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2009年10月27日

近代民主主義から見た西洋と日本

http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2009/10/000943.htmlの中で
norioさまより
るいネット  実現論 第2部 私権時代 ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋)
で西洋文明と東洋文明の構造の違いが紹介されていました。
切り口は、本源集団の破壊度という観点でした。
これに引き続いて、近代民主主義という観点から西洋と日本の違いを記載した以下の投稿を紹介します。
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http://www.jinruisi.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=3379から引用します。
以下引用
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>西洋社会は政治システムとしての民主主義制度は日本よりははるかに確立されているのかもわかりませんが、現実は近代以前から現代まで一貫して厳然たる階級社会のままですし、強者と弱者の対立を力の論理で制圧する社会であるという本質は何も変わっていません。つきつめて言えばこれは「他には頼るものはない。結局最後は頼るのは自分しかない。」という「自立した個人」の対立を大前提にした(前提にせざるを得ない)意識(世界観)の産物であり、これこそ個人主義思想の本質ではないかと考えています。さらに言えばこれは狩猟民族として闘争序列を厳格に共認してきた民族性と徹底的な(壊滅的に氏族共同体を破壊しつくしてきた)侵略・略奪闘争を繰り広げてきた民族の歴史の積み重ねによる、西洋人の精神の伝統的本質であるとも考えています。
従って、西洋人にとっては、個人と個人の「対立」は当たり前の前提であり、力の論理で制圧することは当然のこととして共認されているのだと思います。(負けたら負けた方が悪いとあきらめざるを得ない。)ですから、いくらルソーのような問題意識が登場して、いくら「自然に帰れ」と叫んでみたところで、侵略と略奪の歴史とその根本原因たる自我・邪心と力の論理による制圧を徹底的に総括しない限りは、西洋人の共認の根本が変わるはずはなく、理想論は挫折せざるを得ないのです。
つまり、西洋の「民主主義」とは「個人の自我・邪心に基づく個間闘争による対立を(多数決という)力の論理によって制圧し、社会を秩序だてる考えかたとその手続き」というように言えるのではなかろうかと思います。
それに対して日本の民主主義は、(できれば別にまた詳しく論じたいのですが)基本的には前述した様に、「対立」よりも「相互理解(=共認)」や「和をもって尊しとなす」精神を旨としており、力の論理による制圧を日本人は好みません。日本人は対立を前提とした「個人の自由で主体的な判断」によって、力でねじ伏せられるのは納得がいかず耐えがたいのです。
ですから、「個人の自由で主体的な判断」を主張しあうことより、「皆で知恵を出し合って考える」ことの方が好きなのであり、その方が向いているのです。
考えてみたら日本人の方が、よっぽど「民主的」な民族と言えるかもわかりません。
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引用終わり
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本源集団がばらばらに解体された西洋の「民主主義」とは「個人の自我・邪心に基づく個間闘争による対立を(多数決という)力の論理によって制圧し、社会を秩序だてる考えかたとその手続き」については、なるほど!と思います。
片や日本の民主主義は個人の自我ではなく、共認を基本としている。大きな意識構造の違いが心底にありそうです。

投稿者 sakashun : 2009年10月27日 List  

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