976年に漢方薬が健康保険適応されたことを契機に漢方を中心とした東洋医学が日本で は見直されるようになったのである。 東洋医学の根本は, 古代中国の思想である老荘思想や易経などがあり, その奥には, 気 と陰陽五行説に基づいている。 医学大系としては, 紀元200年に著された三大古典がある。 身体の生理観, 疾病観, 診断法, 治療論が記された 『黄帝内経 (素門・霊枢)』, 三六五種 類の薬草の効能が記された 『神農本草経』, 様々な疾病と薬の応用が記された 『傷寒雑病 論』 があり, それらには東洋の自然観と生命観が貫かれている。 これらの三大古典の充実 ぶりはすばらしく, 紀元前1700年頃の殷王朝時代から約2000年間の年月をかけて次第に中 国独自の医学大系が整えられていったことが伺える。 この三大古典を基礎に現代の東洋医 学は時代の変遷とともに発展してきた。 世界に類を見ない緻密な医学大系として, 悠久の 時を超えた知恵と知識の伝承がそこにはある。 

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では, 近代の西洋医学と伝統的な東洋医学では, どのような違いがあるのか両者を比較 することで, 東洋医学の特徴を明らかにしよう。 水島 (1995) は表1を示し, 両者の比較 を行っている。 筆者なりに東洋医学と西洋医学の差違を整理してみよう。 両者の視 点の違いは, 前者は 「全体的」 であり後者は 「部分的」 である。 東洋医学では, 自然の中 に人が存在し, 人の中に自然が存在しているという考え方があり, 自然と共存している身 体を問題にしている。 それは陰陽論と五行論を基本にした考えの上にたっている。 また, こころと身体が一つであるという 「心身一如」 の整体観がある。 西洋医学は, 心身二元論 の考え方に立ち, あくまでも身体と心は二分化され, 部分に注目をする。 この両者の基本 的な違いは大きい。 

その基本的な視点の違いが, 身体に対する見方に影響しており, 東洋医学では, 臓腑に 異常があったとしても, 身体に流れる 「気血水」 という物質がどのように働き, 影響を与 えているかを問題にしている。 また, こころの有り様も, 気血水で結ばれた身体の一部の 現れとして切り離すことはしない。 西洋医学では, 臓器の器質的な異常を病気と見なし 「病理学」 の視点から捉えている。 このような差違が治療の目的に影響を与え, 西洋医学 では 「疾病の原因」 を探求するのに対して, 東洋医学では 「自然治癒力」 に力点をおいて いる。 診断に関しても, 西洋医学では, 例えば, 胃潰瘍といった固定された診断名がつく が, 東洋医学では, 胃潰瘍の病因と状態から 「証」 を把握して治療を行う。 

寺澤 (2002) によれば, 「証とは患者が現時点で現している症状を気血水, 陰陽・虚実・ 寒熱・表裏, 五臓, 六病位などの基本概念をとおして認識し, さらに病態の特異性を示す 症候をとらえた結果を総合して得られる診断であり, 治療の指示である」 と定義し, 証は 診断の物差しであると述べている。 東洋医学の臨床の場では, 西洋医学の治療を受けて, 納得しなかったクライエントの受 診が多いといわれている。 それは, 不定愁訴など, 検査をしても数値上ではどこも問題が ないと言われる。 しかし, クライエントは自覚症状があり困っているのである。 また東洋 医学では, 後に述べるが, 心理面を重視しているのが特徴である。 それは心身一如の視点 が原点にあり, 「病は気から」 という言葉からも分かるように, 気 (エネルギー, 物質, 情報) の有り様を重視している。 

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2021.01.28

これからは東洋医学が注目されていく(その1)

現在コロナに聞く治療薬はありません。これは病原菌を攻撃する西洋医学の世界の話です。

東洋医学だとコロナに効く薬はあるのか?この答えは難しいですが、私はあると思います。薬はないけど罹患、発病しないようにする手段はあります。東洋医学の基礎理論である予防治療がコロナを初めあらゆる病気に有効なのに対して西洋医学ではまったく対応できないというのが現在の状況です。西洋医学では薬がないのでついにワクチンという方法で対応しようとしていますが、副作用が予測できず現時点では副作用が出た場合は全て個人責任となっています。ワクチン製薬会社は巨額の富を得て、打たれた患者は副作用のリスクを抱えながら高い医療費を負担する。さらに打つ打たないも国や公的機関で指定される。そもそも下記の様に東洋医療の医師からはワクチンへの警鐘が出されています

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2021.01.28

「疫病の流行は政治が悪いから」感染症に苦しめられた日本人の古代史

ちまたでは新型コロナウイルス禍が日本全体に大きな影響を与えておりますが、感染症に苦しめられる歴史はすでに縄文時代からあったようです

医学の発達していない当時、処方箋などあるはずがなく、感染を恐れる庶民は、出来うる限りの知恵を尽くして対処したであろうと推測できます。

宮廷も含めて、ばたばたと死に絶える様を見て、天皇の取った政策はもっぱら「加持祈祷」でした。仏教の発展伝染病の進行がなければ日本に根付いていたかは疑わしいところです。

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2021.01.21

現代の言葉に息づく、縄文の自然との共生体験

日本人は遥か縄文時代から脈々と「縄文思考」を受け継いでいます。 日本の言語は、大和の時代の万葉集からしか紐解くことはできず、縄文時代にどのような言語が語られていたかは分かっていませんが、人類が生き残りをかけて獲得した共認・観念機能がある以上、言葉はその重要な機能として語られていたはずです。 そのルーツを探る研究はさまざま行われていますが、大陸の言語と違って、日本語は日本列島発のその土地独自の言語が誕生し、その言葉を使って、現代まで「縄文思考」を引き継いできたのではないでしょうか。

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2021.01.21

瑛人の「香水」がなぜ流行ったか?香りは自然に導く本能の入り口だから・・・。

昨年、瑛人の「香水」がSNSをきっかけに瞬く間にヒットしたのを知っている人は多い。殆ど名もないレコード会社を経由しないシンガーソングライターが1曲で全国に知れ渡り、今でもその曲が若者の間で口ずさまれる。image

一種の社会現象となっている。多くの人々を魅了したのはメロディーラインの美しさもあるが、香りという言葉が本能を刺激したのではとも言われている。人々の中に眠っていた本源性をすっと引き出す事に寄与したからではないか?現代人々はパソコンやスマホで目や耳は使うが、臭覚を忘れている。それをふと思い出した。

作者自身も気が付いていないだろうが、今の時代、最も求められているのは古いけど新しいもの、身近だけど普段使っていない感覚、そんなものが提供されるとふと立ち止まり、今の感覚な何だろうと刺激を与える。
日本には古くから香りの文化を持っている。その始まりは550年頃仏教の伝来とともに香道として定着し、その後江戸時代に一般大衆に広がっていった。今日は香りの持つ力とは何かを少し考えてみたいと思う。

https://www.premium-j.jp/japanesesenses/20200225_8413/より志野流香道の記事から抜粋して紹介します。内容と共に非常に美しい文章です。

香道は自然の摂理へ同化する一手段かもしれません。五感の中で臭気というのは動物で言う触覚機能に近く、そういう意味で危機を察知し、また対象を捉える力を持っている。そして脳の”ある本能部分”に繋がっている基本機能なのだと思います。

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「香道は美の集大成」と語る志野流香道若宗匠、蜂谷宗苾(はちやそうひつ)が心を鎮めて聞香(もんこう)を行う。

香木の香りを志野流では、伽羅を含めた六国<他に羅国(らこく)・真那賀(まなか)・真南蛮(まなばん)・佐曽羅(さそら)・寸門陀羅(すもんだら)>と五味<甘・苦・辛・酸・鹹(かん・く・しん・さん・かん)>に分類しており、入門後、初伝で家元から直接その秘事を伝授される。香りの複雑さを感じると、心が落ち着くのがわかる。

香道の世界には、聞香会と呼ばれる香木の香りを鑑賞するための会がある。ある日の聞香会を訪ねると、名香席の他に点心席や茶席、香道具の展観席もあって、室町時代に大成された東山文化を実際に体験しながら1日を過ごすことができる、優雅な催しになっていた。

(中略)

香木は木が傷口を治そうとしてできた、ある意味”治癒力”の塊であり、いくつもの条件が重なって偶然にできる、人間の力の及ばない世界のものだ希少な香木への尊敬の念が、ひとつひとつの丁寧な作法に込められている。香炉が次々に回り、座敷には香りが満ちていく。それと共に、座敷は落ち着いた空間に変わっていった。

香には十の徳があると言われている。それは、(一)感覚を研ぎ澄ます、(二)心身を清浄にする、(三)汚れを取り除く、(四)眠気を覚ます、(五)孤独感を癒す、(六)多忙時でも心を和ます、(七)たくさんあっても邪魔にならない、(八)少量でも芳香を放つ、(九)何百年を経ても朽ちはてない、(十)常用しても害がないというものだ。

宗苾若宗匠は言う。

香を聞くことは、香木や自然界と一つになること。お手前の最中、他ごとを考えたり、心が乱れていると当然ながら自然界と会話はできません。もっと言えば、彼らにわたしたち人間の考えてることはすべて見抜かれています。一方で、その昔、その香木を実際に所持していた人物、例えば信長や家康、歴代の天皇とも香りを通して会話ができます。時代を超えて先人たちと一つになれる瞬間、香席には何とも言いようのない緊張感が漂います」。

「例えば親の子に対する愛情は形として見えませんが、確かに存在するものです。電磁波も目に見えませんが、ついに5Gの時代が到来し、私たちの生活は更に急速に変化していきます。香りに含まれるメッセージもそれと同様で、見えないけれど存在しており、実は木々も互いの思いを香りで届け会話をしています。自然界が、この世に生きる私たちにどんな言葉を掛けようとしているのか。電磁波からではなく、地球が発する声から聞き取らなければいけない時が来ているのではないでしょうか」。

見えないものを見せる――香ができることは思っていた以上に大きい。

若宗匠は言う。「香りには天と人をつなげる役目があります。古くは天皇の即位式には必ずお香をたいたといいますし、仏教やキリスト教など宗教から日常生活にまで香りはつきものですよね。私は普段から香りを通して自然界と会話をしています。心静かに香木と向き合い、その香りに身を委ねることにより、生きてることを実感し、命の大切さ、有り難みを教えてくれます。香りによってはそれこそ天にも昇る心地にさせてくれるものもあれば、何故だか涙が溢れてくるものもあります。浅はかな“人”の精神では、到底到達することができない自然の叡智に少しでも近づけるよう今日も稽古に励みます。心乱れた状態で手前をするといい香りは漂ってきません。香を聞くということは、自己を知ることでもあります」。

「香道は日本の美・芸術文化の集大成」と若宗匠が言うように、金融や物質主義から、これからの時代は美や心、魂のような形のないものこそが、本当の意味で大事なんだと、自ら気付いていくことが求められるのではないだろうか。

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2021.01.14

縄文文化の超自然観-死と再生のシンボリズム-

縄文文化は西暦紀元前1400年~紀元前1000年ごろに、日本列島に存在した、いわゆる縄文土器によって特徴づけられる文化です。1万年以上におよぶ縄文時代は、文字を残しませんでした。弥生時代、日本列島に大規模な文化の流入があったため、縄文人が弥生文化以降の日本人の直接の祖先かもはっきりしません。

縄文人は狩猟・採集をベースにしながらも、高度な漁撈と根菜・雑穀の単純農耕を行い、定住性の高い社会をつくっていました。

集落の構造や遺体の埋葬方法からみて、明確な社会的階層は存在しなかったと考えられます。埋葬人骨の抜歯パターンによる分析や子どもに対する副葬品の分析を合わせて考えると、縄文社会は基本的には母系的な部族社会でしたが、晩期北日本の亀ヶ岡文化では、北米北西海岸にみられるような、高度な漁撈にささえられた、より父系的な首長制社会が形成されていったらしいです。また前期~後期の中部・関東で発達する環状集落には2分節、4分節の構造がみられるので、単系出自・双分制、さらには重系出自・四分制の親族組織が存在した可能性があります。

 

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2021.01.14

円環の死生観~葬儀とは円環の中に命を送り込む儀式

先の投稿に縄文人の再生に対する思いを書きました。その一つが翡翠への執着です。
別の例でいえば、翡翠(ひすい)は縄文時代の1万年間を通して、北海道から沖縄まで分布しています。でも翡翠はジュエリーでも宝石でもない、ただ地球上で再生のシンボルである白と緑が同居している石はそれしかなかったんです。

 今日は再生についてもう一つ大きな象徴を書いておきたいと思います。先日私の身近な知り合いが亡くなりました。つい昨日まで共に仕事をし、語ってきた仲間です。今日、その彼を見送りました。なんとも言えない喪失感です。
おそらくこの死への思いは縄文人はきっと現代人より強く厳然と持っていたでしょう。
現代人は隣人の死をお別れと言いますが、再生・循環の思想に立てば、移動していったのです。円環の中に送り込んだのです。
死んで消えて無くなるのと、死んでも別の生命として再生し再び命を得るものと考えるのとでどれだけ残された人々の心がやすらんだか。そして死を迎える当人もその恐怖からどれだけ救われたか。それは単に宗教や信仰とは全く別のもっと根源的な人類のアニミズムの思考から始まっているのです。これらの葬送の儀礼はホモ・サピエンスだけでなくネアンデルタール人から始まっています。言葉以前の時代にこの死生観があった事は想像に難くありません。著者が書いたように科学で解明できるできないの次元の外にこの循環の思想は存在しているように思います。

下記に都立大学の山田教授の説話がありますので参考にさせていただきます。

>縄文時代の再生、循環の死生観は、円運動を伴うということで、「円環の死生観」と呼ぶことができます。自分自身が姿形を変化させながら、自然のさまざまな部分に循環していくのです。こうした死生観は、縄文時代の初源的な宗教形態の一つであるアニミズムと連動します。
加えて、縄文時代の後半期になると、多数合葬・復葬墓の発生とともに、先祖から受け継いできた生命の線を、バトンリレーのような形でつなげていくという系譜的な死生観が発展します。先ほどの円環の死生観に対比して、「直線的な死生観」と呼ぶことができます。この二つの死生観の在り方が、縄文時代後期には並存していたと考えられます。
後期以降も、墓地の中に新たに家族単位の区画が作られ、そこに代々埋葬されていくようになることを鑑みると、系譜的な関係性を考慮した埋葬方法を取っており、それを支えた死生観が存在したことがうかがえます。
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縄文時代の再生・循環の死生観と系譜的な死生観、この二つが円環の死生観と直線的な死生観ということになるのですが、自然の中で大きく循環するという考え方の中では、自分の先祖と自分がいて子孫がいる、という直線的な死生観は、実は一部分を切り取って並べたにすぎないことが分かります。例えるならば、数学における微分積分の考え方と同じです。
系譜的な死生観は、特殊な状況下で必要とされたのであって、縄文時代の基本的な死生観は、むしろ円環の死生観、再生・循環の死生観であったと考えられます。この死生観は、人間だけではなく、イノシシやシカ、クマなどの動物や、トチの実やクリなどの植物にも適用できます。だからこそ、土器埋設遺構の中に入れて、再生するように祈っていたのです。

貝塚も、単なるゴミ捨て場ではなく、人の遺体を埋めたり、さまざまな動物の骨を置いたりしました。その意味では、アイヌ人の文化にあった、あの世にもう1回送り込むという祭祀の場、いわゆる送り場と同じものだと考えられることが多いのです。このように、さまざまなものを、円環の中に送り込むという営為を、縄文人が行っていたことは、おそらく間違いないと思われます。

このような死生観は、実は現代社会においても残っています。例えば、先祖代々の墓を守るというのは系譜的な死生観ですね。一方で、最近生まれ変わりやあの世に関する、ドラマや映画、小説が増えてきました。社会的に見ると、生命が循環して生まれ変わり、あの世とこの世が交流しているという考え方、死生観が、われわれの心の中に残っているということです。科学万能といわれている社会において迷信と呼ばれかねないにもかかわらず、です。
この死生観は、すでに縄文時代から存在していました。今から20万年前にアフリカでホモ・サピエンスが登場し、10万年ほど前に「アウト・オブ・アフリカ」といって世界に拡散していきます。最終的に、約4万年前に日本列島にやってきました。このような循環、再生の死生観は、彼らが移動を続ける間に身体の中に染み付いた、あるいは頭の中で考えたものだったと思われます。

例えば、旧石器時代、沖縄県の港川には「港川人」と呼ばれる人が住んでいました。そこにはクレバスが存在し、崖にひび割れが入っており、その中に実は遺体が入れられていました。 宗教学者のミルチャ・エリアーデは、このようにクレバスや洞窟の中に遺体を入れるという行為は、母体への回帰を意味しているという議論を展開しています。これまでに説明した、土器の中に遺体を入れるという行為とまさしく同じ意味を持ちます。このように、社会ごとにさまざまな異なった形ではありますが、その基本には再生や循環の思想があります。この思想は、人間がホモ・サピエンスとして生まれてきてから、非常に長い期間持っていたものなのです。

最近、主に都心部で墓が買えない、地方では墓を維持できないということで、墓じまいをどうするかという懸念が増大しています。また、墓の問題があるので、死んだ後どうするのか考えようということで、「終活」という言葉が出てきました。その中で、子どもたちに迷惑をかけられないので、自分たちは墓に入れずに、散骨やどこかに流すなどの自然葬や、桜など木の下に埋める樹木葬のニーズが高くなっています。
そのニーズを支えているのは、実は縄文時代にある再生や循環の思想でもあるのです。つまり、墓を持てない人たちの増加や、あるいは夫婦でも一つの墓に入らないという家族の関係性の変化に基づいた形で、系譜的な死生観に基づく墓が徐々に敬遠されてきているのです。
そして一方では、社会的な不安や閉塞感の高まりとともに、縄文時代の死生観がわれわれの心の中に占める割合が大きくなってきているとも見えなくはありません。縄文時代の死生観と現代人の死生観は、一見全く違うように思われるかもしれませんが、その大元はかなり強い形でつながっているとも考えることができるのです。

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2021.01.07

縄文人が最も念じていたのは自然の摂理への同化、同一化であり、翡翠とはその中の”再生”を身に着ける最大の象徴だった

縄文時代を貫通して重宝されたのは黒曜石と翡翠です。黒曜石はナイフや刀としての道具として用途は明快ですが、翡翠は装飾品として狭義に捉えられてしまいがちです。しかし翡翠は産地が限られているにも関わらず北海道から沖縄まで広く遺跡として分布しており、相応な役割があったものと推察されます。それは贈り物でもあり、さらに縄文人の精神世界に密接に関わる何かがあったものと思われます。縄文時代を通じて念じていたものがあると思われます。
下記の記事の中にそれは“再生”というキーワードで書かれていました。これは翡翠に限らず、縄文土器の紋様、蛇信仰など、この再生とは言い換えればサイクルとも言い、自然の摂理そのものであるのです。つまり、縄文人の追求心とは自然の摂理、自然の摂理を読み解く事、同一化しようとすることに他ならない。今からわずか1万年前まで人類は古代人類に培った言語を産み出す源となった観念原回路を使って自然を対象化しようとしていたのです。その一つの象徴が翡翠信仰なのかもしれません。

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北海道考古学会会長の 大島直行氏のインタビューに書かれています。下記に抜粋して紹介します。

―縄文の紋様は何を表しているのでしょう。

大島「縄文の紋様は蛇でしょう。縄文土器が凄いのは最初に縄目の文様で蛇を表現したこと。蛇は世界中の神話にあります。脱皮を繰り返す蛇は再生のシンボリズムなんです。そして蛇を象徴とする文様がひとつの文化として定着すると、多くの人が“効き目”がある文様を模倣し、もっと“効き目”がある文様を求めて、さまざまな実験を繰り返す。そんな時代が1万年以上も続いたのが縄文時代だったんです。」

 ―ここでいう“効き目”とはどのようなものでしょうか?

大島「日常生活の中で“死にたくない、蘇りたい”と思い、効き目のあるシンボルをどうやって編み出すかに命をかけていた、すべてがそこに集約できます。歴史的な経緯もなく、発展や進歩も選択せず、1万年間ずっと変化しないといえばよくわかるでしょう。土器の形がいろいろかわるのは、効き目を試しているからですよ。別の例でいえば、翡翠(ひすい)は縄文時代の1万年間を通して、北海道から沖縄まで分布しています。でも翡翠はジュエリーでも宝石でもない、ただ地球上で再生のシンボルである白と緑が同居している石はそれしかなかったんです。効き目が抜群だったんでしょう、それが信仰ですから。翡翠を手に入れて持つことが大切だったんです。科学的に効果があるわけではなく、縄文人を精神的に満足させるもの。頭の中に再生の因子があって、それになぞらえられるものは、何でもやったという事ですよね」

 ―縄文人が現代人に教えてくれることは何でしょうか?その世界観を理解する事で私たちには何がわかるのでしょうか?

大島「縄文人が作ったものは9割以上が再生のシンボルでしょう。生理の周期とリンクして満ち欠けする月、女性の子宮、羊水としての水、それらは皆、再生のシンボリズムです。何か再生するものをシンボライズして、レトリカルに描いているだけ。

それを読み替えて、現代な美術感覚とか、経済的価値観とか、合理性とか、そんな解釈をしても全く意味がないわけです。シンボリズムとレトリックで読み解くと、縄文は本当に面白いんですよ。現代の感覚で縄文人を想像するのではなく、自分自身が縄文人になって、現代における縄文的なものを発見してほしいですね

 ―縄文人のタトゥーについてご意見を伺えればと思います。

大島「当然タトゥーはあったでしょう。それを立証するのはなかなか難しいかもしれませんが、その理由はやはり再生のシンボリズムです。縄文土器そのものが女性のカラダを象徴しているわけですから、縄文時代にタトゥーを彫る技術があったらそれこそ“効き目”抜群の紋様を究極のシンボリズムとして身体に刻んだことでしょう。

大島氏がユニークなのは日本の考古学において圧倒的な主流である土器の型式や年代を分類する編年研究に対し、それを乗り越えるべくシンボリズムとレトリックをキーワードに大胆に縄文人の世界観を読み解いてみせたことにある。
そこでは脱皮を繰り返して不死とされた蛇、女性の子宮、羊水、あるいは正史としての水、生理の周期とリンクして満ち欠けする月、それらが再生のシンボリズムとされる。さらにそのようなシンボリズムは農耕以前の人類に共通する生得的なものであると断言し、精神分析学のカール・ユングが神話や曼陀羅の研究から探求した全人類に共通する心の構造としての普遍的無意識を縄文の文様や遺跡の読み解きに応用しているのである。大島氏が読み解く縄文人の世界観は、1万年という時を超え「人間とは何か?」という最も根源的な疑問にあたらな気づきを与えてくれるものなのである。

以上。

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