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2014年01月29日

女たちの充足力を日本史に探る7~明治以降の一対婚様式が破壊したものとは

当シリーズではこれまで縄文時代、弥生時代、平安時代、武家社会と4つの時代、社会の女たちの置かれた状況、意識を見てきました。今回はこれらの時代を縦断して、あるいはこれらの時代の影響をほとんど受けずに永らえてきた集団を見て行きます。
それは庶民です
庶民の女たちはおそらくは江戸時代、明治の初期までその充足性を維持してきました。
象徴する話をいくつか紹介します。
>白川郷では~
巨大な合掌造りの家に生まれた者は、男であれ女であれ終世その家に住み続け、その構成員に性生活上のパートナー(この地方ではナジミと呼んでいた)ができても、同棲することなく、男が女のもとに通い続けるという「婚姻」生活をしていた。ナジミの間に生まれた子どもは、母の家に属し、したがってそのメンバーたちに育てられた。唯一の例外は家の家長の妻で、彼女だけは他家から迎え入れた。つまり、家長や元家長、将来の家長(家長の長男)たちの妻以外はすべてメンバーは血縁者であった。
青森津軽では~
男女成年に達すれば、自由に相通ず。また配偶(者)を有する男女間といえども、往々驚くべきのことあり。然れども父母ないし他人もあえてこれを怪しまず。』(青森県西津軽郡赤石村地方)
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~津軽の画家 棟方志功より借用

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【集団と共にあった庶民の婚姻】
これは庶民の婚姻様式が明治初頭までほとんど変らず婿入り婚(妻問い婚)という形式を取っていた事と無関係ではないでしょう。婿入り婚とは男が女のイエに入り込み、そのイエの成員になり、一定期間同居する様式です。形態的には一対婚ですが、男が女個人ではなく女を取り巻く集団に迎え入れられるのです。逆に女は母集団が残っているので、生殖、子育て、生産に至るまで集団を強く繋がった中で生きていくことができます。
この集団性が母系集団と共に色濃く残されてきた事こそ、日本人の庶民が長らく本源性を残し、縄文時代から受け継がれた共認充足を母体にした集団運営ができてきた証であると思われます。
庶民の婚姻様式が明治初期まで残っていた事は昭和初期まで残っていた夜這いの習慣からも容易に想像できます。また、明治初期に政府によって強制された一対婚の後、非常に高い離婚率になっていた事からも、現在の父系制一対婚が明治以降に取り入れられた強制制度であり、庶民には馴染めないモノであったことが伺えます。
>明治時代は、半ば過ぎまで離婚がとても多い社会だった。その離婚率(明治16年の離婚件数は12万7162件、離婚率3.39%)は昭和40年ころに比べると3倍近く、最近と比べても5割近く高い。当時、統計が発表されている諸国のなかでは日本がトップだった。~著書「明治の結婚、明治の離婚」より
この婚姻制度について一対婚が日本ではなぜ長らく庶民に浸透しなかったか、なぜ一対婚を受け入れたとたんに社会が変っていったのかについて考えてみたいと思います。また、それを通して婚姻様式と女性の充足性はどのような関係になっているのか、何か強い因果関係があるのではないかとして仮説を導いてみたいと思います。
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明治の結婚式~こちらよりお借りしました。
【日本の婚姻史概観】
まずは日本の婚姻の歴史を簡単に見て行きます。
縄文時代は交差婚(クナド婚)が中心でいわば集団婚です。
日本での父系一対婚の歴史は公家(貴族社会)から端を発します。公家社会は元々は中国の南の地域の大陸由来である母系妻問い婚の様式を引き継いでいました。ところが平安時代中期にイエ社会が形成されると一夫多妻の婚姻様式が徐々に見直され、一対婚が定着していきます。それでも定着には300年以上を有しており、完全一対婚は鎌倉以降になります。一方、武家社会は初期の頃から一対婚が取り入れられますが、先の記事でも紹介したように男女の格差は少なく、女が男方に嫁ぐ事でイエ間の争いが止揚され、婚姻とは女が武家という家に入る儀式の一つでした。
江戸時代には商人にも武家同様に一対婚が拡がっていきますが、ムラ社会である庶民の間には拡がりませんでした。江戸の武士の間の離縁状が三行半と言われましたが、離婚の決定権は夫方より妻側にあったと網野氏などは分析しています。
江戸時代の結婚~制度から見た男女の地位
つまり、日本では一対婚は導入されたけど、財産保有を目的にした父系、父権という所謂西洋式の個人一対婚は明治初頭まで根付かなかった事が伺えます。
【一対婚がなぜ庶民に根付かなかったのか?】
庶民は弥生時代から江戸、明治の初期まで一貫して婿入り婚でした。一対婚は明治政府が推進するまで取り入れようとはしなかったのです。
2つの理由があります。
1.女は母系集団の中に居る事が最大の充足価値であり、子育て、生産、集団の運営において、羅針盤であるこの価値をないがしろにできない。
2.日本人庶民(縄文人)は性充足を肯定的に捉えており、それを個人が所有する事や、独占する事が自我を拡大し、集団共認を破壊する事を潜在的(経験的)に知っていた。
庶民は農業等の生産集団を維持していく事が第一義であり、その為には集団秩序を保持し続けなければなりません。婚姻様式を決して一対婚にしなかったのは、この集団を維持する為に必然であり、成り行きだったのです。
【一対婚を取り入れた途端になぜ社会が変っていったのか?】
明治以降は近代化という旗印の下、個人、自由、恋愛といった西洋化社会への変貌が推進されますが、この西洋化された社会への変化をリードしたのは都市部においてです。都市部へ移動する事で失ったのが農村の共同体社会であり、生産や生殖を核とした豊かな人間関係でした。
同時に西洋式の個人主義がそれに代わっていきます。市場経済を標榜する中、大量の都市消費者を作り出し、それまでの農村共同体は核家族として消費と生殖だけを核とした小集団に分断されます。女たちは生産集団から切り離され、女不在の社会が進行して行きます。女たちは当然役割不全に陥り、充足の羅針盤を失った生産集団もカタワの集団となっていきます。これが社会が変わっていった最大の損失だったのです。
日本における一対婚社会への全面転換は集団を変え、生産を変え、女たちの充足をも変えてしまいした。
【婚姻様式と女性の充足】
上記を見ていくと、婚姻関係と女性の充足度は極めて連関していることがわかります。
また婚姻関係は集団と女性の関係や女性の社会的役割に連関します。
婿入り婚や集団婚がそれらの充足性を阻害しないのに対して一対婚は女性の充足という点においては大きなマイナスとなっていたのです。
特に明治以降の一対婚制度はこれらを人工的に破壊し、女たちの存在を社会から剥ぎ取るものでした。明治に始まる個人の自由、男女平等を旗印とした近代思想発の女性解放運動とは、かつて女たちが生産集団の中で女としての役割を全うし充足してきた事を由としない、西欧風の個人発の社会参加の要求であり、本来の女たちの充足とはかけ離れた思想運動だったと思われます。
これら生産集団と男女の役割共認はるいネットで8年前に投稿された下記の投稿で書かれており、その部分も併せて抜粋紹介します。
「婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない」

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。
まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。
子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。
このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

現代、離婚率の増加に併せて結婚しない女性、男性が年々増えてきていますが、これら一対婚に刻印された足枷を、豊かさが実現された現在、男女共無意識に感じているのかもしれません。ただ、性は本来人類にとって充足の最大価値である以上、婚姻忌避から性忌避にまで至る現在の状況は決して長く続くべきものではありません。男女役割共認を母体とする性の再生と婚姻のあたらな様式を、そろそろ模索していく段階が来ているのだと思います。

投稿者 tano : 2014年01月29日 List  

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コメント

農村を維持するにはサザエさん家みたいな感じが平和でいいなと思いましたが、子供達が舟さんが大変そうと言っていました。田舎で見合いをするのは、男兄弟のいない長女と長男ばかりですね。少子化だけの理由でなく、長男、長女が嫌われてる傾向が有ります。

投稿者 田舎のオバさん : 2015年2月17日 03:31

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