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2008年10月16日

世界最古の『戦争記録』

こんにちわ!
前回の『世界最古の戦争??』では、侵略行為があったと見受けられる遺跡をご紹介しましたが、今回は『世界最古の戦争の記録』をご紹介します。
時代としては、およそ4600年ほど前(紀元前2600円頃)で、ウル第一王朝やアッカド王朝が興る少し前になります。
この時代は、たくさんの都市国家が存在していましたが、今回の主人公はその中のラガシュとウンマという都市国家、この二国(?)間で起きた争いになります。
一体どんな争いだったのか?
気になる方は続き・・・の前にいつものよろしくです
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アリガトございます
さて、世界最古の戦争の記録ですが、これは「エアンナトゥム王の戦勝碑(通称:禿鷹の碑)」と呼ばれるものになります。また、エアンナトゥム王はウンマ市だけでなく、他の諸都市ともよく戦った王だと言われています。
戦争の概要ですが、ラガシュ市(都市国家ですので便宜上、「市」と呼びます)とウンマ市がその領土を争ったようで、結果的にはラガシュ市が勝利します。
この戦争の内容についてですが、「エアンナトゥム王の戦勝碑」には欠損部分が多く、全体像が分かりにくいので、エアンナトゥム王の2代後の王であるエンメテナ王(エアンナトゥムの兄弟の子供)の王碑文で回顧されています。
これによると、隣接したラガシュ市とウンマ市の国境を、キシュ市(このキシュ市は最古の都市国家とされている)のメシリム王の調停で画定し、国境に境界石を立てていたようなのですが、これをウンマ市のウシュ王が壊してラガシュの領土に攻め入ったことが原因だとされています。
(なお、そのとき争った領土は肥沃な耕地である「グエディンナ(=エディンの首)」と呼ばれる地で、一説では旧約聖書の「エデンの園」のモデルとも言われています。)

結局、ウンマ市の侵略をラガシュ市は食い止め、エアンナトゥム王はウンマのエンアカルレ王との間に国境を定め、メシリム王の定めた境界石を元に戻したようです。
実はこの争いはその後も続き、先述のエンメテナ王の時代においては、ウンマの人はラガンユの大麦を借りたが、利子が膨大な量となって返せなくなったために、ウンマのウルルンマ王は国境の運河から勝手に水を引き、境界石を壊し、境界を守る神々の聖堂を破壊したという事態も起きたようです。
しかも、いくつかの都市がウルルンマに加担し、国境の運河を越えて攻め込んで来たようで、エンメテナ王の父であるエンアンナトゥム一世はこの侵攻を受けて立って戦ったが、どうやら戦死したらしい。

この非常時に跡を継いだエンメテナはよく奮戦し 、父の仇ウルルンマを敗走せしめた。ウルルンマ亡き後のウンマではイルが王となって、このイルとエンメテナは再度協定を結んだ、となっています。
以上のように、「非はウンマにあり」の視点から、エンメテナ王はウンマ市との長い戦争を回顧していますが、ウンマ市との戦争はエンメテナ王の治世以降もさらに続きました。
ちなみにこの両者の闘いに決着をつけたのは、ウンマ市のルガルザゲシ王とされています。しかしこのルガルザゲシ王もシュメールを統一することなくアッカドのサルゴン王に屈してしまいます。
今回の内容から分かること、想像できることが二つあります。
一つは、古代の戦争において、領土(特に農地やおそらく資源のある土地)争いが、その発端になっていたということ
そしてもう一つは勝者によって歴史が作られるということです
次回は、先述の「エアンナトゥム王の戦勝碑」を違った角度から分析してみたいと思います
乞うご期待 😉
参考文献:~「シュメル -人類最古の文明」小林登志子氏著~

投稿者 maru : 2008年10月16日 List  

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コメント

>最近のDNAを用いた研究では最初にアフリカを旅立った人数を150人程度と見積もっているものもあるそうです。
かなり以前のエントリーにコメントして申し訳ありませんが、以下の疑問に何らかの情報をお持ちであれば、教えていただければ幸いです。
私の住むマラウイでは地方農村の人々は15~20家族100人~150人程度で集落をつくり暮らしています。その集落の一つがアフリカを旅立ったと考えていいのでしょうか?
またDNAの研究で今から74,000年ほど前のインドネシアのトバ火山の爆発による寒冷化のため世界の全人口が1万人以下になったボトルネック効果があったと説明されますが、出アフリカはその後に実行されたと考えてよろしいでしょうか?

投稿者 玉川陽平 : 2010年3月29日 23:27

>最近のDNAを用いた研究では最初にアフリカを旅立った人数を150人程度と見積もっているものもあるそうです。
この見積は、ある仮定に基づいたものだと思います。
ある一つのまとまった人たちがアフリカから出て世界中に拡散し、その結果として現在のDNAの特性の分布が生まれたと仮ものとして、(その仮定の上で)150人という人数を割り出したという関係です。
実際は、何度かの出アフリカの結果かもしれませんし、もっと多くの人がアフリカを出てから、人数が減ったのかもしれません。
残念ながら、現代人のDNA研究だけでは史実に肉薄する事は難しいようです。
最近、アフガニスタン国境近くのシベリアで、4万年前の子供の小指の骨が発掘されDNA分析されて、100万年前に現代人に繋がる系統から分離して進化した人種だと発表されました。(デニソワ人?)
この年代が「原人」と「旧人」の間の時期に枝分かれした人類が、つい最近まで生きていた事を示しており、これまで想定されていなかったパターンで、実は、人類はこれまでの想定よりももっと多様に拡散し進化していた可能性がある事を示しています。
出アフリカの状況は、仮説と発掘と研究をつきあわせながら解明していくテーマだと思っています。
現世人類がアフリカを出たのは気候変動によるという説は見直しが必要かもしれません。気候変動と移動が繋がらないからです。
気候変動よりも道具など技術の進歩を重視する見方もあります。
「アフリカから世界中へ旅立つ」といっても、当時の人類の状況から考えて、(それまでの住処を離れ)未知の居住地へどんどん進んで行くというのはものすごく危険が伴うので、相当切羽詰った状況であったと考えられます。
実際何度かアフリカから出て拡散したもののかろうじて生き延びたのは極一部です。
そういう前提で考えると、現世人類に繋がったのは、世界中で生き残る事ができるまでに人類の知恵が備わった結果ではなかったか?と思います。

投稿者 東麓金鶏 : 2010年4月1日 23:01

>実際何度かアフリカから出て拡散したもののかろうじて生き延びた>のは極一部です。
>そういう前提で考えると、現世人類に繋がったのは、世界中で生き>残る事ができるまでに人類の知恵が備わった結果ではなかった
>か?と思います。
とのご意見ですが、以下のように反論したいと思います。
このサイトのサブテーマは「いったい、人類はどこで道を誤ったのか?人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られている。」
となっています。結果的に現生人類が世界中に生き残っているのは人類の知恵が備わったからというのでは何の答えにもなりません
。現生人類よりもずっと前に出アフリカをしたネアンデルタール人や北京原人には知恵がなかったからでは現生人類の優越を主張し
ているだけです。現生人類の知恵が生き残った条件とするならば、その知恵は出アフリカの前に備わったのか、出アフリカ後に各地域
で独立に備わったのか、またその知恵によって築いた文明の見直しが必要ではないのかという問題提起が必要です。
私がこのエントリー「DNA、人類の拡散を探る~その3」で最も知りたいことは人類はどのような状況の中で、何故、何を求めてこれほど急速に拡散したかということです。DNAの研究によって最初にアフリカを旅立った人数を150人程度と見積もっているのであればその人々は何処にいて、どのように暮らしていたかを知りたいと思います。

投稿者 玉川陽平 : 2010年4月7日 18:39

玉川さん、コメントありがとうございました。
投稿者のsaahです。
かなり前の投稿なので、投稿時のネタ本も見つからず、返信に時間がかかり申し訳ありません。
ご質問の内容ですが、主には「人類拡散の時期、理由」と、「現代人にまで繋がる祖先が当時どのあたりに住んでいた人々なのか」、ということと理解しました。
■人類拡散の時期とその理由
人類の拡散の時期は何度もあったといわれています。つまり、原人の時代、旧人の時代、新人の時代、それぞれにあるということです。そしてそれぞれの時期にアフリカから拡散して行った人類ですが、現代にまで繋がるのは新人といわれる人々ですね。
(一方、世界各地に拡散した原人がその地域で新人に移行したとされる、「多地域進化説」もありますが、DNAの研究からは、ネアンデルタール人の持つDNAが現代人には受け継がれていないことがわかり、その理由から当記事はアフリカ単一起源説に基づいて投稿しました。)
人類の拡散の時期は、当時の気候変動との関係が高いようで、それを調べてみると、氷期=乾燥期に各地への拡散が行われているようです。
それらを踏まえて、最後にアフリカを出た新人は、概ね10万年前前後ではないかと推測されます。
(参考:「人類の拡散と氷河期の関係」(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=129497))
そして肝心の、拡散(=出アフリカ)の理由ですが、これは人類が晒されているさまざまな外圧に適応する為と考えられます。つまりは、当時の最大の外圧=自然外圧への適応、砕いて言えば飢えとの闘いと言えます。
氷期=乾燥化により食料がなくなることにより、やむなくその地を離れざるを得ない、したがって見ず知らずの地に移動するということは非常な危険を伴い、当時の人類にとっては決死行であったといえます。
(「人類の拡散=決死行」(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=130143))

投稿者 saah : 2010年4月8日 23:06

■現代人に繋がるアフリカを出た人々は、どこに住んでいた人々なのか
DNAによる調査結果が150人前後であることと、玉川さんが現在住んでいらっしゃるマラウイの集落が、たまたま同じ150人程度で一致してるようですが、そのうちのひとつの集落が移動したとは考えられません。
と言うのは、当時の人類は、まだまだ集落を作れるような状況ではなく、外敵に対しても洞窟に隠れ住みながらかろうじて狩猟生活をして飢えと闘っているような状態だったと考えられます。
弓矢の発見が1~2万年前と言われていますから、それによって漸く外敵とも立ち向かえるようになりますが、出アフリカの時期はそれより遥か以前のことです。
であれば、一集団単位としても150人規模などよりはもっと小さかったろうと思います。
では具体的にどの辺りにいた人々なのか、ですが、残念ながらそこまでは私も勉強不足でわかりません。
先のコメントでも紹介した、「るいネット」にはそのほかにもこのご質問の答えとなりそうな投稿がありますので、宜しければ参考にしてみてください。

投稿者 saah : 2010年4月8日 23:16

saahさん、丁寧なお返事ありがとうございます。
■人類拡散の時期とその理由
このエントリーのテーマは「DNAから、人類の拡散を探る~その3」ということですから、現在生きている人々のDNAを調べて、クラスターに分類して、クラスターの数は現在アフリカに住んでいる人々が最も多いということで出アフリカがあったことを証明していると思います。ミトコンドリアDNAの解析では基本的な4つのクラスター(L0~L3)のうちL3のみがアフリカ以外と言われています。またY染色体による解析では7つのクラスターうち1つのみがアフリカ以外であることが出アフリカを証明しています。その時期は70,000年ほど前であり、出アフリカは1回のみで、但し、その後アフリカに戻った人々もいると考えられています。
70,000年ほど前にインドネシアのトバ火山の爆発があり、それによる寒冷化のため世界の人口が1万人以下になったと言われています。DNAの解析の仕方によってはボトルネック効果があり、2,000人程度であったとも言われています。ほとんど絶滅寸前まで減った人口が何故急速に回復、増加したか知りたいと思っています。拡散の理由を飢えとの闘いと書かれていますが、飢えとの闘いは常にあったわけで、むしろ新技術が発明され飢えから開放されたとか、新しい考え方で約束された土地があるとか、今までにない革新があったとかいうことを知りたいと思います。一説では衣服が発明されたのもこの頃だと言われています。飢えから開放された場合の人口増加がとても急激なのは農業革命、産業革命以降の人口増加でよくわかります。2人の夫婦が4人の子供を育てれば、1,000年で85億人になります。70,000年前以降、環境が最適でただこの人口増圧力によってのみ拡散したのかもしれません。
■現代人に繋がるアフリカを出た人々は、どこに住んでいた人々なのか
>であれば、一集団単位としても150人規模などよりはもっと小さか>ったろうと思います。
どのような根拠でこのようなことをおっしゃられるのかわかりません。
DNAで解析して150人程度ということは150人以下ではないことを主張しています。そしてその150人が血族関係で結ばれた群れということです。人類は集団生活を好み150人ほどの群れで生活し、それは血族結婚による劣性遺伝を防ぐための最低単位とも思われます。その150人はアフリカを出た後、20年ほどで2倍の人口になり、細胞の増殖のように二つに分かれ、狩猟場も異なるところに持ったと思われます。現生人類は大型獣の狩猟においてもネアンデルタール人より優れた技術を持っており、その技術の差によりネアンデルタール人は圧迫されて滅んだ可能性があります。
そして、私はその150人はマラウイ湖周辺に住んでおり、丸木舟の技術を身につけた後、川を下って、インド洋に出て、大陸沿岸部を通って、東南アジア、オーストラリアに到達したと考えています。この経路が現生人類の一番最初の拡散経路と思われ、オーストラリアには6万年前に現世人類が生活した遺跡があります。もちろん数千年かけての拡散であり、沿岸部の食料が豊富であれば人口は急速に増加したと思われます。

投稿者 玉川陽平 : 2010年4月15日 21:16

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