2010年6月18日

2010年06月18日

シリーズ「インドを探求する」第4回 【インダス文明とドラヴイダ人】

私たちが、縄文という社会をはなれ、インドを追求する目的は、彼らに次代をリードする本源性が残されているのかという点にあります。
そのような視点で、インドという国を理解するには、これまでの一般的な「インド=アーリア文化」という一面的な捉え方ではなく、「北インド・アーリア文化」と「南インド・ドラヴィダ文化」という切り口が手がかりになりそうです。
同時に、本源性の残存度を考究する場合、私権性が問題となり、それを解明するには、社会・集団の最基底部にある婚姻制はどうだったのかという視点が不可欠となります。
そこで、今回は、ドラヴィダ人に焦点をあてつつ、南インドにおける婚姻様式をナヤール族を例にしながら探っていきたいと思います。
「知られざる人類婚姻史と共同体社会」ブログより
南インド ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会~ドラヴィダ人とは?

南インド ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会~ヒンドゥー父系社会の中の母系社会

を引用させていただきました
●インダス文明とドラヴイダ人

インダス文明は、紀元前2500年ころから1800年ころにかけて、インド西北部インダス川流域を中心に栄えた都市文明です。唯一の残された文字資料である印章その他に刻まれた「インダス文字」が、いまだに解読されていないため、残念ながらその担い手がはっきりしていませんが、その最有力候補がドラヴィダ人です。ドラヴィダ人は、紀元前3500年くらいに中央アジアのどこかからアフガニスタンを経由してインドへ進出してきたものと考えられているので、「インダス文明」の担い手はドラヴィダ人である可能性はきわめて高いと思われます。

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●ドラヴイダ人の南インドへの移動

インド北西部に居住していたドラヴィダ人は、紀元前1500年くらいに、その地に侵入してきたアーリア人によって押されるように南進を開始します。一部はそのなかに吸収されましたが、他は徐々に東部、南部へと移動を開始し、主力は南進し、二手に分かれた一派がテルグ語そのほかからなるグループとしてデカン高原に広がり、タミル語・カンナダ語ほかからなるもう一派がその南方に居住するようになりました。
南インドへ移動したドラヴィダ人は、完全にはアーリア人武力支配下に置かれることはありませんでした。その状況下で南インドに「ドラヴィダ文化」と呼べるような文化が根付いていきます。ただし、「北インド・アーリア文化」と「南インド・ドラヴィダ文化」は、それぞれが独立したものではなく、長い時間をかけて相互に影響を与えつつそれが塗り重ねられて形成されたもののようです。

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投稿者 naoto : 2010年06月18日  



 
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