| メイン |

2007年12月15日

中国への仏教の普及

 シルクロードから中国に伝わったものに「仏教」があります。
 今回は、中国への仏教の普及を調べてみました。
yokoyamaさんのホームページ 世界史ノート 六朝時代の文化から、紹介(引用一部省略)します。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/53-china13.html
🙄 中国にはいつごろ「仏教」が普及したのだろう?
 

魏・晋・南北朝時代に、中国において仏教が社会一般に普及しました。
 仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされてきましたが、最近は「紀元前2年に長安の前漢の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節がやってきて、仏陀の教えについて語った。」という記録から、年表等にも前2年と書かれています。いずれにしても紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよさそうです。
 しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われたか、シルク・ロードを通ってやってきた西域の人々に信仰されていたにすぎなかったはずです。
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦乱が続くどうしようもない状況のなかで人々は否応なしに死について考え、救いを求めました。こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まっていきました。

 

 にほんブログ村 歴史ブログへ


誰が「仏教」を広めたんだろう。いろんな文献も作られたようです。
 
 

仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物は仏図澄(ぶっとちょう、?~348)です。仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛んで、付近にキジル千仏洞がある)に生まれました。本名はブドチンガと言います。310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めました。寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと言われています。
 仏図澄と同じ亀茲の人で仏典の漢訳に大きな功績を残したのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344~413)です。本名クマラジーヴァと言います。父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒でした。7歳で出家し、中央アジア・インドで仏教の教理を学びました。前秦の苻堅の亀茲遠征の時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、そこで中国語を学びました。のちに後秦王の国師として長安に迎えられ(401)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳しました。
 以後、仏教は華北では北魏の朝廷の保護を受けて(太武帝は弾圧したが)盛んとなり、また東晋から南朝にかけて江南でも仏教は非常に盛んでした。多くの仏寺・仏像が造られ、僧尼の数は激増しました。特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出しました。
 東晋の僧、法顕(ほっけん、337?~422?)は出家生活に必要な戒律の原典を求めるために、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発し(399)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝の時代)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得て、セイロン(現スリランカ)に渡り、インド・セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国しました。帰国後は仏典の漢訳に従事しました。その旅行記「仏国記」は、当時の西域・インド・南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献です。

😀 いろんな仏寺・仏像が盛んに造られました
 

仏教の隆盛とともに仏寺・仏像が盛んに造られ、また各地に石窟・石仏が掘られた。特に敦煌(とんこう)・雲崗(うんこう)・竜門の石窟は中国の仏教遺跡として有名です。
 敦煌莫高窟(ばっこうくつ、千仏洞ともいう)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)までの間に約1000窟が掘られ、492窟が現存しています。仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれています。1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類・古写本・古文書が発見されました。なぜ大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかという謎を11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守るために隠したとの解釈で書かれているのが、有名な井上靖氏の「敦煌」です。
 雲崗の石窟は、鮮卑族が建てた北魏の初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所にある大石窟寺院です。3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(位452~465)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494)までに大小53の石窟を東西1kmにわたって造営されました。ガンダーラ・グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでいます。特に有名な大仏は高さ14mもあります。
6610_1%5B1%5D.jpg
 孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母のために2窟を開き、さらに自らのために1窟を開きました。完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと言われています。以後、唐の玄宗皇帝(位712~756)までの約250年間に2100余の石窟が開かれました。その仏像は雲崗のそれに比べると中国化しています。 
longmen2.jpg

投稿者 norio : 2007年12月15日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/12/398.html/trackback

コメント

リンク先を変えてください。
http://jomontaro.web.fc2.com/

投稿者 JWF : 2008年1月5日 07:16

「縄文ワールド」はその多様性、独創性、素朴さのせいで—
素朴、とんでもないことをおっしゃるものだ!

投稿者 JWF : 2008年1月10日 11:46

JWFさん、コメント有難うございます
リンク変更しました。
「縄文ワールド」のすばらしい世界を教えていただき有難うございます。
これだけの「アート」を一同にまとめられたことに敬服します。
「素朴」という表現は確かに、縄文の造形の一種おどろおどろしさからすると、適切ではないかも知れませんね。
が、その造形が縄文人が抱いたと思われる精神世界を変にソフィスケートすることなく、感じたままにに表現されているのではと私には感じられたので、素朴という表現をいたしました。
JWFさんも仰っているように、今度は実物を是非見て周りたいと思います。

投稿者 ryujin : 2008年1月10日 23:53

この縄文土器は、北米の陶器のように見えます。それらを作るための技術も同じです。文字列の装飾ポットは、古代の北米で一般的でした。私はなぜだろうか?我々は、これらのも好き人形を持っています。たぶん、縄文と古代ネイティブのアメリカ人が関係していた?

投稿者 ライアン : 2010年12月7日 16:27

コメントしてください

 
Secured By miniOrange