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2014年01月22日
日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 2、平安時代~平安貴族による安定した社会秩序の形成~
<平等院鳳凰堂 http://www.google.co.jp/imgres?sa=X&hl=ja&rlz=1T4SNJE_jaJP509JP510&biw=1242&bih=579&tbm=isch&tbnid=LEqV1Tll14VWfM%3A&imgrefurl=http%3A%2F%2Fwww.asahi.com%2Fculture%2Fupdate%2F0710%2FOSK201307090205.html&docid=F6MVmOwL7OAD0M&imgurl=http%3A%2F%2Fwww.asahi.com%2Fculture%2Fupdate%2F0710%2Fimages%2FOSK201307090206.jpg&w=500&h=288&ei=dV7eUteMNoG-kAXU5YH4Aw&zoom=1&iact=rc&dur=2066&page=2&start=8&ndsp=12&ved=0CHoQhBwwCwより引用>
みなさん、こんにちは 今回から『日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~』の本編をスタートさせます。
まずは、平安時代の帝王学を見ていきます。
●平安時代とは?
Wikipedia平安時代http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3より引用します。
平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府の成立(平氏政権で一時期福原京が造営された)するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。
一般的に、平安時代は貴族(藤原氏)全盛の時代と言われています。
この時代は、古今和歌集や竹取物語に代表される詩歌、物語文学、日記・随筆が栄え、その他にも建築、絵画、仏教流布など、様々な文化が栄えました
教科書的にも、「貴族文化が華やいだ平安時代」という紹介が多く、この時代の支配者層(貴族)は、権力の上に胡坐をかいていただけで、帝王学なんて崇高なものは持ち合わせていなかったと捉えている方も多いかと思います
しかし、平安時代は社会秩序が安定していたと言われる江戸時代よりも長い期間続いた時代です。江戸時代は約260年続いたのに対して、平安時代は約390年。
これに対して、平安時代は初期、中期、後期と3つの時代に分けることができるので、一概に時代年数だけで江戸時代と比べるのはどうかという方もいます。
確かに、平安時代は貴族同士の小競り合い、蝦夷討伐などの争いもありましたが、社会が壊滅するほどのカオス(混沌)に陥ったことはなく、大局的に、秩序化された社会が実現されていた時代、あるいは「秩序化された社会を実現しようと試みた時代」と捉えることはできるのではないでしょうか?
当然、統合階級である貴族が遊び呆けていては社会の秩序化は実現されません :blush:
それではなぜ、秩序化された社会が実現できていたのでしょう
平安時代を貴族文化が華やいだ時代と見るのは一面的な見方で、むしろ、平安時代は「日本の帝王学の根底に流れるもの」を創出した時代といえます
続きに進む前に応援のほど、よろしくお願いします
ありがとうございます
社会の秩序化を実現させたものの正体は、当ブログの「大和政権の源流と葛城ネットワーク」シリーズhttp://web.joumon.jp.net/blog/2013/08/001518.htmlにおいても明らかにしましたが、「神社ネットワークの構築」にあります
事実、全国的に見ても、平安時代に建立された神社は、かなりの数にのぼります。そして、平安時代中期の延喜式(えんぎしき)によって、神社の格付けが明確化され、各神社には日本神話に登場する神が新たな祭神として付け加えられます。
延喜式の神名帳をみると、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)や稲荷大社の宇迦之御魂神(うかのみたま)など平安時代以前に建立されたと考えられる神社、あるいは朝廷が拠点と考える神社には、格式の高い祭神が付加されている傾向があります。
これらから、飛鳥~奈良時代に構築された神社ネットワークは、平安時代で完成期を迎えたといえそうです
●延喜式とは?
延喜式人名帳(http://www.genbu.net/engi/)より引用します。
平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、 二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。
五十巻三千数百条の条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係である。
延喜式巻一から巻十のうち、巻九・十は神名帳であり、当時の官社の一覧表で、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社 (天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。
ここに記載された神社が、いわゆる「式内社」である。 つまり、式内社は、平安時代(10世紀)にすでに官社として認定されていた神社であり、由緒ある神社として 知られていたことになる。
いわゆる六国史〔日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録〕に記載されている神社を国史現在社/国史見在社と呼ぶ。国史現在社である(平安以前に存在していた)にも関わらず「式内社」として延喜式に記載のない社を「式外社」と呼ぶ。
藤原不比等が日本書記において、神話の世界を構築して以降、全国の神社には、神話の世界に登場する神々が次々と祭神として祭られるようになりました。
大和朝廷(不比等)は、神話の神々の頂点に天照大神(アマテラスオオミカミ)を据えて、この神を天皇家の祖先に位置づけました。そして、延喜式で、日本神話の神々の関係に倣って、最高神である天照大神を伊勢神宮の祭神に据えることで、伊勢神宮を神社の頂点とした、各神社の関係を整備(=神社ネットワークの構築)したのです。
同時にこれは、日本神話の神々同様、各神社の格付けがなされたことを意味します。
つまり、大和朝廷は、延喜式で、各神社の祭神に神話の神々を当てはめることで、全国の神社を使った日本神話の世界を体現したのです。
そして、日本神話の最高神である天照大神は天皇家の祖先であり、天皇家は最高神の血筋を引いた万世一系であることを、神社ネットワークを使って庶民レベルまで浸透させることに成功しました。
●それでは、なんのために神社ネットワークを構築したのでしょうか?
いうまでもなく、秩序化のためと考えられます。より具体的には、秩序化を保ちながら徴税を図ることが狙いだったと考えられます。
もともと神社の役割は、延喜式で整備される前から、村落共同体におけるコミュニティの中心(=祭り場)でした。
大和朝廷は、新たな祭神を各神社に当てはめても、この村落共同体を破壊することはしなかったのです
むしろ、大和朝廷は、神社の特性を活かしながらネットワークの整備を行っていくことで、地方豪族、さらには神社をコミュニティの中心として信仰する庶民をも巻き込んで、秩序化(統合)の裾野を広げていきました。
縄文体質(受け入れ体質)である庶民側も、信仰する神様が増えることにさほど抵抗はなかったと考えられます。
こうしてみていくと、事実よりも嘘の方便(神話の世界、万世一系)を推し進めた方が、秩序化が上手く図れるという統合階級の思惑に、結果的には庶民も乗っかった形をとることになったのです。(時代の当事者である庶民は、現代みたいに情報も少ない時代なので、本気で神話の世界や万世一系の信仰を行っていたと考えられます。)
統合階級は、神社ネットワークで社会の秩序化を図っていきながら、庶民の信仰を活用した徴税システムを軌道に乗せていったと考えられます。
●まとめ
日本の帝王学の根底にあるものは、時代を問わず社会の秩序化を図りながら徴税を行うことにあります。そのために平安時代に統合階級が行った帝王学は、
①万世一系の天皇制は守る
②庶民の共同体を守る
これらを実現するためのシステムとして、神社ネットワークが構築されたと捉えることができます。
特筆すべきは、これらの実現基盤は、平安時代に完全に築かれたものとみることができるのです 🙄
どんな時代のどんな国家の統合者でも、社会の秩序化は最優先の課題にあります。しかし、その手法は全然異なります。ほとんどが力(武力)を制覇力とした力の原理で民衆を統治していた時代において、日本の場合は、決して集団共認を無視することのない独自の統治様式を構築しました。
そして、万世一系の天皇制は、平安時代以降も、今尚、安定した社会を実現するための秩序システムとして有効に働いています。。。
しかし、こうして、秩序化を実現できた平安時代でしたが、末期には、万世一系の天皇制を破壊する動き=院政が敷かれたことによって、平安時代は終焉を迎え、鎌倉時代に突入します 🙄
さて、次回は、鎌倉時代の帝王学を見ていきます。お楽しみに
投稿者 marlboro : 2014年01月22日 TweetList
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