| メイン |

2014年01月19日

自考力の源流を歴史に学ぶ7~百姓は農の民ではなく万能の民

このシリーズでは縄文の土器づくりを原点にした、さまざまな職人の姿を見てきました。どの時代を切っても、自然と同化し、共同性に重きをおく日本人の精神性が、職人たちの活躍を支えてきました。そして、彼らは特別な身分や才能を持っているわけではなく、ただ仕事に打ち込み、切磋琢磨し、追求を続けてきた庶民の一人だったのです。
そこで今回は日本庶民の代表?ともいえる『百姓』にスポットを当て、その本質に迫ってみたいと思います。
元来、百姓(ひゃくせい)は、氏姓制度(うじかばねせいど)から来たもので、広辞苑で「ひゃくせい」を引くと「一般の人民」とあります。また中世以降の各地の村落をみると、皆ある程度の田畑はもっているので農民的側面はありますが、個々にみれば、大工、鍛冶屋、石屋、炭屋、材木屋、さらには商人、船持等々、多様な専門職を別に持っていたことがわかっています。
現代の百姓=農民というイメージとは大きく異なり、農業に携わりながら、様々な仕事をもって、商品生産・物流・販売など社会活動の基盤を担っていたのが現実の百姓でした。百姓は「農の民」ではなく「万能の民」だったといえるでしょう。
それではこれから彼らの活躍を辿ってみながら、なぜ日本の百姓は万能の民たりえたのか?を考えてみたいと思います。
%E7%99%BE%E5%A7%93.jpg
<百姓の仕事ぶり>

 
 にほんブログ村 歴史ブログへ


○数千年をかけて稲作を成功させた百姓=追求者
実は日本列島は、稲作にはまったく不向きな土地でした。歴史上は、縄文から弥生時代にかけて稲作が日本に伝来したと言われていますが、もともと熱帯性植物であるコメが日本でそのまま育つはずがありません。日本の百姓は千数百年をかけて品種改良しつつ、世界で最もおいしいコメを作り上げてきたのです。
%E9%95%B7%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%A3%9A%E7%94%B0.jpg
<長野県の棚田>写真はこちらからお借りしました
『日本は地形的にも平地が少なく、急峻な川が流れ、気候的にも温帯で、熱帯植物である稲の生育には決して恵まれた条件とはいえなかった。日本人は知恵と努力によってそれを克服して、世界的な稲作国家になったわけです。そういう意味では、劣悪な条件が日本人を鍛えたともいえます。』
『まず必要なのは、急峻な地形を水田に変える事である。棚田を想像すれば、その大変さがよく想像できる。傾斜地を、ある部分は削り、ある部分は土を盛って、水平にしなければならない。一定の高さごとに区切って、何段もそれを作る。そして、近くの川から水路を作り、田に水が流れ込むようにする。田は何段もあるから、上の田から下の田へと水が流れるようにする。当然、一枚の田は水平に作らなければならないし、水量をコントロールするためには、水路の大きさや傾斜を適正に設計しなければならない。灌漑田を作るためには、精密な土地測量技術、土手や畦を作る土木技術などが必要である。また人々が力を合わせて田を造成していくために、共同体の運営技術も発展させなければならない。』
米作りひとつとっても、かように幅広い課題があり、それらを解決する能力が必要なのです。また、稲作技術は近代工業の発展にも大きく貢献してきました。
『たとえば、QC(品質管理)活動などは、もともと西欧で開発されたものですが、日本で定着してしまった。農作業はある意味で絶え間ないQC活動の連続のようなものですから、生産性向上、品質向上、粗
悪品を出さないといった活動をやることついては、日本人は何の抵抗もないわけです。』
(一部こちらから引用させていただきました)
現代の日本の発展も、単なる農作業に止まることのない百姓の追求力が土壌となっていたのです。
○「村の城」を築いて闘う百姓=闘争存在
城は戦国武将や大名たちの居城、壮大な天守閣がそびえているイメージが普通ですが、中世の歴史研究から明らかになってきた現実の「城」はまったく異なるものです。
%E6%9D%91%E3%81%AE%E5%9F%8E.jpg
<村の城>写真はこちらからお借りしました
上の写真は広島県千代田に残っている四十九城跡。この城は、領主の砦ではなく、領民たちが避難するための砦と考えられており、戦のとき領民たちが山へあがり、緊急に備えたようです。
 
中世末期の戦国時代では、戦になるとその周辺の村々も戦に巻き込まれます。それは村々から兵士を出すというこだけではなく、女子供の略奪と人身売買、田畑の作物や農具や家財道具などの財産の略奪や放火焼失ということも意味していました。そこで百姓たちはどうしたか?
自前の避難所をつくって、自分たちの大切なものを守ろうとしたのです。それが『村の城』です。
『村の城』といっても、多種多様で、単に村の裏山に上がって緊急の山小屋のようなものを建てて避難したものから、領主の山城のように山の尾根の先端を利用して空堀で要塞化したものまであったようです。
田畑仕事で鍛えた百姓の土木技術を持ってすれば、要塞づくりなど造作も無いこと。百姓は自分たちの生きる場所を自分たちで守る、自衛力も自前で持っていたのです。
○農業の枠を超えて社会を営む百姓=企業者
百姓は作物を作るだけでなく、流通や販売まで手がける商人でもありました。歴史家網野善彦氏によると、日本の村落は、
『田地だけなく、畠地の多様な利用、焼畑、休閑地での牛馬の飼養、それにさまざまな非農業的な生業の間の多彩な社会的分業展開を背景に、河海・山を舞台とする流通網で結ばれ、なお呪術的な色彩をまとっているとはいえ、活発な市庭での交易、商業、金融活動が行われ、手形の原初形態も姿を現している社会』だったとあります。
記録によると、江戸時代の佐渡の農家には得延宝、寛文の時代から、仕切りなどの商売関係の文書がたくさん残っているそうです。農業を営みながら廻船をやり、相場表をもち、敦賀、新潟さらには松前までいって市場情報を集める商人でもあったことがわかります。
最近の日本農業でも、生産から販売まで一貫して行う直販スタイルが注目されていますが、実は新しいことでもなんでもなく、元々百姓は、そこに可能性があればなんでもトライしてものにする企業家でもあったのです。
○集団の中で練成された百姓の万能力
稲作が日本全土に広まり、様々な産物の流通網が発達したのは中世の頃と言われています。この時代、農業から、多様な製造業、物流や販売までを手がけていた百姓は、まさに中世社会を支える民だったのです。
また、歴史上この時代の村落は惣村と呼ばれ、団結、自立意識の高い共同体であったこともわかっています。荘園領主などの支配層は存在していたものの、年貢を納める規定以外の自治権は、ほぼ惣村に一任されていました。惣村は自ら惣掟(法律)を定めて秩序を維持し、自衛力も備えた自治集団だったのです。
まさに百姓たちは「自分たちの生きる場を自分たちの手でつくっていく」当事者そのものであり、共同体が生きていくための課題を各々が担っていたのです。稲作を高度化した追求力も、どんな職能もものにする多才な能力も、集団を守る自衛力も、全てが集団の課題に取り組む中で鍛えられ、万能の民=百姓の能力が練成されてきたのだといえるでしょう。
これまで職人の世界では、一所を深く追求する職人気質に自考力の本質を見てきました。そして今回、百姓の活躍を辿ってみて「必要な仕事はなんでもできる」という総合力が、自考力の土壌となっていることがわかってきました。日本の百姓という『万能の民』があったればこそ、日本の優れた職人の世界も生まれてきたのだと思います。

投稿者 abe-kazu : 2014年01月19日  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2014/01/1560.html/trackback

コメントしてください

*