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2008年01月30日

縄文集団の形成過程

縄文集団がどのように統合されていたのかを追求していく上で、集団のおかれていた状況と形成過程をおさえることは不可欠となります。
そこで今回は、2回にわけ、前編では「縄文集団の形成過程」を、後編では「縄文集落の規模と分業」をレポートしてみたいと思います。
今回、参考にさせて頂いたのは縄文文化と現代です。(一部編集、並びに参照文中の引用元は割愛させていただきました。)
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【住居】

旧石器時代には洞窟や岩陰を遊動生活のベースキャンプとしてきた人々にとって、一定程度長期に同一場所に住むということが必然的に竪穴住居の持続的な確立を促していった。
つまり、竪穴住居居住による開地への生活拠点の進出は、次第に複数の血縁集団の集合を促し、そこに必然的に集落が形成されていった。
人が集団で生活を営む背景に他の動物や自然災害などに対する集団防御本能があると言われるが、それは人類進化の一段階におけるごく普通の、世界中どこの地域でも起こり得る共通現象である。
しかし、遊動生活を送っていた旧石器時代段階では、それはあくまでも一時的な集団の集合・離散の繰り返しであり、そこに持続的な共同体はできにくい。
だが、旧石器時代終末期、縄文時代初頭、住様式としての竪穴住居の採用は、強固かつ永続的な集落共同体の形成を可能にしたのである。
浅く、柱穴も細く不規則な「竪穴遺構」が、次第に大地への堀込みを深くし、しっかりとした柱に支えられた定形的な上屋を持つように変化していく。
これによって、血縁的集団の維持と展開が可能となって、集落形成の可能性を実現させた。
つまり、定住は血縁共同体の紐帯を強化するだけに留まらず、親から子へという一系的な文化伝承に加えて、経験豊富な祖父母から孫へという3世代間の文化伝承の契機となっていったのである。
ここに縄文文化に確固たる伝承力が芽生え、世代を超えた伝統の形成がはじめられていく。

【単系と双系の家族原理】

一般的に、食料確保が不安定な状況では、必要に応じて父方、母方の有利な集団に移ることがあった。
この点、小川修三氏は、「縄文社会のように人口の絶対量が少なく、生活基盤の不安定な社会では、双系と単系をあわせたような複系原理がとられた」と指摘する。
春成秀爾氏は、「古い段階ではすべて母系的な妻方居住婚であったが、東日本では中・後期の双系的な選択居住婚の時期を経て、後期末・晩期には父系的な夫方居住婚が優勢な社会へと移行した」とする。
縄文後期末には父方優勢な双系婚となったが、それ以前は母系社会であった。

【妻方居住婚】

縄文社会が母系社会であったことは、縄文社会の特徴を色濃く残存させるアイヌ社会からも確認できる。
アイヌ家族は、「妻方居住婚」(夫が妻の世帯に同居)であり、夫は「妻の共同体に婿入りし、妻の両親の家に住んで、しばしば彼らのために何らかの労働を提供」した。
従って、その先祖と思われる縄文人の婚姻も妻方居住婚であるといえよう。
ここでは、女性は16歳で母親となり、32歳でおばあさんになり、48歳で祖母となるのである。
一方、夫の生殖能力は長く持続するので、他の「妻方」に居住する場合もあったであろう。
一夫一婦制が確定されず、母の生殖が重視されていた社会では、各世代との「重層的」家族が成立する場合もあったろう。

【家族重視論】

血族的集落を基本社会単位とする縄文社会にあっては、厳しい自然環境の中で生きるために、家族は自ずと結束せざるをえなかった。
従って、縄文社会では、女性を中心とした、自然の一部としての家族的連帯が当然のなりゆきとして重視され、その絆としての家族愛が重んじられていたであろう。
母を中心として家族は愛に満たされた生活を送っていたであろう。

【ムラの規模】

ムラの人口規模は、その地域の食料生産力に依存する。
人口繁殖力そのものは大きいのであり、故にそれを扶養する食料さえ確保できれば、人口は「爆発」的に増加するのである。
だが、縄文時代は水稲稲作など「持続的に増加」する食料の生産に欠けていたので、人口増加は抑えられていた。
この結果、人口20万人前後のもとでの数千から数万のムラの人口規模がきまってくるのである。
大部分は小規模ムラだが、水産物、海産物、狩猟、森林栽培などによっては、大規模ムラとなるのである。

【集落形成原理】

縄文集落の形成原理を見てみよう。
縄文時代の人口密度は100平方キロメートル当り200人、300人は、「採集・狩猟段階の文化としては最もよく発達していたと言われる北アメリカの北西哀願インディアンの人口密度」100人に比較しても、大きいのである。
数千年間人口が10-30万人未満であったということ、それ以上は縄文人口が増えなかったということは、この人口規模が一朝一夕にきまったものではなく、数千年の間に相互に生き残るために自然にきまったものであったということを示唆している。
その土地の自然生産力度が人口規模をきめていたのであり、食料供給力が大きくなれば、例えば三内丸山遺跡のように500-1000人規模の集落も出現することになるわけである。
そして、これらの各集落は共生するために各範域を相互に尊重しあっており、その関係はネットワークのように緊密になっていたと思われる。
平均1平方キロメートル当り2~3人の人口密度であり、縄文前期が0.03人(関東9人)、中期2.9人で各集落が形成され、食料の豊かな関東・東北に人口が集まっていた。
一集落の周辺の自然生産力が限界に到達すれば、挙村移住を余儀なくされたり、一部村民が村外移住を促された。
母集落を中心に血縁的集落が周辺に形成され、母集落に祭祀(ストーンサークル、大木柱など)が整備されていたようだ。
こうした集落構造が日本各地に、特に東北・関東では濃密に、形成されていったであろう。
それは、食料確保の観点より近接は許されず、遠方であればあるほど相互に安全である原理(集落遠接原理)が作用しており、それが「緊密なネットワーク」の限界となっていたであろう。

自集団内は、血縁関係を中心とした深い共認で統合してきた縄文人も、集落遠説原理を超えて、他集団が目の前に現れたときは、驚き(=恐怖)を感じたのではないでしょうか?
そのときとった方法が、自集団内の統合原理を相手集団に拡張すること。
つまり、最大の評価(=尊敬)の証として、最も大切にしているものを相手に贈与するという方法だったのではないでしょうか?
次回は、「縄文集落の規模と分業」についてレポートしたいと思います。

投稿者 naoto : 2008年01月30日 List  

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コメント

こんばんは、
新大陸が石器中心だったのは驚きでした。
>このように、銅までは使用しているにもかかわらず、青銅も作らず、まして鉄を道具に使用していない。
やはり略奪や戦争が少なく、必要性が小さかったということでしょうか。
(ただ、そのために結果的に白人による皆殺しと徹底的な収奪を可能にしてしまったのは重い事実です。)
※ところで1行目の2つ目の新大陸→旧大陸ですよね?

投稿者 Hiroshi : 2008年2月24日 01:51

※ところで1行目の2つ目の新大陸→旧大陸ですよね?
ご指摘ありがとうございます。 修正します。
アステカなど、どうも生贄=血生臭いイメージが付きまとい、その為に戦争自体も過激なイメージを持ちやすいのではないかと思います。
実際は違う?だから金属にその必要性を見出さなかった?
事実はどうか? 更に調べていきます。

投稿者 dikidki : 2008年2月24日 10:17

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