「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 最終回~葛城ネットワークは日本を守る共認ネットワークだった~ |
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2013年08月10日
「個のない民、ケルトから学ぶ」3.”察する”~声なき声を聴く~
近年“もったいない意識”が見直されたり、一昔前は敬遠されていた“農業”が注目されたりしていますが、それは失われたものを取り戻そうとする人々の想いの現われではないでしょうか?
その失われたものとは何なのでしょう?
それは“察する”能力ではないかと思います。
当たり前のように察しあい、言葉にならない行間を読み取り合う日本人ではありますが、福島原発の東電の対応に象徴しているように、近年だいぶん錆付いてきてしまっているのではないかと思うのです。
今回の投稿では、ケルトシリーズを始めるきっかけとなった河合隼雄氏の『ケルト巡り』より、「察する」の部分を紹介し、その意識の在り様を学んでいこうと思います。
アイルランドを中心にケルトの名残を訪ねたこの旅で私は、日本人に共通する思いのようなものを、現地の人たちも携えて生きていることを知った。彼らと話をすると、日本人のように「非言語的」に交流するものを持っていることがわかる。
ヨーロッパでは、アイルランド人は「嘘をつく」とか、「いい加減だ」といった言われ方をされるそうだ。しかし、その意味するところが私にはよくわかる。
(中略)
スイスの高地に住んでいる人は、知人が明日山へ登るというようなとき、登山当日に雨が降ると天気予報などで知っていても、それを本人になかなか言えないのだそうだ。「晴れればいいのに」というようなことを言ってしまう。しかし、彼らの言わんとするところは、その態度から「雨が降るらしい」ことを察しなければいけない、ということらしい。
「スイスの山奥に行けば、こういった慣習や態度があるので、日本人の慣習をわれわれは理解する」とそのスイス人は言っていた。日本にもそういった「察し」の文化がある。「表情から察する」のは日本人の大きな構成要素だ。ところが、現代のアメリカ的な価値観に照らせば、これも「嘘つき」ということになってしまう。
このスイスの事例、似たような事例が日本人も思い浮かびますね。
例えば、赤ちゃんとお母さんの関係。お母さんは、愚図る赤ちゃんに「お腹空いたの~?」「眠いのかな~」と、気持ちをぴったりにしようとたくさん語りかけますよね。赤ちゃんもお母さんと一体になって笑顔になるポイントを探りながら、反応を察して心を重ねていく。
こうして想いをめぐらせてみると、改めて「相手の気持ちを掴もう、そして何とかそれに応えよう」という想いの交歓が心地いいですね
同じ著書に以下の文があります。
実際に現地の人と話してみると、彼らは相当な「心の接触」を持って生きている人たちだという印象を受けた。アイルランドでは、人々がまだまだそういったものを所有している。それは、会えば特に何か言わなくとも気が通じる「日本的感覚」が通用する場所だとも言える。
「察する」には「心の接触」の多さがポイントのようです。
では、ケルト、そして日本人はなぜ心の接触を多く持っているのでしょうか?
まず、前提として「察する」力は、何もケルトと日本人が独自に獲得した能力ではありません。
文明以前の人類は、高い自然外圧の中で何とか生きていくために、全身全霊で自然を注視し、自然の声にならない声を聞くことでここまで生き抜いてきました。
その中で人類は一様に、現代とは比べ物にならないほどの高い同化能力=察する能力を獲得していたのです。
しかし文明の発達、そして近代思想(個人主義等)の蔓延で、次第に自然と人の繋がり、人と人の繋がり、が断ち切られてゆき、相手の思いを掴み取る為にあった“察する”ことよりも一方的に伝達するだけの“言葉”が力を持つようになっていったのです(欧米において法律の力が強いのはそのせいですね)。
そんな人類史の流れの中で、ケルト人や日本人が、「察する」ことを大切にしてこれたのはなぜでしょうか?
ケルトも日本も、どちらも中央(いわゆる文明地域)から見れば辺境に位置しており、長く中央の影響を受けずに独自の文化を育んできた地域です。
その影響で、人類にもともと備わっていた能力=同化能力が壊されずにすんだのでしょう。
ところが明治以降、日本はそういった中央の文明社会に追いつけ追い越せで、どんどん欧米化していきました。
都市化され、利便性・快適性を追い求め続けたことが、「察する」能力の低下に影響しており、何よりそれまで自然の中で生きてきた日本人の共同体や生活が大きく変わってしまい声なき声を「察する」ことができなくなりました。(著者の河合隼雄氏も、ケルト訪問で母国日本よりも優れた「察する」文化に感銘を受けています。)
最近ケルトではキリスト教布教以前の原始宗教ドルイド教(ドルイドとは自然を大切にする考え方、自然と人間は共存しているという考え方に根ざしています)が復活しているようです。これは「察する」文化の再生の試みだと思います。
著書の中でケルトの人々は語っています。
「ドルイドの考え方は、いまのヨーロッパのみならず、世界に必要な考え・実践だと思う」
相手を思い、声なき声を聴き取り「察する」、この事の大切さを私達日本人も残し、その能力を再生する事が必要に思います。その延長に相手や自然と交流する力があり、喜びがあるのだと思います。同じ森林文化のケルトを学ぶ事で私達日本人に失われてきたもの、とり戻すべき事がひとつわかったように思いました。
投稿者 pingu : 2013年08月10日 TweetList
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