東アジア文明という見方 |
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2008年03月05日
星を見ていたら暦が生まれた。
こんにちは、カッピカピです。
今回は、「ナイル川とアスワンハイダム」に引き続き、ナイル川にまつわる、あるお話を紹介したいと思います。
テーマはずばり『暦』です。
現在、国際的に使われている暦、いわゆる西暦は、太陽の年周運動を基準にした暦、すなわち「太陽暦」(The solar calender)です。わが国日本も、この太陽暦を1872年(明治5年)から採用しています。
この世界中で慣れ親しまれている「太陽暦」、元を辿れば、古代エジプト文明まで遡れてしまうことをみなさんはご存知でしょうか。
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エジプトはナイルの賜物――
とは前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉ですが、一体どういうことなのでしょうか。金岡 新さんが書かれた「世界史講義録」から引用してみます。
————————–引用開始——————————–
エジプトでは前5000年頃に農耕が始まります。前2700年頃には統一王朝が成立します。エジプトは周囲を砂漠に囲まれているのでメソポタミアのようなめまぐるしい民族の侵入や王朝の興亡はあまりなく、独特の文化を築きます。
エジプトが文明をもてたのは、なんといってもナイル川のおかげ。ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にしました。毎年ナイル川の洪水で上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくる。だから何もしなくても地力が維持できるのです。あとは洪水が引いていく時に水の管理さえしっかりできればよい。
————————–引用終了——————————–
同じ場所で続けて作付けすると、土中の養分が不足し、上手く作物が育たないという、いわゆる連作障害がありますが、エジプトでは、ナイル川の氾濫により、上流から肥沃な土壌が運ばれてくるため、毎年、同じ場所で同じ作物を育てることが出来ることになります。
そうなると、このナイル川の氾濫がいつ起こるのかが、非常に重要になってきます。当時の人々にとって、1年の決まった季節にあるナイル川の氾濫の時期をあらかじめ予測して、農耕の準備を始めることは生きていく上で必要不可欠なことでした。
長い年月のうちに人々は、明け方前に東の空に明るいシリウスが輝き始める日がナイル川の氾濫の時期を知る目安になることに気づくようになりました。やがて明け方前にこの星が輝き始める日を新年として暦が作られるようになり、世界最古の太陽暦が生まれたのです。
もちろん、現在使われている西暦が、そのままエジプト王朝から踏襲されているなどというわけではありませんが、流れとしては、「エジプト系太陽暦」ということになっています。
投稿者 hi-ro : 2008年03月05日 TweetList
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コメント
投稿者 案山子 : 2008年4月13日 17:49
案山子さん、コメントありがとうござます。
性の幻想化についてのご指摘はその通りで、翡翠は調べる中で様々な用途で使われているように思われ、純粋な装飾品としての利用は極小さそうだという印象です(要調査)。ただ、装飾品として使っていたとしたら、その理由は何かというところが仮説としての性の幻想化というところです。
成員の自我が拡大することと、それを許すか許さないかという問題は違うのではないかと思います。もちろん、縄文人は許していません。どう封鎖するかという思考です。
逆に、比較的豊かな時代に、集団的自我が成員の自我拡大なくして萌芽するというのがイメージしにくいのですが…
なお、この図解は仮説ですので、事実を押さえたのちに修正を加えていきます。
投稿者 くまな : 2008年4月14日 15:05
図解かなりわかりやすいです。
ただ、気になるのが性の幻想化の部分です。
たぶん幻想化が必要になるのは市場という概念が登場して以降でしょう。したがって装飾品としてのヒスイの需要は低かったように思います。
また成員の自我拡大という部分も少し疑問!
自我拡大というより、この時代の自我はあくまで集団的自我の萌芽というニュアンスが強いと思います。
なぜなら自我が拡大してそれを許せば集団は即崩壊する、まだ厳しい外圧状況にあったと思うのです。
自我拡大を許す時代とは農耕を始めて余剰生産が成立して以降だと思いますが・・・。