「次代の可能性をイスラムに学ぶ」~総集編 |
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2012年08月04日
シリーズ「日本人は何を信じるのか」~7.神話から出発した日本の近代
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この間で、江戸時代までの日本人の宗教観を見て来ましたが、気付き満載でしたね!! 😀 さて、今回は近代化に向かった明治維新を見て行きますね。
さて、皆さんは、欧米列強と肩をならべるために明治政府がとった戦略を知っていますか? 🙄
この時代は、文明開化といわれており、ガス灯があり、蒸気機関車が走っている時代です。そんな時代に何故か、神話を国家原理とした「天皇制」を採用したのです。実に不思議ですね。そこで、この天皇制を採用した支配者層の意識を見て行きたいと思います。
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まずは明治の時代背景と宗教を見てみます。○神話から出発した日本の近代
明治維新以来、1945年の敗戦にいたる日本の近代史において、宗教は「創唱宗教」と「自然宗教」の別を問わず、わずかの例外をのぞいて終始政治(国家)に従属してきたことは、宗教だけではない。
(中略)
なにゆえに政治、つまり国家がこれほどまでに国民の生活のすみずみにまで、強い統制を加えねばならなかったのか。それは一口でいうならば、ひたすら、強力な中央集権的「国民国家」をつくりあげる必要があったから、ということに尽きる。(中略)
天皇を国家経営の中心に据えて、しかも日本国の主権者としたことである。その際の最大の課題は、天皇が日本国の絶対的支配者である正当性を、どのように人民に納得させるかにあった。(中略)
つまり、アマテラスという天上界の神の子孫のみが、日本を支配する唯一の存在であり、天皇はその子孫にほかならないという、天皇家を支配者として正当化する神話にほかならない。近代とは、かりに合理主義が尊重される時代であるとすると、日本は、その出発にあたって、あえて「神話」を国家原理として採用したことになる。(中略)
だが、現実の支配者である王(天皇)が神の子孫であるとまともに公言したのは、ユニークといえばユニーク、奇妙といえばこれほど奇妙なことはない。
日本は近代の出発に当たって、国家経営に「神話」という神秘をかかえこむことになった。その神秘性は、なにをおいても、人民に力ずくで教え込まなければならない性格のものなのであった。(中略)
宗教もまた、こうした「神話」といかに折り合いをつけるか、あるいは、その「神話」を根拠とする政治体制の維持に、いかにすれば有益となるかという、もっぱら政治、統治の観点から論じられることになった。
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引用終わり
【豆知識】私達が聞きなれた「宗教」という言葉は、古くは仏教においても見られますが、それは今でいう宗旨の教えといった意味であり、現在の日本人が使う意味の「宗教」は、明治になってから翻訳語として生まれたものです。外国人の宗教と言えば、ほぼ一神教であり、それは宗旨そのものですね。ではなぜ、ぼかしたのか?
実は、禁制にしたかったキリスト教を内外に目立たないようにするために、神道・仏教を一つに扱う概念を作ったようです。
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中央集権国家を目指して取り入れられた「天皇制」と、宗教の関係を見て行きます。以下、引用
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○「天皇崇拝」のはじまり
天皇を中心とする、強固な中央集権国家を目指した、日本の近代国家は、キリシタン解禁を契機に、統治上の関心から、宗教を「内」と「外」に分断し、国家によって認められるのは、「内」の部分にかぎるという「常識」をつくりあげることに成功した。
(中略)
それは、討幕運動のなかですでに明確な姿をあらわしていて「尊皇攘夷」というスローガンになっていたことは、よく知られていよう。倒幕が成功して新しい政府が生まれると、神の子孫である天皇こそ、日本の支配者としてふさわしいという論法が、決定的な勢いを得て、「神国」としての国家経営が近代日本の目標となった。
だが現実には、肝心の天皇は、宮中深く女性と見まちがえるばかりの生活をしており、近代国家の君主としての訓練は、なに一つ身につけてはいなかったし、また、民衆の方も天皇の存在にはほとんど気がついておらず無関心そのものであった。
そこで、維新政府は、天皇の存在を人民に明らかにすること、さらに天皇が新しい日本の支配者であり、人民は天皇に絶対服従をしなければならないことを周知徹底させることに、エネルギーを集中することになる。
そのために、天皇を神聖視する理論が、あたかもキリスト教の神学のように作られ、さらに、それを人民に教育する手段が整備されることになった。それによれば、天皇はアマテラスという神の子孫であり、アマテラスを祭ることが天皇の最大の任務とされた。
なぜ天皇にとって、アマテラスの祭祀が最大の政治的行為になるのか。それは、アマテラスを祭る天皇を見たり知ったりすることにより、人民もそれぞれの祖先祭祀に励むようになり、神話時代に、祖先たちが天皇の恩恵を受けて暮らしていたことや天皇に忠誠を尽くしてきたことを思い起こして、新しい国家づくりに積極的に参加するようになる、と考えられたからである。天皇の祭祀は、新しい国民国家の形成にむけて人民を誘導できる、強力な手段になったといってよい。(中略)
また、天皇を神聖視する教えを国民に広める布教師のような存在が設けられて、彼らが全国に派遣され、「天皇崇拝」が説かれることとなった。
1872(明治五)年には教部省という役所が設けられ、全国の神主と僧侶の任命権を掌握し、彼らを動員して「天皇崇拝」の浸透をはかった。
この動きは、あたかも天皇を教祖とする新しい国教をつくるかのような印象を内外に与えた。さすがにそうした動きには、反対の声があがった。一つは、国家が宗教を人工的に作ることに反対する知識人たちの声であり、もう一つは、「天皇崇拝」を、神主たちと共同で、しかも神道式で示さねばならなくなった仏教側から出された、強い疑念や不満、抗議にほかならない。
維新政府は、できうることなら神道を国教にしたかったといってよい。天皇を支配体制の中心に据える国家経営を目指す以上、天皇を神聖な存在とし、天皇を絶対化する宗教、ないしは宗教に近いイデオロギーを、国家の力で保護、育成できるならば、民衆の支配は、よほど容易になるからである。(中略)
だが、こうした神道を国教とすることは、維新後、早い時期に大きな壁にぶつかることになる。それは、すでに繰り返し紹介している、列強によるキリスト教解禁の要請にかかわる。英仏米などの列強は、日本国内においてキリスト教の布教が自由に行われる保証がなければ、幕末に結んだ、いわゆる不平等条約の改正には応じない、とせまったのである。もし、神道を国教とすれば、キリスト教の布教を阻害することは明らかである。列強の要求をのむ限り、神道の国教化はありえないし、いわゆる「信教の自由」を保証してキリスト教の布教を認めざるをえないのである。
この段階で、天皇を絶対化するための、神道を中心とする新たな国教づくりは、表面的には挫折することになる。だが、それはあくまでも対外的な配慮に基づいており、その後も、実質的に国教化を推進する道が、引き続き模索されることになる。
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引用終わり
○神道国教化の国民教化運動が頓挫してゆく。以下引用
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神道国教化を推進しようとしていた神道主義者たちからも、教部省の神仏合同方式は、批判をあびることになる。またのちにもう一度ふれるが、島地黙雷を代表とする仏教側の強い批判に対する反批判として、神道は、仏教やキリスト教と並べられるような宗教ではなく、国家的儀礼そのものであり、宗教のように個人の選択にまかせる筋合いのものではなく、きわめて公的な色彩を帯びた儀礼体系である、と主張した。
教部省の国民教化運動は、官僚の井上毅、巨額な資金を政府に財政支援をしていた西本願寺の僧侶の島地黙雷、駐米代理公使の森有礼等の支配者のみならず、仏教とキリスト教、そして神道主義者からもはげしい批判をあびることになった。そして、やがて教部省自体が解体されてゆくが、しかしそれは、政府が天皇崇拝を推進する「教化」を、あきらめてことを意味しない。むしろ、その後にこそ、その「教化」は巧妙な詭弁を積み重ねて、人民の間に深く浸透することになる。それが、「神道非宗教論」にほかならない。
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引用終わり
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では、この「神道非宗教論」とは一体、何か?を見て行きます。以下、引用です。
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○さまざまな「神道非宗教論」
天皇を絶対視する神道を「信教の自由」の見地からただちに国教化できないとすれば、その神道を宗教とは見なさなければよいのである。もし神道を宗教と見なさないということになれば、神道を国民に強制しても、「信教の自由」には一向に抵触しないことになる。(中略)
教部省の誤りは、神道を宗教扱いした点にあるのであり、神道とは本来祭りの儀式のことであって、具体的には天皇が祖先を祭り、人民のために功労があった臣下の霊魂を慰める道のこと(中略)
神道至上主義は、たしかに明治維新の原動力の一つとはなったが、政治機構のすべてを「古代」に復帰させようとする時代錯誤を犯したために、早い時期に、政権の中枢から追放されてしまった。
この点、井上毅の神道非宗教論は、ことを「朝憲」と「教憲」に分けるという視点を明確にして、政策化への道を開いたといえよう。
「朝憲」とは朝廷の掟、国家の掟の意味であり、「教憲」とはいわゆる宗教をさす。
井上毅は、つぎのようにいう。神道をもって宗教と考えるのは、近世に入ってから、わずかの国学者が言い出したことにすぎないのであり、もともと神道とは、祖先を崇敬し、その祭祀にしたがうことであって、それはあくまでも国家の掟、朝廷の掟に属する。このような神道の祭祀を、宗教がいう礼拝、祈念と同じものと考えるのはまちがいだ(「山県参議宗教処分意見案」)、と。
つまり、神道は「朝憲」であり「教憲」ではないというのだ。国家の掟である以上、国家を構成する人民がそれに服するのは当然だということになろう。
この立論では、神道に服することと「信教の自由」は、なんら抵触することにはならない。井上毅の論法は、神道非宗教論を政策として実行してゆく上で重要な論拠となった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
支配者は、国内では国民を支配するために神話を根拠とする「天皇の絶対性」を強いた一方で、国外に対しては、神話を基本とする前近代的な国家形成が批判されないように、神道は宗教に非ず、とする2枚舌の「神道非宗教論」で誤魔化して来たわけです。実に巧み(?)ですね。
そんな中で、大衆は、支配者の観念操作とは無関係で、お盆やお祭りなどの共同体の営みを続けていました。どうも、支配者の想いには左右されなかったみたいです。
次回は、その庶民の意識を追いかけて見ます。お楽しみに!! 😀
投稿者 sakashun : 2012年08月04日 TweetList
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