2020.08.13
縄文人は他のアジア人とは異なり、独自に進化した集団。
縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指します。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴です。
世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されています。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきました。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていましたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていませんでしたが、福島・三貫地貝塚人骨の核DNA解読に成功し、「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことがわかりました。
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2020.08.06
密教~性を肯定視した教え~性を通して宇宙に繋がっている。
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2020.08.06
縄文人と自然災害~貝塚に見る縄文人の災害意識
今年も長雨と集中豪雨の影響で日本全国で甚大な被害をもたらしました。 近年は毎年、なにがしかの災害に見舞われ、いつどこで起こるかわからない天災に対してさすがに警戒心も高まってきているように思えます。
縄文時代は1万年続いてきたわけですから、そりゃあもうたくさんの自然災害があったと言えます。
遺跡にはしばしば火山灰の堆積層や、土石流などの堆積層があらわれたりします。地震ではっきりと地層がずれていることだってあります。平和に暮らしていたとされる縄文人だって自然には随分悩まされていたのでしょう。
縄文時代は早期。場所は九州南部。この地域はこの頃の縄文文化のトップランナーでした。作られる土器は他のどの地域よりも洗練され、多様で、おしゃれをするためのものも大量に出土しています。しかし今から7300年前、鬼界カルデラの大噴火という九州南方の海域で起きた噴火で、九州どころか西日本の縄文文化は壊滅的なダメージを受けてしまいました。ほとんど全滅といってもいいくらいの破壊だったようです。
噴火はもちろん九州だけではありません。東北では十和田火山、もちろん富士山だって何度も噴火しています。そのたびに縄文人はその場を去らなければならなかったのでしょう。
それからよく言われるのは津波や河川の氾濫などの水害の対策です。実際東日本大震災ではほとんど100%、太平洋側にたくさんあった縄文時代の貝塚は津波の被害に遭っていません。津波の来ない高台を選んで縄文人は集落を形成していたためです。縄文時代の集落のあった場所の地形を見るとほとんど、全くといっていいほど、大きな河川の支流が近くを流れる台地の高台のへりに作られています。これは自然災害を折り込んで集落を作っていたからなんでしょう。
縄文ファン https://aomori-jomon.jp/essay/?p=8465より
「縄文時代にも災害はあったのですか」と中学生から質問を受けました。その答えは「もちろんありました」です。 災害といってもいろいろあるのですが、考古学的にわかるものに火事があります。多くの縄文遺跡から、焼け落ちた住居の跡がみつかっています。
そして地震。最近は地震考古学という新しい分野が注目されています。地震の証拠である液状化現象や噴砂の跡だけでなく、広い範囲で地割れや地すべりの跡、長い活断層もみつかっています。縄文時代だけでなく歴史時代の記録を参照することで、実証的な成果を挙げています。
地震に関係して津波があります。東日本大震災で大きな被害をうけたことが発掘や研究を進めました。東北地方の太平洋側は古くからたびたび津波に襲われているのですが、青森県の三八地方から福島県にかけての海岸線にある480ヶ所の貝塚を調べた考古学者の岡村道雄さんは、縄文人は津波の怖さを知っていてムラを高い場所に作っていた、だからあまり被害を受けなかったのだと考えています。
大規模な被害といえば火山があります。 日本では7200年前の鹿児島県の鬼界カルデラの爆発があります。その火山灰は南九州では1m、北九州、瀬戸内海、近畿地方では20cmもの厚さに積もっています。雨にうたれると表面がコンクリートのようにかたまるので、植生が大きく変わったのです。その影響で西日本の縄文社会は力を失ったのだと私は考えています。
火山活動は大陸プレートの動きと関係するので、この時代は東日本でも活発でした。例えば東北では十和田火山の噴火が知られています。ところが、三内丸山遺跡では、噴火によって森が壊され疎林や草原になった環境を利用して社会力を伸ばしていったと辻誠一郎さんは考えています。西と東に見られる地域差は火山噴火の規模によるということもできますが、災害に対処する知恵や技術も重要だったと思います。
災害の被害の大きさは人の集まり方(都市化)にかかっているともいえるでしょう。少人数のグループが物をあまり持たず、住居も簡単である狩猟採集社会は、簡単に移動して難を避けることができます。オーストラリアの中央砂漠で調査をしていた頃、時ならぬ大雨で、近代的な都市アリス・スプリングスは洪水で機能マヒをおこしたのに、周辺に住むアボリジニたちは丘に上ることでらくらくと難を避けたという話を聞きました。電気、水道などのライフラインに象徴されるような文明の利器に囲まれた私たちの生活がはたしてすべてなのかどうか、もう一度考える必要がありそうです。
海洋制作研究所 https://www.spf.org/opri/newsletter/272_3.html
貝塚と大津波―縄文に学ぶ未来の景観
貝塚は残った
3月11日、大地震を引き金に東日本の太平洋沿岸を襲った大津波は、津々浦々の美しい村や町を人々の生活とともに呑みこんでいった。 大きな被害を受けた三陸地方の沿岸は、縄文時代の貝塚が多いことでも有名である。宮城県だけでも3百を数える。今回の大津波で、貝塚などの貴重な遺跡もまた、大きな被害を受けたのではないだろうか。私は、じつは、そうではないと思っていた。国土地理院などが公開した津波の浸水域が、貝塚の位置と微妙に食い違っていたのである。実際に、現地を見て回ると、多くの貝塚が津波の被害を免れていた。ある貝塚では復元された竪穴住居の横で自衛隊の人たちがキャンプしていたり、子供たちが遊んでいたりしたのが印象に残っている。
職住分離型の生活
東北地方の貝塚は、およそ5千5百年前から3千年前の縄文中期から晩期にかけてのものが多い。貝塚は、教科書などでは縄文時代のごみ捨て場と紹介されているが、多くの場合、すぐ隣に大きな集落を伴っており、生活の中心になる場所だったと思われる。貝塚に含まれる動物の骨からは、当時の人びとがじつにさまざまなものを食料にしていたことがわかる。魚は、マグロやタイ、イワシなど外洋から内湾のものまで、動物には、イルカなどの海のものから、陸ではシカやイノシシ、クマ、ノウサギ、タヌキにいたるまで幅広く食されていた。宮城県の松島湾は、複雑に入り組んだ海岸線と島々で独特の美しい風景が広がり、日本三景のひとつに数えられているが、この地形が、縄文時代以来のものであることはあまり知られていない。縄文時代中ごろの日本の海岸線は、今よりも3~5メートル高く、内陸深く入り込んでいた。しかし、松島湾周辺では地盤が縄文時代以降、海と同じペースで沈んでいったため、当時の海岸線がほぼそのまま残っている。ここにも、貝塚が数多く、70個あまりが知られている。これらの遺跡は、海岸線にほとんど接しているように見える。しかし、実際は標高15~30メートルの高台にあり、被害を受けずにすんだ。このように、当時の集落の大半はいわば海と山の接点にあって、調査しても災害の形跡が見当たらない場合が多い。人が住んだ場所には、必ず何かの痕跡が残るもので、津波を受けなかった集落だけが今まで残ったわけではない。それでは、なぜ貝塚は被災を免れたのだろうか。 私は、その秘密が当時の生き方にあるのではないかと考えている。狩猟や漁労、木の実の採集など、自然の資源にそのまま依存して生きた人びとは、じつにさまざまな環境を利用していた。効率良く食べ物を集めるために、海にも山にもどちらにも行きやすい場所。それが、貝塚が高台に作られた理由なのではないだろうか。多様な環境を、いわば「広く薄く」利用していたために、津波や山崩れなど特定の場所をおそう災害から逃れられたのではないか。 一方、弥生時代より後になると、遺跡に災害の痕跡が目立つようになる。例えば、内陸に4キロメートルの場所にある仙台市の沓形(くつかた)遺跡では、今回、すぐそばにある高速道路が防波堤になったおかげでかろうじて被害を受けなかった。しかし最近の調査では、およそ2千年前の大津波によって水田が断絶し、以後4百年にわたって人が住まなかったことがわかっている。農耕中心の生活が始まると、水田などの耕作適地に集中的に投資が行われ、特定の環境を「狭く濃く」利用するようになった。生活の中心と仕事場は同じ場所に営まれ、生産の効率は上がり、人口も増えたかわりに、災害に見舞われるとすべてを失う弱さをかかえるようになったのである。特定の土地に執着するため、何度も同じ災害にあう傾向も生まれた。
人間の限界を認識する
縄文時代と弥生時代とでは、自然観が大きく違うと考えている。縄文人は、人と自然とを切り離さず、人の力が及ばない領域(あの世)を強く意識していた。人も食べ物も、「あの世」から訪れた客人であり、それぞれの役割を終えた後に、再び「あの世」に戻っていく。その客人を精一杯もてなし、にぎやかに送り出すとともに、再来を願う儀式が行われた場所こそが、貝塚だったのではないか。貝塚には、人も埋葬されている。集落にほど近い場所でこのような営みが繰り返されたからこそ、大きな塚となって残ったのである。弥生時代以降は、自分たちの管理下にある領域を自然からはっきりと区別するようになった。自分たちで食料を栽培し、自分たちで自然を変えることができる、そう思い込むようになったのではないか。 今の日本人の生き方は、弥生時代に近いようだ。弥生人が稲作に適した低い土地に集中し、自然を切り開いていったように、現代人も、仕事に通いやすい、便利な場所に人が集中し、極端な自然開発をおしすすめてきた。被災地の人たちが、もとの暮らしを取り戻したいと考えるのは当然のことである。しかし、悲劇を繰り返さないように、今後の地域のデザインを考えていく必要があるだろう。歴史のかなたに埋もれていると思われている縄文人だが、彼らの「広く薄く」環境を利用する営み、働く場所と住む場所を切り離す一方、自然からくらしを切り離さないという思想に学ぶところは多いのではないか。 今回の災害は、千年に一度のものといわれている。悲しみを乗り越え、長い目で地に足のついた景観を作り上げていくために、歴史を見渡して、遠い先人たちの知恵を活かすことが、今こそ必要になっているのではないだろうか。
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2020.07.30
空海の仏教~曼荼羅にみる女性原理と宇宙観
真言密教で描かれている胎蔵界曼荼羅は、物質原理や女性原理を表しています。 中央の大日如来が大宇宙を遍く照らしている図となっており、それによって宇宙の発展形態が示されています。 大日如来の光が全宇宙に広がることで一切が成立している様子(物質原理)と、女性の胎内で生命が成長するように大宇宙が生成発展する様子(女性原理)が描かれているのです。
一方、金剛界曼荼羅は、精神原理や男性原理を表しています。基本となる大枠が9マスあり、右下から渦巻き状に進んで中心(内なる宇宙)に達するように描かれています。心が進歩向上し、即身成仏するプロセス(階梯)というわけです。即身成仏は、特に男性の役割であると考えられたのでしょう。
空海は、女性原理と男性原理を用いて曼荼羅で宇宙の原理を表現しようとしました。
今回はちょっと難しいけれど、空海が求めた即身成仏(生きながらにして悟りを開く)道について紹介します。
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2020.07.30
空海は縄文である2~密教の本質は徹底した現実肯定にある
前回「空海は縄文である」という記事を投稿しましたが、密教そのものの思想性については詳しく触れていませんでした。
最近、梅原猛氏の「空海の思想について」という著書を読みました。その中に空海の説いた密教の本質が描かれていました。今回はそこを切り取って転載する中であたらめて空海は縄文であるという所以を考えていきたいと思います。
釈迦の説いた仏教と空海の説いた密教、それはまさに180度反転した思想でした。
私は空海の持つ縄文体質故にが中国で密教直系の恵果から「運命的出会い、来るべき人」として全面的に迎えられ、伝えられたのでしょう。その縄文性とは密教の持つ現実肯定であり、物質の中に精神が宿るとしたアニミズム性です。
以下、7つの本質と思しき文節を紹介します。
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仏教がもっていたこの現世にたいする否定的精神を否定する。
それが密教の精神であり、それこそ、大乗仏教の究極的精神であると彼は言う。
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つまりここで、仏教そのものが釈迦依頼その内面に深くもっていた世界に対する否定の意志をほぼ完全に放棄するわけである。もとより、世俗の世界を構成している欲望がすべてを肯定されるわけではない。あの人間を不幸に落とし入れる欲望は否定され浄化されるが、しかし欲望そのもの、浄化され普遍化された欲望そのものは大欲として肯定され、そして世界そのものはかつて仏教の歴史において存在しなかった強い全面肯定の感情で、ほぼ全面的に受け入れらるのである。
世界というのはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限な宝を見つける事ができない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある。世界の無限の宝を開拓せよ。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。
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身とは六大であると、空海はいう。六大とは何か。六大とは、地水火風空の五大に心を加えたものである。
このうち五大は、いわば物質的存在である。地水火風空の5つの原理で、あらゆる物質はできていると考える。しかし、物質的原理のみで、ものは存在しているのではない。物質的原理に必ず精神的原理が加わっている。この精神的原理が、心と言われ、識といわれ、また覚といわれ、智といわれるものである。
ここで身体性の原理が100%肯定されているのである。この身体というものは多くの宗教においてわれわれの精神的な活動をさまたげる悪なるものと考えられてきた。西洋のプラトン哲学においてもそうであるし、キリスト教においても、そういう傾向が強い。仏教においてもやはりそうである。それは釈迦仏教をそのまま伝える阿含系の仏教においてはもちろん、また大乗仏教の龍樹、世親においてもそういう傾向はまぬがれなかった。
しかし、ここで身体性の原理を、はっきり肯定するのである。この身体を除いて、どこにわれわれの住む世界があろう。
身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。密教はあの唯識仏教のように、単なる唯心論ではないのである。そうではなくてそれは、物質的原理を、精神的原理以上に強調している。身体はすなわち、わが内なる物質なのである。物質が肯定されるとき、客観的世界が肯定される。密教は偉大なるコスモロジーをもっている。コスモスの中で我々の存在が考えられるのである。
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密教は世界をその表現の相においてとらえる。この表現というのが声字である。声字というのは、ただの声ではない。すべて、われわれが感覚でもってうけとることの出来る世界の告知はすべて声なのである。密教は表現的世界を重視する。この点においても、密教は浄土教や禅と異なる。しかも密教は、この表現的世界が無限に深い意味をもっている事を強調する。われわれは、表現的世界を通じて世界を把握する。しかしその表現的世界はあまりにも深い意味をもっていて、いくらわれわれがそれを把握しようとしても、常にわれわれの指からもれるのである。そういう容易に捉えがたい深い意味を、そのような表現的世界はもっているのである。密教はこの深い意味をもった表現的世界に肉薄しようとする。
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この世界は愚者にとっては迷いである。しかしその同じ世界が智者にとってはむしろ楽しみなのである。この世界はもとより、妄見ではないが、しかしそれは永遠のものの現れなのである。現れた世界はそれなりに楽しい世界なのである。密教においては、悟りはまた楽しみなのである。この世界はこのように二面性をもっている。この世界をよく悟り、その世界によく遊べ、それが密教の教える生の哲学である。
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人間はいつもとらわれの世界に住んでいる。自己にとらわれ、他者にとらわれ、小さな世界に捉われているので、自由を得ない。自由をえないから本当に楽しくない。そういうとらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体になることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる。空海の語った事も、所詮、そのような単純なことにすぎないように思われる。
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密教は無我を言わない。無我の代わりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲をとく。ここが密教と他の多くの仏教宗教、たとえば禅とのちがっているところである。
禅では否定の契機が強いのに対し、密教では肯定の契機が強い。人間ばかりか、一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。しかも我と欲は人間存在の根源であるとともに、あらゆる人間的論争と妄想の根源でもある。この我と欲を脱却せよ、禅はその為に、無我、無欲を説く。しかし果たして人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることでないとしたら、いたずらに人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。密教は何よりも強烈な生命力を説く仏教である。
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2020.07.23
性欲と独占欲は繋がっているか~かつては男も女も互いの性を尊敬していた。
先日、とある会議で性について扱われた。
性欲は独占欲と繋がっており、相手をモノにしたい、独占したいという意識から性のスイッチが入る。
これは誰しも経験していると思うが、5000年前の私権社会以降、人類の性は独占欲と性欲が一体の物、或いは連動するものになっていった。特に恋愛至上主義が高まる近世以降はいかに最良の相手を自分のものに独占するかが人生の命題にまでなり、恋愛小説を初め、歌や日常会話までそれがごく当たり前、疑う事のない常識になっていった。
そして70年代豊かさが実現し、80年代から私権の崩壊現象が始まり2000年を超えるとセックスレスが常態化し始める。明らかに私権=独占の引力が失われた。しかし人々の意識は未だに性=独占、いかに彼女、彼氏をゲットするかに頭が捉われている。
その結果、草食男子は女が怖い、肉食女子は男を貪るなどとんでもない逆転現象が起き、あげくには結婚しない女、男が大量に発生し、男女関係が壊れている。もちろんこれが続けば少子化どころか人類滅亡だ。
どうしてこうなってしまったのか?
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2020.07.23
高野山~真理を追求する下界から切り離された悟りの山
最澄と空海、天台宗と真言宗、比叡山と高野山。
平安に生まれた2大密教には、比較に値する大きな違いがあります。 政界に近い最澄の天台宗に対して、民間の庶民から生まれた空海には、政界に取り入ろうという野望は微塵もなく、ひたすらに真理を求め、真言密教を確立した体系へと追求しつくしました。
比叡山が、京都を一望するお山であるのに対して、高野山は人里離れたお山であり、日常の煩悩から解き放たれ、生きながらにして悟りを開き、即身成仏するにふさわしい環境を整えています。
何重にも重なる杉木立の山々に囲まれた、115の寺院からなる高野のこのまちには、今でもお大師さんを慕って訪れる人々の想いと密教を極めようとするお坊さんの想いが息づく、特別な世界が残存しているのです。
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2020.07.16
空海は縄文である~”無垢の知”でもっていかに生きるべきか
今回は空海の事を書いてみたい。空海は縄文であるとはよく言われるが、その根拠は様々ある。
1番は祖先がエミシ(佐伯)であること。
2番目は自然の摂理に徹底的に同化している事
3番目が宇宙の体系を人体に同一化させた事
彼が最も為した成果は「無垢の知」を探求した事であり、その精神世界である。
追求こそ原点であるとした空海の教えは現代でこそ逆に生き生きと蘇ってきている。
空海を書かれているブログはたくさんあるが、中でも縄文と空海に焦点を当てた下記の記事を紹介してみたい。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/s.html
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2020.07.09
子供が真ん中にいる社会~明治初期の外国人が見た日本
子供がすくない、あるいは産まなくなった社会は極めて危険だ。
逆に子供がそこらじゅうにいた江戸から明治の社会は子供の教育という点においても極めて健全だった。さらに大人たちは本当に子どもを皆で可愛がり、同時に自分の子供も他人の子供も同じように可愛がった。常に子供が社会の中心にあり、中でも赤ん坊や幼児への愛情は現在から見ると桁外れに大きなものだった。そういう中で年長の子供が下の子供を育て、子供が子供の中で育てられていった時代。現代のような核家族もなく大家族や地域共同体がしっかり残っていた時代である。
子供をどのように育てるかというのと、家族の人数や形態は実に一体のものであった。何を教えたか、著書では“秩序”や”躾“と書いているが、社内で生きていく術の全てを言葉を覚える事から教え込まれていく。親だけでなく周りの大人、年長の子供たち、皆で教えていく。つまりどう生きるかを伝えていく過程ではないか?
この時代に戻れとは言わないが、子供たちが社会の真ん中に居られるような社会にはせめてしたいものである。
「欧米人の見た開国期日本」の著書の中から紹介したい。
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2020.06.25
女たちはなぜ強くなったのか?⇒元来、女性は強い。江戸末期から明治初期の女たちと現代女性は驚くほど似ている。
現在は女が元気に時代だ。
私の会社にも女性が2割程度所属しているが、社内にいつも響いているの女性たちの笑い声や話し声。また仕事の場面でも安定した成果を出すのは活力の高い女たちである。また、ここ数年は社会的にも女が強く、男は中性化(女化)してしまっている。差がないというか明らかに女性が元気だ。
日本の女性はいつからこんなに強くなったのだろうか?確かに自由や恋愛、男女平等とった西欧由来の近代思想の影響はあるが、そもそも(日本の)女とは弱いものではない。
特に集団がしっかりあり、役割があり、女仲間がいる日本のかつての社会を見ると実に現代と何も変わっていないのだ。そして女たちは生き生きしており、強い。女のかわいさ=美しさとはそのりりしい強さも示している。
下記「欧米人の見た開国期の日本」の著書の中から実際に見た、書いた外国人の外交官達の言葉から当時の女性を浮かび上がらせたい。
切り抜きになるので、繋がっていない部分もあるが想像して読んでもらえれば幸い。全て150年前の明治初期の話である。
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日本女性の社会的地位を著しく低いとする意見がある一方、オリファントのように、日本の女性の地位をむしろ西洋女性のそれに近いと見るものもある。彼によれば、日本女性は東洋で一番多くの自由と享楽が与えられているという。「東洋には」という条件がつきながら、男性の下位に置かれているものの日本女性は、他の諸民族にくらべて一番地位が高く、一番自由であり、ずっと尊敬と思いやりで遇されているとする意見は、オリファントのほかにも多くみられる。
どういう点で彼らは日本女性が東洋で一番自由と享楽を与えられていると見たのであろうか?さきほど述べたように、彼らは上流の妾女を、まるでハーレムの女性のようにほとんど軟禁状態におかれ、外出もままならないとみた。一方で中・下層の女性については、彼らがいちように驚愕してその解釈に頭を悩ませたように、湯屋で平気で男女が混浴し、裸のままで家に戻る事実を知った。
それだけではない。彼らは中・下層の女性が、自由に外出し、とくに女どうしが互いに行き来し、長居しておしゃべりを楽しんでいる事もとくに注目している。彼女たちが社交好きで、物見遊山にも出かければ、舟遊びも楽しみ、とくに芝居見物を非常に好み、自分自身でも踊りや三味線をたしなんだことについての指摘は多い。こうしたばあいには、男性も加わるのが普通で、アンベールは男女が何の拘りもなく会話のできるのが日本だと感心している。
今と変わらないと言えば娘たちの生態もそうである。男尊女卑社会といっても娘たちは結構甘やかされてたらしい。スエンソンが日本娘の青春謳歌をつぎのように描いている
「若い娘は自由きままを満喫していて重労働をやらされることも稀で、娘時代になすべきふたつの仕事、楽しむ事と身を飾る事に身分相応、十二分に没頭する事ができる。娘たちの優雅なる暇つぶしは笑う事、おしゃべり、お茶を飲む事、煙草をふかすこと、化粧、それから何度もある祭りの催しに参加する事である」
とはいうものの中・下層の女性たちはこうした社交や遊びにうつつをぬかしていたわけではない。彼女たちの労働についても欧米人はしっかり観察している。オレインブルグの一行は商家の店先に女性が売り子として座っていることを見ているし、多くの茶店や旅籠に給仕や女中として、女性が忙しく立ち働いているさまについては多くの報告がある。
商売ではどうやら女性が主役を演じていたようで、ウィリアムズは下田で観察したところとしてその日記につぎのような記録を残している。
「女たちが商売の切り盛りになんともえらい働きをしているかを見て、驚かされたものだった。うすのろ亭主が、われわれが買おうと思っている商品の値段について、女房の考えを聞かざるを得なかったことから、がみがみ女房といっしょになって亭主をからかい、面白がっている大勢の連中を見た事がある。どの店でもほとんどが台のところへ出てくる。何事であれ女はしゃしゃり出るのだ」
女の仕事は商売にだけとどまっていたわけではない。アンベールは、女たちはすべての産業部門にその働く部署をもっていると言い、江戸の本所地区で見たところにもとづいて、日本には大規模な工場は存在せず、家族労働による家内工業であることに注目している。家内工業には男ばかりか、女たちも働いたのである。たいていの家では男は何もしないで囲炉裏端に陣どぅてタバコを吸っているだけだが、女たちはみな糸を紡いだり、縫物をしたりというように忙しく働いていた。
会津戦争に従軍したイギリス人医師ウィルスは越後地方の女性を日本の代表的美人とみているが、ただし、彼女たちはなよなよした美人なのではなく、たとえば険しい坂道を背負って黙々と運ぶたくましさと忍耐力をそなえている。
クリフィスはそれらとは別に、彼の著書「女性の地位」という一章を設けそこで一般論として、日本の女性(妻)は表向きは男性に服従してるが、実際は気転、言葉、愛嬌、魅力などによって男性(夫)を巧みに支配している。と分析している」
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次回以降には同様に男の事を書いてみたい。女は元来強い生き物。だとしたら男は何か?
私は男は没頭したり熱中したり、・・・つまり追求力の強さである。それが時代とともに変わったのか変わっていないのか。女が150年前から変わっていないとしたら、男も実は江戸時代から大きくは変わっていないのではないか?そこに期待をして記事を探してみます。
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