2008.04.01
古代エジプトの謎に迫る。
こんにちわちわわです。
古代エジプト文明とは、エジプトで前3100年頃ナルムルによる統一王朝が起こってから、紀元前305年ローマ帝国に侵略されクレオパトラ7世の死により王朝が崩壊するまでまでをいいます。
これは、日本の縄文時代の頃の出来事で、前525年ペルシャの支配によりエジプト人の王朝が終焉し、外国人の支配下になる頃、日本でも、弥生時代に文化が移行しているのは全くの偶然でしょうか。
古代エジプト文明は、日本に通じる部分が少なからずあるように思います。
ナイル川の氾濫による肥沃な土がもたらす農業社会。
母系集団による共同体社会。
🙄 自然崇拝から派生した宗教による国家統合。
🙁 侵略を受けにくい地形による,安定した国家運営のしやすさ。
国家事業としてのピラミッド建設の謎。
最終的にはユダヤ人モーセの「出エジプト記」では奴隷制を非難され、エジプト軍は悪役にしたてあげられますが、奴隷社会の実態とはどんなものだったのか?
今、尚、謎に包まれた古代エジプト文明ですが、シュメールの掠奪文明メソポタミアとの比較も交えながら、古代エジプトの実態に迫ってみようと思います。
エジプトやるなっ!と思った方↓↓ぽちっと!
posted by tiwawa at : 2008年04月01日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.31
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの
前回、 「黒曜石の広がりは、交易か贈与か?」では、温暖化と人口増に伴い部族間の接触が頻繁になり、お互いの緊張関係を緩和する為に、自分達が大事にしているもの(黒曜石など)を贈与するようになったのでは、という仮設を立てましたが、そもそも交易と贈与とはどう違うのかというところにスポットをあて今回は追及してみた。
市場の始まりは交易からと言われるが、古代にあっては現在のように価格差を源泉に商人たちが利潤を得るために市場で商品を裁くという形態ではなかったようだ。
例えば、古代地中海に於いて、航海術で名を馳せた民族、フェニキア人の代表的な輸出品は紫の布や木材であった。これらは当時、一般庶民の生活には通常必要のないもので、要するに贅沢品であった。
航海術に長けたフェニキア人でさえ、品物を大量に船で輸出するのは、現在とは比べものにならないほど大きなリスクが伴ったに違いない。従って、これらの活動は領主や王など何らかの権威によって依頼され、それ相当の保証(収入や安全)を受けることでしか成立しなかった行為である。
以上、るいネット「フェニキア人の交易の移り変わり[1]~古代地中海の交易~」より一部引用
さて、一般に縄文時代に黒曜石の交易が盛んに行われていたと言われているが実際はどうだったか?
知りたいっと、思った方はポチッとお願いします。!
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posted by simasan at : 2008年03月31日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.30
中国、母系→父系制への転換期①: BC3000年の竜山文化は既に父系制・身分制へ
中国でいつ、どのようにして父系制に転換したのか?中国の社会の基本的な構造を押さえるにも、その後の東アジアへ父系制が広がっていったことを考えるにしても、そのことが非常に重要だと思う。またそれが東アジアの制度や観念・思想(ex儒教)のベースにもなっています。
そこで、父系社会への転換時期の状況を押さえながら、できる限り追求してみたいと思います。
まず、ほぼ明確に父系に転換したのは、BC3000年頃に黄河流域に成立した竜山(ロンシャン)文化からと考えられてます。
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posted by ihiro at : 2008年03月30日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.27
縄文時代の人口推算について
縄文時代のHPや書物などを拝見すると、よく同時代の人口推定があげられています。
また、この「縄文と古代文明を探求しよう!」ブログでも、人口推定を元にした、紹介や議論がなされたりしているのもよく見かけますね。
「東北地方に縄文遺跡が多いのはなんで?」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.html
「人口減少に憂う縄文人」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2006/10/000019.html
今回は、この縄文時代の人口推定をされた、小山修三さんの人口推定方法について簡単に紹介してみます。
参考にさせていただいたのは、「縄文学への道」小山修三著です。
結構メジャーな本なので、既にお読みになられた方も多いとは思いますが、お付き合いの程、よろしくお願いいたします。
まずは、推算された人口の表ですが、
「日本人の起源」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_12.html
で紹介されている表が、わかりやすいのではないでしょうか。
<人口一覧表>
「日本人の起源」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_12.html
人口密度を地図上に落としたものとしては、
<分布図>
「縄文基礎情報/人口分布」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2006/10/000014.html
このもととなったデータは、どうやって作られたのでしょうか。
↓続きをごらん頂く前に、ご協力を!!
posted by yuyu at : 2008年03月27日 | コメント (1件) | トラックバック (1) TweetList
2008.03.26
私権社会への変遷(弥生庶民の状況分析)
縄文時代が終焉し、弥生時代を経て日本はいよいよ私権国家へと変遷していくのですが、分岐点である弥生時代がるいネットやこのブログを通じてまだまだ明らかにされていないように思います。
私権社会への変遷のキーワードはそれまでの共同体が解体し、渡来人が持ち込んだ私権社会の様式に染め上げられていく課程です。日本の場合は他国と異なり侵略、武力支配の明確な転換点はありません。渡来人が持ち込んだ水田技術や婚姻制を含めた社会統合手法、私権規範などを刷り込まれることで徐々に(ではあるがわずか500年弱)私権社会へ変化していった可能性があります。
一方で、その後の歴史においても日本人としてのアイデンティティーは各時代を経て残存し続けており、それらが縄文時代に培った本源性であることは明らかです。それが、日本人が世界史的に見ても特殊で稀有な存在として注目されている所以でもあります。
つまり、「日本は弥生時代に私権社会へ一気に移行していない」のではないかという仮説を立ててみたくなるのです。
私権社会への変遷とは一言で言えば自我を正当化した私権観念の支配度合いであり、同時に略奪部族に対抗する為の超集団の統合手段でも在ります。私権社会への移行が遅れた、私権観念の浸透度度合いが比較的少なかった所以は自我を封鎖するしくみを残存させていたからであり、そのまま縄文社会の共同体が庶民レベルではかなり後まで残っていた可能性があるのです。私達は歴史の便宜上、縄文―弥生と時代を切り分けあたかも弥生時代でスッパリと庶民の意識まで国家統合へ向かったかのように思いがちですが、庶民レベルではきっと縄文社会の連続性の中に農耕を受け入れていったのではないか、そういう可能性も決して捨てがたいものだと思うのです。
これから数回に渡ってこのテーマを追求していきたいと思います。
「縄文時代から弥生時代に渡って果たして自我は封鎖されていたのか」
このテーマを解明する為に弥生時代の基礎資料が必要になります。
今回はその1回目として弥生時代の庶民の社会構造を見ていきたいと思います。
ポチッとクリックして社会構造を覗いて見ましょう!
posted by tano at : 2008年03月26日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.25
「自我」の壁を突き破ろう!
●新しい活力源をしめすことなく「市場社会」が壊れようとしています。
このまま世界は崩壊し、滅亡への道を歩むことになるのでしょうか?
この40年を振り返ってみると、’70貧困の消滅→私権の衰弱→自我の衰弱⇒本源回帰という大きな時代潮流は、誰の目にもあきらかになってきました。
このことは、新しい時代とは、私権社会から本源=共認社会への大転換であるということを示しています。
にもかかわらず、モンスター・ペアレンツや自己中殺人は残存し、マナー規制や労基法など、個人の権利を正当化する制度は、強化される一方です。
もはや弊害しか生み出せない「自我→私権」を最後の砦として守ろうとする社会。
何か根本的に誤っているとしか言いようがありません。
上記の時代潮流を、対象化し、新しい時代を実現しようとしたとき、真正面に立ちはだかるのは「自我」の壁です。
①この「自我」を縄文人は、どのように封鎖してきたのか?
②弥生人は、一気に「自我」を発現させてしまったのか?二層構造で、大衆は「自我」を封鎖し続けたのか?
過渡期の現在、②の追求も不可欠ではないでしょうか。
このブログでも、弥生時代の大衆に焦点をあてた投稿は、皆無に近い状態です。
今後、しばらくは、「自我をどう始末したのか?」という観点からの追求をしていきたいと思います。
できれば、皆さんの協働をお願いします。
応援お願いします 🙄
posted by naoto at : 2008年03月25日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.22
帝国の構造とは?・・・軍事力+経済力+商業力そして支配観念
歴史上さまざまな帝国が存在してます。ローマ帝国、モンゴル帝国、そして現代のアメリカ帝国・・・・・。その他にもいろんな帝国がありますが、帝国には基本的な構造があるようです。
モンゴル研究の第一人者の杉山明氏が、モンゴル帝国のコンセプトについて解説している。
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posted by ihiro at : 2008年03月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.15
中国文明:中国の地形と気候
今日は中国地図を記事にしてみたいと思います 🙂
ということで、こんな地図をつくってみました
中国地図vol.1 ここをクリックすれば大きくなります
中国大陸は広大っ 歴史を調べていても、場所がどこだがわからなくなる時もあります
その地の環境がイメージできると、歴史もより鮮明になると思います 😮
若干、現代的になってしまいますが 、当時の自然環境を大きく捉えることはできるのではないでしょうか
応援よろしくお願いします
byさーね
posted by sawatan at : 2008年03月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.13
古代エジプト文明の本源性の礎を築いた先王朝時代
こんにちわちわわです。
カッピカピさんに引き続いてエジプト文明の基礎を作った先王朝時代(石器時代)に目を向けてみます。
古代エジプトはメソポタミアと違って本源性が残されていると思われます。
ころころと国家が入れ替わるメソポタミアに対して古代エジプトか前3000年からローマ帝国に支配されるまで、3000年間も王朝時代を維持し続けたのも、自然を崇拝し輪廻転生の宗教観も安定した民族の証だと考えられます。
恐らく父系転換した遊牧部族が移住して作り出したメソポタミアと違って、狩猟採集民が肥沃なナイル河畔に定住して農耕転換したエジプト人は共同体的体質を残存させた事に起因していると思われます。
エジプト人おおっと思った方↓↓ぽちっと
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posted by tiwawa at : 2008年03月13日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2008.03.12
縄文集団はどのように争いを回避してきたのか?
前投稿で、集団規模の拡大→分割に伴う同類闘争圧力の増大について触れましたが、日常的に彼らはどのようにして争いを回避してきたのでしょう。
「贈与」以外の方法はなかったのでしょうか?
今回は日本社会システムの起源を参照させて頂きます。《一部編集》
他の単位集団との関係が問題になるとすれば,やはり生業をとおしてのものである。
すなわち,縄文社会の単位集団は狩猟・採集にかかわる領有圏,テリトリーをもっていたと考えられ,この領域の設定あるいは維持をとおして相互関係が不可避であった。
縄文時代に数千年にわたって人々が生活したことによって生まれた福井県の鳥浜貝塚の場合,「人口30人内外の集団を支えるために必要とされた領域は半径5キロメートル程度であったと思われる」と指摘している。
この領有圏内の植物資源,水産資源をそれぞれの季節ごとに多面的に利用しながら,この鳥浜貝塚の住人は豊かな生活を営んでいたことがわかっている。
この5キロメートルという領有圏は先土器時代と比較すれば小さな範囲となったことは確かだろう。
しかし,狩猟・採集・漁撈に良好な地域には単位集団が集中することは自然である。
したがって,この領有圏をめぐっては単位集団の自由な設定が困難であった可能性は高く,単位集団間の調整が必要とされただろう。
続きを読む "縄文集団はどのように争いを回避してきたのか?"
posted by naoto at : 2008年03月12日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList