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2014年01月28日

女たちの充足力を日本史に探る6~武士の女たちは集団を守り、集団に守られていた

 第5回は武士を扱います。
 武士集団は平安時代後期から登場しますが、主に鎌倉時代までが初期の武士の時代です。
 その時代の女たちはどうであったのかを見ていくことで、その後の武士社会、弾いてはその武士社会の名残である明治以降についても考えていけるのではと思います。
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画像はこちらからお借りしました。
 さて、武士社会といえば戦乱に継ぐ戦乱、武力で相手を制圧し、女たちは強い男集団の下、虐げられて生きていたという印象がありますが、まずもって、その歴史観から変えていく必要がありそうです。
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【武士=戦乱というのは誤り】
 戦国の最盛期でも武士は意外と戦っていません。武田軍が川中島の合戦で上杉軍と激しい合戦をしたのは有名ですが、両群にらみ合いをした期間は10年に及び、できれば両軍とも戦わずして決着をつける方法はないかと模索していました。
 元々武士とは、侵略の為の組織ではなく、自領を守る為に存在した自衛の組織でした。それは坂東武士登場の武士誕生の時代まで遡るとよく分かります。平安の荒れた世にあって農業村落が自ら用心棒を雇い、その守護を担ったのが最初の武士達でした。従って武士は有事の際は戦いますが、平時は農民達と共に農作業を厭わない働き手です。この男女が共に働き、いざという時に男が外で戦うというスタイルは以後の武士社会でも薄まりながらですが、継続されていきます。
【武士社会の男女関係】
 平安、鎌倉の武士社会の男女関係についての興味深い論文を見つけたので紹介します。
(お茶の水女子大学 教育・研究コレクション 『子育ての探求(その五) : 鎌倉・室町時代における子育て』著:柴崎正行 からの引用・要約です。)
 武士の世界というと男性中心の世界であり、女性は家を守るという印象が強いが、鎌倉時代までは女性は土地や地位を男性と同等に保持できていた。例えば女性であっても親から領地や地頭職を譲与された場合には、鎌倉時代はそれを安堵したという証文が残されている。鎌倉後期までは地頭職の知行や地位をめぐっては、武士階級の男女間に明確な差はなかったという。
 もし、夫が地頭職についている場合には、夫が留守の間はその妻が代わりに最高責任者となって所領を知行し、家内を管掌していたという。その意味で武士階級の娘は、女房として幕府に官仕えをした後に、婚姻して地頭の妻となり家をしっかり管掌することが、理想的な生き方であり、そのために家の所領をしっかり管掌する妻のことを、次第に女房と呼ぶようになったという。その意味では現在では妻一般をさして女房と呼ぶのは適当な表現ではないのかもしれない。
 これは男女平等とう事ではなく、武士社会においては、縄文時代以降連綿と続く集団共認が残存していた事を示しており、平安時代の貴族社会では穢れとして排除された女性も武士社会の中ではきちんと役割として位置づけられてきた事を示しています。
【子育てを軸に繋がった女たち】
 また、平安時代に登場した血族集団であるイエという集団概念は武士社会にも浸透します。むしろ武士社会はこのイエ社会のつながりを基盤にして、集団を統合していったと言えます。 
 婚姻はイエとイエの結びつきであり、より大きな集団の結束が有利になる武士という社会において、その集団性の構築は何より重要な命題でした。そこで使われたのが女たちを軸にした姻戚関係です。武士がよく敵に大将の娘を嫁に出し友好を図りますが、それは、戦いに勝つために、より多くの婚戚関係を形成しておく必要があったからです。
 イエとイエを結びつけるのは婚戚関係だけではありません。武士社会の娘はできるだけ多くの子を産むことが求められます。そのため、産んだ子の養育は自分で行うのではなく、貴族階層と同様に、すべて乳母に任されていたのです。
しかし、武士階層の乳母には貴族階層の乳母とは異なる役割がありました。それは、戦になった場合には、乳母の一族が味方についたことである。
 たとえば、源頼朝には寒川尼、山内尼、摩々尼、比企尼という四人の乳母がいたが、その一族によって保護されて生き延びたし、また木曽義仲は三歳の時に父親が殺されたが、乳母の夫である中三権主兼遠によって木曽で養育された。このように、乳母は養育するだけでなく、一族を挙げて味方につく関係だったのです。このように、乳母関係は、婚戚関係と並んでイエとイエと結びつけるのに欠かせない手段であり、武士階層は子育てを軸により幅広い集団を形成していったのです。
(引用先:同上)
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画像はこちらからお借りしました。
【自我が封印された一対婚】
 また、武家の婚姻は一対婚という形態をとっていますが、西洋の一対婚が略奪婚という性格を有しているの対して、相手に嫁がせる贈与式の一対婚が一般的です。ここでの女の意識は自我が封印され、徹底的に相手のイエに収束する事が求められます。
 信長のお市の例を出すまでもありませんが、武士の嫁は相手のイエに嫁ぐと一切元のイエの事は忘れ、相手方に入り込みます。自分を守ってもらえるのは主人のみとなりますから、徹底的に主人に収束し、そこではかなり高いレベルの闘争共認が図られます。これが武士の女たちの闘争収束につながり、内助の功を生み出すわけです。
 ただ、残念ながら、充足発ではなく不安発、存在欠乏発故に破滅的な結末を迎えることもありました。主人の死と同化して自らも自害する武士の妻は決して少なくありませんでした。
=まとめ=
 これまで見てきたように、武士社会の女性たちが、男社会の中で、隠れた存在として、ひたすら献身を強いられただけだった、というのは大きな誤りであり、むしろ集団の中で確固たる共認形成を図り、自ら進んで役割を全うしてきたことが分かります。 
 そして、武家集団がこのように女性を取り込んだ共認度の高い集団を形成できたのは、武士という存在が、①縄文体質が色濃く残った東国出身であること②自集団を守ることを目的とした、集団に根差した存在であったこと、が大きく関与していると考えられます。縄文集団の名残を残した、土着性の強い、そして集団のきずなを重んじる武士という存在があったからこそ、強固な男女役割共認母体とした集団形成が可能だったのではないでしょうか。
 第1回『縄文時代は女性の充足に満ちた時代だった』でも書いたように、女性は安定した集団の中でこそ本来の充足性を発揮します。
 表に武士、奥に女たちという集団構成は、男が狩猟、女が採取という縄文時代の集団構成と類似しており、内雌外雄という生物原理に合致した、安定した集団構成と言えます。
 武家の女は、嫁ぐことで武家社会特有のイエ同士をつなぎ、乳母を通してイエ同士を結び、イエを内側から守りながら、安定した集団をつくっていきました。そしてそんな女集団を男たちが守る。武家社会とはそのような男女の役割共認が徹底された社会であり、その役割を全うすることで女性の充足が広がっていった時代と捉えることができると思います。

投稿者 hi-ro : 2014年01月28日 List  

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