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縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの

前回、 「黒曜石の広がりは、交易か贈与か?」 [1]では、温暖化と人口増に伴い部族間の接触が頻繁になり、お互いの緊張関係を緩和する為に、自分達が大事にしているもの(黒曜石など)を贈与するようになったのでは、という仮設を立てましたが、そもそも交易と贈与とはどう違うのかというところにスポットをあて今回は追及してみた。
市場の始まりは交易からと言われるが、古代にあっては現在のように価格差を源泉に商人たちが利潤を得るために市場で商品を裁くという形態ではなかったようだ。
例えば、古代地中海に於いて、航海術で名を馳せた民族、フェニキア人の代表的な輸出品は紫の布や木材であった。これらは当時、一般庶民の生活には通常必要のないもので、要するに贅沢品であった。
航海術に長けたフェニキア人でさえ、品物を大量に船で輸出するのは、現在とは比べものにならないほど大きなリスクが伴ったに違いない。従って、これらの活動は領主や王など何らかの権威によって依頼され、それ相当の保証(収入や安全)を受けることでしか成立しなかった行為である。
以上、るいネット「フェニキア人の交易の移り変わり[1]~古代地中海の交易~」 [2]より一部引用
さて、一般に縄文時代に黒曜石の交易が盛んに行われていたと言われているが実際はどうだったか?
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黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約60ヶ所が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地は、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、伊豆天城、箱根、北海道白滝村、伊豆七島の神津島・恩馳島、隠岐島、大分県姫島などが知られている。
当時、太平洋や日本海を丸木舟で渡って原石を求めたと言われるが、黒曜石は石器の材料として広域に流通していたことが考古学者の調査等で分かっている。また、アステカ文明などでは人身御供の祭祀として、現在ではメスや剃刀として海外で使われており、当時の部族に於いては貴重な財産だったに違いない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3 [5]『ウィキペディア』より一部引用
特に、北海道では古くは旧石器時代(約2万年前)から縄文晩期BC1,000年頃までにわたり数十万個の石器や破片が発見されている。産地はほぼ道内の特定の場所に限られ、産地一ヶ所当りに換算すると約1万個、これが約1万に渡り流通してきたと考えると、1ヶ所の産地で年間1~2個、最盛期でも数
個という換算
になる。
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図はhttp://kinobunka.zouri.jp/sirataki/kokuyousekiA/siratakisan.html [6]より引用
冒頭にも述べたが、交易の始まりは貴重品であり、特定の権力者の要請によって、商人達はそれに相当する見返りがあるからこそ危険を犯してまで手に入れる、或いは求めに行ったのである。
黒曜石は貴重品であることは間違いないが、当時、日本に於いては特定の権力社会があった事実はない。一部、三内丸山に王朝があったという説はあるが、ここに限られた話である。しかも、三内丸山に限った話ではなく、かなり広域に特定の産地のものが流通している。また、流通と言っても産地で年に1・2個、多くても数個が掘り出される程度であり、あまりにも数が少なく、しかもかなり広域に流通している。
これが交易と言えるものなのか、甚だ疑問ですがみなさんどうでしょうか?

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