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2009年07月24日

イエス・キリスト その人物像に迫る

イエスは若い頃から宣教活動をしていたわけではない。
キリスト教の教祖として重要人物であるにも関わらず、そのプロフィールに謎が多いことで有名なイエス。今回は、そんなイエス・キリストの人物像に迫ってみたいと思います。
img82a198ec3iwets.jpg   「隣人を愛せよ」
『ナザレのイエス』の一場面よりリンク
profile
名前:イエス・キリスト
性別:男
血液型:不明
誕生日:紀元前4年or7年
出身地:ナザレorベツレヘム
職業:??↓
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■イエスは洗礼者ヨハネの弟子だった。
新約聖書では、ナザレという現在のイスラエルにあるガリラヤ湖南西の町に、大工をしていたヨセフとマリアの間に産まれたとされています。産まれたといっても、普通に産まれたのではなく、2人の間に突然天使ガブリエルが現れ、処女マリアのお腹にメシア(救世主)が宿ったというお告げを受け(これが有名な「受胎告知」)、ヨセフの本籍地ベツレヘムで出産されたとされています。
イエスは、若い頃から宣教活動を行っていたわけではなく、父の跡をついだのか、ナザレで大工としてごく平凡な生活を送っていました。それが、30歳になったとき、突然家族も仕事も放り出し、洗礼者ヨハネの運動に加わるようになります。ヨハネは、神による最後の審判に備えるべく、人々に罪の悔い改めを促すための洗礼を施していた人物であり、イエスは、その弟子となったのです。
■罪人や貧しい人に受け入れられたイエスの教え ~形式主義的信仰への批判~
イエスは自らの教えで最も重要な掟を、「神への愛」と「隣人への愛」としていました。これは、神を愛し、紙に仕える精神で日々暮らしていくことはもちろん、他人に対しても寛容な姿勢で接し、困難な状況にあるようなら進んで助けるのが人間のあるべき姿ではないか、というものでした。イエスのこの教えには、ユダヤ教の律法の遵守のみに価値が置かれ、形式主義的信仰に陥ってしまった人々への批判(他者、特に困難にある者(貧しい庶民)への慈しみが忘れられているという思い)が込められていました。そのため、たとえ安息日(ユダヤ教において働いてはならないとされる日)であっても働かなければ食にありつけない日雇い労働者や、ユダヤ教の厳しい律法を守れないため「罪人」と呼ばれていた人達など、当時の社会で虐げられていた人を中心として信者は増えていきました。のちに「十二使徒」と呼ばれる最側近の者たちも、ユダ以外の十一人はガリラヤ湖の漁師など、ユダヤ教のエリートとは程遠い、貧しい庶民だったのです。
■ユダヤ教の改革と刑死
ガリラヤでの宣教活動を終えたイエスは、紀元後30年頃、弟子達とユダヤ教指導者の牙城である、首都エルサレムに向かいました。その目的は、自分の教えをさらに広め、ユダヤ教を改革することでした。ユダヤ教の実状に批判的な言動をするなどユダヤ教側の反発を招き、逮捕・処刑されることになるのですが、イエス自身も死期が近づいたのを察知し、使徒たちを呼び集めて行ったのが有名な「最後の晩餐」です。(晩餐ののち、エルサレム郊外のオリーブ山麓で祈りを捧げていたイエスの前に武装した群集が押しかけ、イエスは逮捕・連行されました。このとき、逮捕の合図となるイエスへの接吻をするなど、実行役となったのがユダでした。)
 愛弟子からの裏切りにより逮捕されたイエスは、ユダヤ教の宗教裁判にかけられ、一方的な有罪で終わりました。続けて開かれたユダヤ総督による審問によって正式に死刑が確定しました。(「イエスはユダヤ人によって死刑を執行された」ということが、現在の白人(キリスト教の信者)とユダヤ人(ユダヤ教の信者)との対立につながっています)死刑が執行された後、わずかな信奉者(ペトロを含め使徒たちのほとんどが逃げてしまっていた)が見守る中で、埋葬されたのです。ところがここから、キリスト教最大とも呼べる奇蹟が起こったとされる。イエスの復活です。
■イエスの復活(信仰)による原始キリスト教会の成立
「マルコ福音書」では、イエスの復活が次のように記されている。イエスの死から3日目に数人の女性がイエスの墓に行ってみると、白くて長い衣服を着た若者がいました。そしてイエスの復活を告げると、空になった墓の中を示し、「ここにはおられない」と話したという。これだけでは非常に曖昧な表現であり、他の福音書間でもかなり異なる記述がなされ、後代に付け加えられたらしい箇所もある。イエスの復活を科学的に検証することは不可能であるが、一度はイエスを見捨てた弟子達を含め、かつての信奉者たちの間に、同時多発的に強い復活信仰が起こり、それが彼らを再びひとつに結集させ、最初のキリスト教共同体(エルサレム原始教会)の形成の原動力として働きました。(後に、キリスト教の運動に敵対的であった人々の間にも、復活のイエスの顕現(姿を現すこと)体験は起こりました。)
今回、イエスの生涯を振り返ってみて分かったことは、
30歳まで大工をしていたのに、突然家族も仕事も放り出すあたりから、信じられません。大工で30歳といえば、ようやく一通りの仕事ができる男(一人前)になる頃です。そんなときに、心の救いとなる宗教の道にいくなんて、仕事で相当嫌なことがあったか、周りの人に気配りできる相当いい人かのどちらかしかありません。
厳しい戒律を守らなくてはならないため、恵まれた人しか救われないユダヤ教に対抗して、貧しくて戒律を守れない人も、信じるだけで救われるということを説いたのは、普通に考えれば、いい人でしょうか。イエスの性格がどうだったのかは不明ですが、病を治したり、死から復活するなど、普通には考えられないような超人的な能力を持っていたとされている時点で、その当事が貧しく、神や非現実的な愛にでも頼らなければ心が救われない時代であったことは分かります。ただ、イエスの死後、「復活したイエスを見たから、イエスの力を信じる」とさえ言えば、キリスト教信者の仲間となるだけでなく、他の信者の信仰も高めることができるので、イエスの復活は、キリスト教を広めたい信者たちの作り話である可能性が高いと思います。みなさんはどうお考えでしょうか?

参考文献
「図解 これだけは知っておきたいキリスト教」 山我哲雄 編著、洋泉社

投稿者 staff : 2009年07月24日 List  

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コメント

‘みんな一緒’ということばには、自分自身の内面に共鳴していく感覚が私にはあります。とても興味のあるお話しです。
弥生時代~古墳時代にも、縄文文化と通じるものがある と、私も感じたものが幾つかあるのですが (鏡の文様など)、
以前、埼玉県の縄文遺跡の発掘見学会で、縄文人が居住地を移って行く時に、竪穴式住居の真ん中辺りにある、竈 (?) を埋めていったと思われる ー ー ー 、という説明を聞いたことがあります。
それと、出雲地方の遺跡から、入れ子になった銅鐸が埋められた状態で発掘される、ということとは、何か似通ったことだという風に思ったことがあるのです。

投稿者 五節句 : 2009年9月1日 11:48

五節句さん、お久しぶりです。
縄文時代と弥生時代を切り離して考えるのは歴史を学ぶものの悪癖だと思っています。同じように縄文人と渡来人が混血したそれ以降の日本人を分けて考えるのも見方を誤るかもしれません。
五節句さんの言うように縄文人や縄文文化と以降の歴史を繋げる事例を探していく事が重要な事だと最近感じています。
>みんな一緒’ということばには、自分自身の内面に共鳴していく感覚が私にはあります。とても興味のあるお話しです。
私も同様の感覚を感じる者の一人です。たぶんそれはみんな一緒という言葉自体が持つ国語的意味ではなく、共同性や共感性が持つかつて日本人の中に深く浸透していた言葉以前の共認原理そのものではないかと思います。
だから内面の深い部分にある感覚なんでしょう。でもその意識を明確に何とか言葉化していくことがこれからの私たちに託されているのかもしれません。

投稿者 tanoyam : 2009年9月1日 21:30

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