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2014年02月07日

女たちの充足力を日本史に探る~エピローグ

こんにちわちわわです。
女たちの充足力を日本史に探るシリーズも、いよいよ今回で最終回を迎えます。
これまで、縄文時代から現代に至るまで、女性の充足性がいかに日本人の活力源となってきたかを、史実を紐解きながら探ってきました。
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各時代に女性たちを取り巻く集団との関係の中で、いかに女性としての役割を見出せるかが、女性の充足力を測るポイントとなることが分かりました。
それではこれまでの記事を振り返ってみましょう。
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1~縄文時代は女性の充足に満ちた時代だった
縄文時代の女性達は、極限時代に培った男女の性充足をそのまま引き継ぎました。集団の中で男たちは女性を敬い、大切な存在として扱いました。それが男女期待応望を軸とした女性の充足力の源になったのです。
女性の豊かな自然への同化能力はそのまま採取生産の豊かな食資源の獲得に繋がり、定住化を果たすことで女性集団が安定し、母系集団がより強固に形成されました。女性の充足力とはこの集団の結束力でもあり、そこで育まれた共認充足に他なりません。
2~渡来人と進んで和合を求めた縄文女性~巫女の役割
弥生時代初期には巫女という役割をもった女性が出現します。この巫女という存在は、縄文晩期のシャーマン的な存在の延長線上に位置すると考えられます。
 弥生時代にはしばしば渡来民が訪れますが、異民族の男を受け入れ、その子供を作ることで異集団を融合させ、武力を用いることなく集団統合することを可能にしたのです。恐らく女性の側から、それも集団の統合役である巫女が率先してその役割を担ったのでしょう。
巫女とは徹頭徹尾集団の為に存在し、その中心に「性」があったのです。
3~時代が求めた女性天皇たち。
日本では過去に8人10代の女性天皇が存在しました。そのうちの6人8代は6世紀末から8世紀後半の飛鳥時代~奈良時代に集中しています。その間、14代の天皇のうち、実に半数以上を占めていることになるのです。
推古、斉明、持統天皇に代表されるように、女性天皇は単なる繋ぎではなく、巫女的な存在だっただけでもなく、男性にも勝る、政治的な素養も持ち合わせていました。
伽耶系、新羅系、百済系の豪族が権力闘争を繰り広げる状況下、より神通力や融和が求められる時代には女性天皇が、より武力闘争が求められる時代には男性天皇が即位したのでしょう。
このように、古墳時代から飛鳥・奈良時代までの天皇は、男性優位という訳ではなく、状況により、求められる能力に応じて男女わけへだてなく登用されたと見てよいでしょう。
4~平安時代は女にとって、男にとって受難の時代だった。
 平安時代という時代は、大陸では唐、新羅が滅び、外圧が緩み、国内では渡来勢力の抗争が止揚され百済一系の社会が確立し、内政に専念した時代です。
大陸由来の私権社会の純度が高まり、男中心の社会になったにも関わらず、外圧が急激に緩んだ為、男は解脱収束を強め、平和ボケに近い状況が生まれました。
女たちは社会的役割を奪われた上に商品価値として求められるようになり、結果、本来女たちがもっていた充足性や活力が奪われ、強力な役割不全、共認不全が生起したのだ思います。
男女役割共認が崩れ、男も女も役割を喪失したことで、女にとっても、男にとっても受難の時代が平安時代だったのではないでしょうか。
5~女たちが紡ぎだす言葉の力
平安時代中期に、政治的・思想的あるいは宗教的な表現は漢詩・漢文にゆだね、そしてそこからはみ出る表現を“平仮名(女手)”が担うという、漢字仮名混じり文という表現手法、すなわち現在の日本語が完成しました。そのはみ出る部分とは、何よりも女性的な感性にもとづく“性”であり、おおらかな“母性”です。そのような女性の視点を重視する文化の表現を担ったのが「仮名文学」でした。
 また、初の勅撰和歌集『古今和歌集』には、繊細で情緒豊かな四季の歌「春、夏、秋、冬」が綴られます。四季の歌に続き恋歌が綴られていますが、古代の人々は、自然の“性”と人間の“性”を同一のものとして捉え、根底で共通する“性”への肯定視、自然の摂理への畏敬の念を表現しようとしたのかも知れません。
6~武士の女たちは集団を守り、集団に守られていた
 武家集団が男女役割共認を母体とした共認度の高い集団を形成できたのは、武士という存在が、縄文体質が色濃く残った東国出身であること、自集団を守ることを目的とした、集団に根差した存在であったこと、が大きく関与していると考えられます。
武家の女は、嫁ぐことで武家社会特有のイエ同士をつなぎ、乳母を通してイエ同士を結び、イエを内側から守りながら、安定した集団をつくっていきました。武家社会とはそのような男女の役割共認が徹底された社会であり、その役割を全うすることで女性の充足が広がっていった時代と捉えることができると思います。
7~明治以降の一対婚様式が破壊したものとは
 庶民の婚姻様式は明治初頭までほとんど変らず婿入り婚(妻問い婚)という形式を取っていました。女は母集団が残っているので、生殖、子育て、生産に至るまで集団を強く繋がった中で生きていくことができます。
この集団性が母系集団と共に色濃く残されてきた事こそ、日本人の庶民が長らく本源性を残し、縄文時代から受け継がれた共認充足を母体にした集団運営ができてきた証であると思われます。
 明治以降は近代化という旗印の下、個人、自由、恋愛といった西洋化社会への変貌が推進され、一対婚社会への全面転換が図られます。人口が都市部へ移動する事で失ったのが農村の共同体社会であり、生産や生殖を核とした豊かな人間関係でした。
 市場経済を標榜する中、大量の都市消費者を作り出し、それまでの農村共同体は核家族として消費と生殖だけを核とした小集団に分断されます。女たちは生産集団から切り離され、当然役割不全に陥り、充足の羅針盤を失った生産集団もカタワの集団となっていきます。
このように、一対婚制度は日本における集団を変え、生産を変え、女たちの充足をも変えてしまいした。
【まとめ】
日本は私権社会への転換が世界で最も遅かった国といえるでしょう。
明治以降、一対婚が制度化されても当時の離婚率の高さが物語るように、簡単には一対婚制度も定着しませんでした。
これは、村落共同体における母系集団で得られる充足の方が、私権獲得で得られる充足感よりもはるかに勝っていた証でしょう。時代が進むにつれ、一対婚制度は浸透していきますが、当初はあくまで家と家を結ぶ結婚で、家父長がその実権を握っていました。
恋愛に基づく結婚が主流となるのは、敗戦後アメリカの価値観が強制的に注入されてからで、実に70年の歴史しかありません。
まだ貧しく、飢えの圧力からも脱却できていない頃は、私権獲得が最大課題ではありましたが、女は男の力を借りなければ生きていけない存在でした。そんな中では男は(生活資金を得る)闘争存在、女は男に依存し安定基盤(家庭)を守る存在として、明確な男女役割規範が有り、女の充足力が男の活力源としてまだ有効に機能していたと思います。
ところが、1970年、豊かさが実現し、飢えの圧力が完全に消滅してしまうと、自由恋愛が男女間の当然の約束事となります。しかし、私権活力が衰弱し、女は男に依存しなくても生きていけるようになり、男女の役割が不鮮明になっていきます。
まだ私権格差のうまみを感じられるバブルの頃までは、女は玉の輿をねらい自らの商品価値を高める事に専念し、女の充足力は完全に封印してしまったのです。
私権活力がとことん衰弱してしまった現在、私権獲得という収束先を失い、どうしたらいいかさっぱり分からなくなってしまうと、今度は女の方が先導役となって、潜在思念に眠っていた集団(仲間)の中で充足を育む本源的な想いが生起してきます。
農業を指向する女性や、仲間と起業する女性たち、企業の中で生き生きと働く女性が急激に増えています。
この動きは、決して男性並みに女性が力を発揮したいという思いではなく、集団の中で女性としての役割を見出し、それをまっとうすることで得られる充足感をエネルギー源としているのです。
こうした充足する女性たちに引っ張られるようにして男性も、男としての闘争的役割を見出し、追及に向かおうとしているのが、現在の最先端の現象といえるでしょう。
集団の中で充足する女性たちから発せられる期待が、これまで目的を失っていた男性の役割を目覚めさせ、男に本来の闘争存在としての追求力を発揮させようとしているのです。
この動きは家庭という集団ではなく、企業という生産集団の中で起こっている事が注目に値します。
現在、無意識に共同体を指向する企業が増え、活力を持って古い体質の大企業を凌駕する現象が巻き起こっています。
女性の充足力を基盤にして企業間の同類圧力に立ち向かう闘争性の高い集団がこれからの社会では勝ち残っていくでしょう。
今や単に充足を求めるだけではない「追求の時代」に入ったのです。

投稿者 tiwawa : 2014年02月07日 List  

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