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2008年12月06日

神社とお寺の関係とは、敵対関係か?それとも・・

古代日本の社会構造を押さえていく上で、現在も形があり、古代史の痕跡を残している神社を研究することは極めて重要性が高い。神社の起源、変遷を追求していくことで、古代日本の社会構造を徐々に明らかに出来れば。という仲間との会話で
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神社と寺との関係はどうなっていたのだろう?           
という疑問が出ました。 🙄
先に渡来した神社派の朝鮮系の豪族と、後から渡来した寺派の豪族の象徴・砦という趣旨から敵対関係という説が出ました。しかし、同じ豪族が両方を持っているので簡単に分けられらない。一体どうなっているのか?となっています。この疑問を追いかけてみます。 😀
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mansongeのニッポン民族学の
「天皇の信仰に見る日本人と仏教」から見てみます。ダイジェスト的に見ると
初めに仏教伝来前の日本の神は八百万の神々で精霊信仰だったが、記紀によって天照大神中心の神道説に変わる。これを「古代の宗教改革」という。
この宗教改革はどのように展開したのか
精霊信仰の日本の神が無形であり自然の中に棲んでいたのに対して、仏教の仏は仏像として造形されて寺院建築の中に安置され、その寺院は都市の中に建築される。この伝播方法を利用して記紀の神々は物語の中から、神社建築に祭られたり神像となって人々に伝播(展開)していく。これが神道理論(=宗教改革)を広めたとしている。
そして神道にある天皇の代替わりに伴う重要な祭儀の「大嘗祭」が仏教の火葬によって確立されていく。と展開する。ここでも神道と仏教は深く関わっている。神道と仏教は当初は豪族間の力関係を示すものだったが、最終的には国家を統一する手段として、お互いに深い関係になっていったと言えそうです。
以下は私の感想ですが、豪族達は神と仏の各々を使った伝播方式で国民の意識を染上げて行き、日本の歴史を自分達の手で作ることで国家を統一しようとしたのではないかと思います。
以下は抜粋です。
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▼仏教伝来前の日本の神
 葦原(あしはら)の中つ国、すなわち日本には、天孫降臨(天照大神の孫ニニギ命の降臨)以前から八百万(やおよろず)の神々が棲(す)んでいた。日本書紀には、日本を指して「彼の地には、多(さわ)に蛍火(ほたるび)の光(かがや)く神、また蠅声(さばえな)す邪(あや)しき神あり。また草木ことごとくに能(よ)く言語(ものい)ふことあり」とある。火山、森や草木、動物など、自然そのものが神だった[注1]。
[注1]天照大神中心の信仰が神道ではない。そういう意味で「紀記神話による神道」の成立は古代の宗教改革であった。
 さらに、仏教伝来前の日本人の信仰は、「神を崇める」と諡(おくりな)された崇神天皇の事蹟に見ることができる。崇神は天照大神と倭(やまと)大国魂神を祭り、八十万群神(八百万神)を祭った。また、三輪山を神体とする国つ神の代表であり祟(たた)る神、大物主神を丁重に祭っている。それから、大和の東西境の神である墨坂神と大坂神を祭っている。日本の神とは自然や土地の神々であり、祭らなければ祟る神であった。
▼仏教による新しい死生観と霊力
 記紀によれば、天皇(当時は大王)と仏教の関わりは6世紀の欽明天皇に始まる。いわゆる「仏教の公伝」であり、百済の聖明王が使いを遣わして仏典・仏像を献じた(「私伝」は当然これを遡るだろう)。ここから、若き聖徳太子もそこに巻き込まれた、後ちの物部・蘇我両氏の神仏闘争に至る。仏は日本人にとっては外蕃の神であった[注2]。それは、自然的な日本の神とは違い、文明の神であり、一つの総合的なテクノロジーであった[注3]。
[注2]日本人にとっての仏や菩薩は、仏教の教えそのままの存在ではなく、外国から来た新たな霊力を持った日本の「神」であった。
[注3]このことは、日本の神が無形であり自然の中に棲んでいたのに対して、仏は仏像として造形されて寺院建築の中に安置され、その寺院は都市の中に建築されたことからも分かる。神社建築や神像そして神道理論は仏教の影響下、作られるようになった。
 神仏闘争が崇仏派の勝利に終わった後、仏教に深く帰依し仏教による宗教国家を構想する皇子さえ現れる。聖徳太子である。太子は日本人誰もが認める偉人であるが、彼が第一に神道ではなく仏教の信仰者であったことにはもっと注意されなければならない。ただし、日本人の太子信仰が彼自身を、日本の神として、仏菩薩の生まれ変わりとして、また儒教的聖人や道教的仙人として描き出し、それらに何ら違和感を感じないということに、私は日本人の信仰を見出す。
 ともあれ、聖徳太子に代表される当時の皇族が出会った仏教は、日本人に新しい死生観と霊力をもたらした。それを媒介したのが罪と死の穢れである。古墳に埋葬され、やがて浄化されて他界へ旅立っていくものと信じていた魂が、自ら犯した罪によって地獄へと追い落とされ、そこでもがき苦しんでいたことを初めて知ったのだ。しかし、同時に仏教の霊力はこの魂を地獄から救済し得ることも知った。
▼大嘗祭は仏教の火葬によって確立された
 天武天皇とともに、壬申の乱を戦い、国号「日本」と王号「天皇」を定め、さらに皇祖神天照大神を祭る伊勢神宮を尊崇した持統天皇は、穢れなきはずの「天皇」天武が祟りに倒れ、崩御したとき、深く苦悩し、日本の神の無力さをつくづく感じたことだろう。天武の魂を浄化する殯(もがり)は二年二か月続いた。殯は死者反生(甦り)のためとも鎮魂のためとも言われるが、結局白骨化した遺骸が御陵に葬られたことだけは間違いない。
 問題は、殯の庭で腐敗し異臭を放つ天皇の肉体から、いかに天皇霊を救い出すかということにあった。殯宮に参集した僧たちは、穢れを火葬によって速やかに浄化することを勧めただろう。死の穢れを離れることなくして、天皇霊を新帝に移す大嘗祭はあり得なかったからだ(大嘗祭は天武帝に始まる)。結局、持統は偉大なる先帝の葬礼には旧例に大幅な変更を加えることなく、天武崩御の約五年後に自らの大嘗祭を行なった。
 しかし持統自身は違った。孫である文武へ初めての生前譲位を断行し、そのまま大嘗祭で穢れなき天皇霊を継承させた。そして自らの死に際しては火葬を命じたのであった。それでも、崩御した持統には約一年の殯が施されたが、遺命通り火葬に付され、夫帝が待つ大内山陵に合葬された。以後、例外はあるが、皇位継承として、生前譲位→新帝の大嘗祭→先帝崩御→火葬→埋葬、あるいは先帝崩御→新帝即位→先帝の火葬→埋葬→新帝の大嘗祭、という流れが定まった[注4]。
[注4]大変興味深いことに、自ら「仏弟子」を称し、全国に国分寺を、中央の東大寺に大仏を造った聖武天皇は、火葬されなかった。深い信仰によりすでに生前に魂が成仏したとされた聖武は、その肉体も浄化され仏身として転生したからだという。
 注目すべきは、神道の大嘗祭と仏教の火葬がワンセットになったということだ。これにともない、殯の期間が大幅に短縮され、文武の次の元明天皇ではわずか一週間となった。大嘗祭は火葬によって確立されたとも言える。実は、仏教こそが日本人に死の穢れを意識させたのだ。火葬による霊肉の分離はやがて日本人に遺骨信仰を生む。火によって浄化された白骨は、日本人にとっては故人の魂の化石となり、今に至るのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下略します。
尚、この後も現代の神道の有様も記載されており興味深いです。一読してみてください。

投稿者 sakashun : 2008年12月06日 List  

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