2022.01.05
【縄文再考】人類の起源はどうなの?アジアのヒト進化を考える
縄文中期(紀元前4500年頃)には26万人も居たとされる「縄文人」。日本の国土の総面積は約37万8千km2でほぼ7割が森林なので、単純計算で森林以外の部分の4㎞四方毎に10人の集落がある位の密度です。集落同士の交流や婚姻関係もそこそこあったと言えると思います。
縄文時代に日本にいた人々は、北から、朝鮮半島から、南から渡来したと考えられます。これらは、どれかでなく全てが存在し、交配して重なり合いながら縄文時代を形づくっていったと考えています。
その後の弥生時代には、やはり朝鮮半島から渡来した新しい人々との混血も始まり、「日本人」の基礎が形成されていったのだと思います。
さて、縄文時代以前や縄文時代草創期に日本列島に居た人々は、果たしてどこから来たのでしょうか?
最も古い人骨遺跡は、石垣島の白保竿根田原洞穴の旧石器時代人骨。しかし、これをルーツとするには根拠が不足しており、前述の多方渡来を想定せざるを得ない状況です。交配によって遺伝子がまじりあい、元の人骨とは異なる傾向を示す、だから「違う」と判定されるなど、検討の余地がまだ多くあるとも言えます。
今一度違った角度から検討してみようと思います。
そもそも、人類の拡散は、アフリカ単一起源説が優勢で、Y染色体もミトコンドリアも、現代日本人のそれは、ユーラシア大陸の北方民族との近縁さを示すと言います。しかし、「近い」という事と、「基」であることは、交配による遺伝子変化を考慮すると必ずしも整合しません。しかも、遺伝子の新旧は、未だ不明とのことです。
ヒトやその前の類人猿進化はどうなっているのか?考えます。
類人猿のうち、チンパンジー99%、オランウータン97%がヒトと共通の遺伝子
ゴリラと人は98.25%同じ!チンパンジーは98.73%!大型類人猿の全遺伝情報(ゲノム)解析!
「人間とゴリラのゲノムの違いは1.75%で、共通の祖先から1,000万年前に枝分かれしたらしい。8日付の英科学誌ネイチャーに発表する。研究チームによると、類人猿で最も人間に近いチンパンジーと人間とのゲノムの違いは1.37%。」
オランウータンのゲノムを初解読、予想以上の「多様性」 ネイチャー誌 2011年1月30日 16:14 発信地:パリ/フランス
「オランウータンのゲノムの遺伝的多様性はヒトよりも大きかった。ちなみに、ヒトとチンパンジーのゲノムは99%共通しているが、ヒトとオランウータンでは約97%が共通していることが確認された。」
大型類人猿とは、今では、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ及びヒトを指します。人類進化を考えるうえで、同じ大型類人猿か、その祖先のサルから進化したと考えるのが自然です。ヒト科類人猿のうちゴリラ、チンパンジー、ボノボはアフリカ類人猿、オランウータンはアジア類人猿と呼ばれます。アジアのヒト科類人猿はオランウータンだけなのですが、テナガザル科類人猿は、数種がアジアに生息しています。むしろアジアの方が、類人猿の種類は多いと言えます。
アジアの古代類人猿
「(ギガントピテクスは)約100万年前(新生代第四紀更新世前期後半カラブリアン)前後に出現したと見られ、中国、インド、ベトナムなどに分布していたが 、30万年前(更新世後期前半イオニアン、中期旧石器時代の初頭)あたりを境にしてそれ以降確認されない。本種の生存期間はホモ・エレクトゥス類が栄えていた時期と重なり、両者の生息域はかなり重複していたようである。」(Wikipedia)
ホモエレクトスは、ジャワ原人もその亜種とされる原人で、頭蓋骨などどちらかといえばサルに近いものです。
アジアには、他にフローレス原人と呼ばれる原人も居ました。
「ホモ・フローレシエンシスは直接の祖先ホモ・エレクトス(84万年前ごろ生息)が矮小化したものと考えられているが、より原始的な祖先に起源を持つ可能性も示されており、ホモ・ハビリスから進化したという説もある。脳容量は380立方センチで、平均的なエレクトスの半分程度、大型のチンパンジーよりも小さい。」
フローレス原人の方が、人類の近いと言えるでしょう。同じアジア地域のサルに近い原人と人類に近い原人。既に絶滅したギガントピテクスも近くにいたとすると、遺伝子変化に交配があったと考えても良さそうです。
よく言われる人類のアフリカ起源説。単一起源と言われるこの説では、他の地域で、別の系統から同じホモ・サピエンスが出現するとは考えられていません。そうなると、
アジアにしかいないオランウータンやの祖先、原人、旧石器人骨は、どこからきて、何故人類に近い骨格を持つなどの「進化」があったのでしょうか?
その周囲に、ホモ・サピエンス(縄文人から現生人類)への進化は起きなかったのでしょうか?
アジアのヒト進化の可能性
アフリカ単一起源説は、世界の現生人類の遺伝子の差異を見比べ、最も根源的(変化する前)と思われる遺伝子が、現アフリカ人のものだとしただけです。
「遺骨(化石)から得られたミトコンドリアDNAの解析結果に基づき、現在ではネアンデルタール人(旧人)は我々の直系先祖ではなく別系統の人類であるとする見方が有力である。両者の遺伝子差異は他の動物種ならば別種と認定されるレベルであり、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは混血できなかったとする考え方が有力であった。しかし、2010年5月7日の『サイエンス』に、われわれ現生人類のゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数パーセント混入しているとの説が発表された。」ネアンデルタール人 – Wikipedia
旧人に分類されるネアンデルタール人は、ベルギー、ドイツ、フランス、イスラエル、イラクで発見されました。その後、現在のヨーロッパ人の祖先の一部とされるクロマニヨン人が見つかります。北アフリカ、ヨーロッパで見つかりますが、アジア地域には見られません。アジアに旧人は居ません(見つかっていません)が、旧石器時代人骨はアジアでも多数発掘されます。そして沖縄県の南西諸島域に比較的多いのです。
全ての化石人骨がゲノム解析されているわけではないのと、交配して遺伝子が混入し、結果として元の祖先から遠い遺伝子になることもあり、結局「出アフリカ」も、原人類から数えて、3,4回、中には交配後にアフリカに戻ったと見る向きもいる程です。
画像はこちらから
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アジアで古代人類も少なからず交配したはずで、その為元の人類から遺伝的に遠く見える。しかも、仮に近い遺伝子の人類同士どちらが古いか分からない。
問題は、新人類に進化したのが、アフリカなのかアジアなのか、はっきりしない、言い換えれば両方有り得る、という事です。
むしろアジアで類人猿と人が分かれ、その後アフリカに到達し現生人類に進化、アフリカに戻らなかったアジアの古代人類も同じように進化したとすればどうでしょうか。
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posted by sai-yu at : 2022年01月05日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.31
【縄文再考】全国各地にある竪穴住居は北方適応住居だった。シベリアから技術流入したか?
縄文人の生活に欠かせない竪穴住居。茅葺き屋根の姿が一般的には認知されていますが、最近の研究で、「土屋根もあった」というニュースが話題になっています。
また、「凍結深度以下」まで掘り、地熱利用していたという説や、食料貯蔵説も話題に上がっています。
本ブログでも挙げられている北方ルートとの関係、そして集団性の変化などにつなげていきます。
以下論点です。
①現在述べられている学問的見解のまとめ
②北方ルートとの関係(http://web.joumon.jp.net/blog/2021/12/4562.html)
①現在述べられている学問的見解
・竪穴住居焼失後の調査で土屋根を確認(縄文人の家、「茅葺き」から「土屋根」へ 研究30年の成果 – 産経ニュース (sankei.com))
縄文時代の竪穴住居跡の調査では屋根の材料、形状までは解明されていませんでした。これまで復元されていた茅葺きの屋根はイメージ(他民族の住居を参考に)でしたかなかったのです。
焼失跡に良好に土・植物の炭化材が残っていた遺跡があり、土屋根の住居があったことが明らかになりました。
⇒土葺き屋根は非常に防寒性、保湿性に富んでおり、寒さを凌ぐのにはもってこいというわけです。
⇒茅葺きは内外で空気の流入がありますから、建物内部でも外気と同様の気温だったでしょう。土葺きは樹皮などの屋根材に土でサンドウィッチすることで断熱効果をとっていたとされています。
⇒住居は2つ1セットで構成され、集落内に竪穴住居跡が10あれば同時に建っていたのは4~5と言われています。冬用の土葺きの住居と夏用の茅葺きの住居を住み分けていたと考えられています。
・凍結深度以下で地熱を利用した暖の確保(北の縄文(縄文人の住居・集落) – 環境生活部文化局文化振興課 (hokkaido.lg.jp)
南茅部町大船遺跡の竪穴住居跡で特徴的なのは深さが2.4mと他の遺跡のものに較べ際立って深い点です。深さが増すほど内部の温度が一定に保たれる
⇒凍結深度以下まで掘り下げるのも、北海道という寒い地域の特徴。北海道は2.0m~2.4mですが、本土の一般的なものは60cm~70cmです。
⇒逆に夏は湿気による劣化や腐敗などを防ぐために高床式住居が建てられていました。国内最大の三内丸山遺跡では樹皮、土、茅葺きの3種類が復元されている。
・食料貯蔵のために地下の安定した温湿度を利用(縄文時代の“竪穴住居”を知れば、火と水、土との暮らしかたが見えてくる。今こ | SuMiKa | 建築家・工務店との家づくりを無料でサポート)
中2階をつくってそこに食料を置き、下で火を焚いて、乾燥させて保存していました。
また、竪穴住居の床からさらに掘り下げ、恒温倉庫としていました。
以上のように現在述べられている学問的見解から、★竪穴住居は北方地域に特化した住居と言えます。(または寒波の訪れる冬の住居)
ということは北海道や東北を中心に広がっていたと推測できます。本ブログではさらに北のシベリアから縄文人が流入してきたと追求しています。その関係を探っていきましょう。
②北方ルートとの関係
(http://web.joumon.jp.net/blog/2021/12/4562.html)約二万年前にシベリアから北方縄文人流入(細石刃を伴う)というのが良く知られています。
次に住宅です。住宅の特徴でいえば、「竪穴式住居のカバ」や、「移動式住居のオグダ」など類似する点が多いのです。
カバは竪穴式であり、建物内部には暖炉があります。オンドルのようにベンチがあり、その上で就寝していたとか。
オグダは円形で支柱として3本とY字の股木、夏は樹皮で覆い、冬はアザラシの皮を覆う。また、ナナイ族は夏と冬で目的に応じて住み分けていたという。
縄文時代の竪穴住居にもオンドルようなベンチがあったとされています。また、樹皮で覆うことはもちろん、冬用には土屋根の住宅で住み分けています。かなり似ていますね。
以上のように現在知られている縄文時代の竪穴式住居はシベリアと大きく関係しています。
陸続きで交流があったことは事は間違いないですね。
縄文人は、自然を受け入れ共生し、外からの技術を受け入れ真似ることで生きる力を強めています。
「自分たちの力で生きる」のではなく、「生かされている」から共生し、素直に受け入れ真似る生き方をしているのでしょう。
北方ルートは集団構成や、役割なども大きな影響を与えてそうですね。
次は集団性なども追求していきます!
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posted by matudai at : 2021年12月31日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.31
【縄文再考】すべては循環している~”死者”は”生者”と、そして集団の中で共に生き続ける~
(石秋田県大湯ストーンサークル館:万座環状列石)
皆さんこんにちは!
前回は縄文早期から出現した集団墓の形態から縄文時代の集団の形態について辿ってきました。
縄文時代は集団墓に限らず多様な埋葬形式や墓の形式が存在しています。
そこで今回は埋葬形式について整理し、その中での共通する死生観の精神性や、集団形成における関係について追求していきたいと思います。
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posted by hanada at : 2021年12月31日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.23
縄文再考:縄文人のルーツ⑤~原日本人はどこから来た?~
みなさん、こんにちは!
今年の秋ごろから追求を深めてきた縄文人のルーツについて、今回記事で一旦の区切りとしてまとめておきたいと思います。これまでの追求で、現代日本人につながる祖先集団のルートを探索してきましたが、改めて【旧石器→縄文→弥生→古墳】の時間の流れをしっかりと意識することが重要であることがわかってきました。特に、時代の移り変わりの時期に何があったのか?が重要です。
その中でも、そもそも遺跡の数が少なく、つい最近までその存在自体が国内で認知されていなかった「旧石器時代」からどうやって「縄文時代」に移ったのかは重要です。国内の旧石器時代が公式に確認されたのは、昭和に入ってから。旧石器時代の概念とともに、同時代をもたらした旧石器時代人のルーツ探しの現状を改めて概観し、縄文人のルーツの仮説を整理します。
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posted by asahi at : 2021年12月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.22
【縄文再考】渡来人と縄文人の相互依存による進化
みなさん、こんにちわ!
先日は、「縄文土器総論」として、縄文土器から見る縄文人の精神性・技術力をまとめました。
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命を喰らう器「縄文土器」だからこそ、生命への感謝と再生への祈りを込めた縄文人。
ありのままの自然界を土器の限られた面に落とし込むために、自然・人の注視から見出した生命原理「対構造」による記号を用いて陸界・水界を表現していた。
空間を記号化して、2次元的に再構成し、それを3次元の土器に再統合しなおすという非常に高度な空間把握技術。これも、自然への感謝、そして注視(一体化)があったからこそ身に付いたものなのかもしれません。
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今回からは新シリーズ!縄文人の精神性が弥生時代以降どのように変化していったのか、弥生人と縄文人の違い・関係性とはなにかを追求することで、縄文を再考していきたいと思います!
■支配されたのではなく、渡来人を受け入れた縄文人
弥生時代の最も大きな変化は、朝鮮半島をはじめとした大陸から、渡来人(弥生人)が渡ってきたということ。
多くの説が流れるなかで、まず見極めなくてはならないのは、この渡来人によって、縄文人は駆逐・支配されたわけではないということ(昔はこうした推論が支持されていた)。
・そもそも朝鮮半島で土地を得られなかった(生きていけなかった)者が渡来しており、好戦的でもないし、支配しにきたわけではない
・渡来人は稲作に適した平野部の湿地帯を求めており、縄文人の暮らす狩猟採集に恵まれた山間部とは自然と住み分かれ、争う理由がない
・弥生時代から100年間は弥生人による環濠集落(軍事施設)跡がみられない、縄文人と弥生人の大規模な戦争の痕跡はない
・血液型Gm遺伝子の分布からも、現代の日本人の体の中には、縄文遺伝子が残っている(東アジアと外見は似ていても、DNAは大きな差がある)
こうした事実を並べてみると、縄文人と弥生人は共存していたと考える方が、自然ではないか。むしろ、人口爆発のなかで、集団が大きくなり、農地が広がっていくと、土地を巡る争いが生じるのは弥生人の間である可能性が高い(弥生人の争いの中で巻き込まれた縄文人はいただろう)。
そのなかで、特筆すべきは、環濠集落は関東以北ではほとんど見られないにも関わらず、水田は広がっているということ。(参考:「弥生社会における環濠集落の成立と展開(藤原哲)」等)
これは、縄文人主導の水田が広がっていることを意味する。渡来人とは争わず、稲作技術を取り入れ、寒冷期・寒冷地においても安定した食料確保を実現していったと考えられる。支配されて稲作文化へと移行したわけではなく、弥生人の文化を積極的に取り入れるなかで、弥生人と一体化(弥生化)していったということ。(技術力は発展しつつも、否応もなく自然環境によって人口・栄養状況が左右されていた縄文時代から大きく進化を遂げたといえる)
■弥生時代にのこる、縄文の力
弥生時代は、渡来人による技術に照準が当たりがちだが、弥生早期の外来系の土器は、一部の遺跡を除いて、ほとんどの地域でみつかっていない。
また、青谷上寺地遺跡の学芸員は、土器をはじめ、縄文人の抜歯の風習の残存などを例に「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。発掘を長いことやっていると、縄文の力をひしひしと感じる」という。
※採集生活から農耕へと生産様式が移行するなかで、高品質の土器を大量生産する(独自・独創性ではなく)ように土器様式が移ってはいる
縄文人は、渡りきた者たちを受け入れ、共存し、対象から学ぶ。自集団の精神性・技術力を塗り重ねることで、文化・技術を発展させてきた。
何が答えかわからない昨今注目される、様々な対象から学び、様々な集団との共創のなかで、開かれた追求を進めることで答えを出すというのは、まさに縄文人こそ力を発揮できる生き方なのかもしれません。
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posted by sibata-h at : 2021年12月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.14
【縄文再考】大陸と縄文②~日本海の海流に乗って大陸から文化が届き、列島産・黒曜石は海を渡って大陸に広がった
前回、縄文時代から大陸と列島は相互に影響し合い、耳飾りや石斧・土器などで類似性があることを紹介しました。
国境のない時代、縄文社会は大陸と分断していたのではなく、日本海を囲む横断的な文化圏の中にあったのです。
今回は、さらに、大陸と縄文の関わり合いを示す痕跡を紹介します。
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posted by ando-tai at : 2021年12月14日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.14
【縄文再考】研究者の多くが矛盾した立場をとる単一起源説は東アジアを説明できない
皆さんこんにちは。
今回は、少し視野を広げて人類の起源に関するお話です。
よくミトコンドリアDNAやY染色体DNAなどで、人類の起源はアフリカの一人の女性と言われますが、そのことに関しもう少し正確な検証が必要、と指摘する方がいます。東京大学創立百二十周年記念東京大学展 「学問の過去・現在・未来 第二部 精神のエクスペディシオン」のHP上で、人類のアフリカ単一起源説への批判的な見解を木村賛・東京大学大学院理学研究科教授。「アムッド人」に関する著述の「3新人の起源と広がり」の部分ですが、その要約は以下の通りです。
[挿図10]多地域進化説とアフリカ単一起源説
代表的な化石人骨名を記入してある。
多地域進化説では各地域間の交流(太い実線)を、アフリカ単一起源説ではアフリカ以外の地域での旧人の絶滅を想定している。
単一起源説の根拠と課題
単一起源説の根拠
・各種現代人のミトコンドリアDNA遺伝子を用いて近縁関係を調べた結果、最も祖先形に近いものは現代アフリカ在住民であるとした[Cann et al. 1987]。
・最古の新人らしい化石はアフリカの十数万年前の層から出ているとされる。
・旧人から新人への連続性が、特にヨーロッパと西アジア地域、すなわち旧人ネアンデルタール人の住んでいた地域では考えにくい。
単一起源説の課題
・東部アジア地域の進化が説明できないこと。
・分子進化の手法は現生生物の近縁関係を推定するには有効であるが、過去の年代決定はできない。
多地域進化説の根拠と課題
多地域進化説の根拠
・化石人骨においても、文化遺物の上からも、このような連続性が旧大陸各地域ごとに存在すること。特に東アジアとインドネシアなどの東南アジアからオーストラリアにかけてとの二地域においては、化石において原人、旧人、新人と連続する形質が各々で見つかっている。
多地域連続説の課題
・根拠とされる形質の連続性に対する疑問。
・多地域において全世界に共通する新しい人類へと進化が進む、という遺伝学的モデルが考えにくいこと。
単一起源は原人の出アフリカ
以上の整理から、木村教授は、
「もし計算の誤差がありアフリカ単一起源が約百万年前まで遡るとすれば、この単一起源とは原人の出アフリカを示していることとなる。したがって多地域進化説との矛盾はなくなる。」
「現在のところこの二つの説のどちらが妥当であるかについての決着はついていない。遺伝学の成果を背景にユーラシア大陸での旧人の絶滅を主張するアフリカ単一起源説が有力となってはいるが、それでは説明できないところが多い。この説明のために現在かなりの数の研究者は、極端な単一起源説も極端な多地域進化説もどちらもとらず、中間の立場をとろうとする。すなわち、アフリカで最初の新人が現れ、その影響がユーラシア大陸に広まったことは認めながら、その地域にいた旧人の現代人への影響も認めるという立場である。この考えはユーラシア大陸の旧人の遺伝子の残存を想定しており、アフリカ『単一』起源説とは矛盾するものである。」と述べます。(要約以上)
つまり、現アフリカ在住民のDNAが、現代人の祖先形として認定するにふさわしいことまでは良いとして、そのままアフリカで全新人の祖先がいたとするのは、些か無理があるという事です。それは、東アジアの原人、旧人、新人の流れにアフリカ出自の新人がどう関わるかという事と同じで、アフリカ出の新人以前に東アジアに別系統人類がいたなら、その時点で「単一」でない事を指摘しているのです。
※分子進化の手法は、しばしば日本人の起源検討でも使用されます。その結果、現在の日本人の起源は北方渡来説が有力ですが、そのベンチマークとなった古人骨が縄文時代後期の礼文島出土の人骨であることが、「壁」と思います。昨年12月に報じられた愛知県出土の同じく後期古人骨の伊川津人骨は、ロシア人とは程遠い、という東大研究者の成果も有ります。
多発ではないにしても、東アジア固有の人類進化があったとしたら。更にその大元に、大型類人猿オランウータンがあるとどうか。交配可能な二系統の新人類が、当初は別だったが、中国大陸で混血、その後日本列島へも伝搬しさらに混血したと考えることも可能と思います。特にアイヌと沖縄に共通性が有り、本土日本人だけが異なる遺伝子の傾向は、その後の塗り重ねを表していると思いますが、如何でしょうか。
アムッド人とその人類進化上の意義 木村 賛 東京大学大学院理学系研究科コチラ
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posted by sai-yu at : 2021年12月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.10
【縄文再考】単一集団から組織集団へ、集団間のつながりが持続可能性と多様性の幅の広さを生み出した
みなさんこんにちは!
前回は定住化した縄文人の集団生活と集落の形成過程から集団をどのように形成していったかを辿ってきました。
今週は墓や埋葬方式から共同体として生きる縄文人の集団形態についてもう少し深堀していきたいと思います!
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posted by hanada at : 2021年12月10日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.09
縄文再考~自然への注視・一体化で定住を可能にし、1万年以上もの時代を築いた~
これまであらゆる切り口で縄文再考してきました。その中でも 「争いの跡がない。贈与としての土器。祈りの土偶。」 などの追求で確かになりつつあるのは縄文時代の”共同体性”。定住を始め、集落を築き、集団で生きる中でも争いが起きない、といった見解から、間違いなく共同体性は存在します。
共同体をユートピアと位置付ける学者が多いですが、縄文時代の共同体性は本当にそうでしょうか?可能性、真似ポイントを探る上で縄文時代の集落を追求するのは何か手がかりがありそうです。
そこで定住から集落間のつながりを追求して解明していきたいと思います。
今回は定住について、深掘っていきたいと思います。
■おさらい
まずはおさらいです。縄文時代の特徴は“定住したこと”挙げられ、定住の中で土器や土偶などの縄文文化を築いていきますが、農耕はありません。
一般的には農耕の開始をもって定住と言いますし、自然との一体感ではなく、自然を大幅に加工して高い穀物を集中的に生産することを目的とします。
しかし、縄文の定住は自然を壊すや制御するなど大幅な加工はしません。
ではなぜか?そもそもなぜ定住したのか?
■定住が始まった理由
一番大きな影響は気候の温暖化です。
石器時代は最終氷期に当たり、植物はあまり繁殖していないため、採集には限界があったと考えられます。移動しながら食糧を探す(移動的な狩猟採集民族)しか方法がなく、一か所に定住するのはかえって危険だったわけです。
気候は世界的に温暖化していき、植物の成長が盛んになっていきます。つまり縄文時代は移動しなくても生活できるようになった()と考えられます。
このことは過去のるいネットにも追求があります。(縄文時代の日本の気候・環境 (整理) – るいネット (rui.jp))
■定住することと自然との共生
定住するためには当然”場所”が必要になります。そうなれば自然を解体し整地したり、農耕を始めて、より安定を求めるでしょう。しかし、縄文人は自然を解体しなかったのです。
ここにも気候の変化が大きく影響しています。
農耕なしの「縄文的定住スタイル」が社会持続の秘訣?縄文時代の食事・仕事・暮らし方を解説 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com)
>およそ1万年〜1万2000年前、最後の氷河期が終わると、日本列島は現在のように雨の多い温暖湿潤な気候となり、春夏秋冬がはっきりと訪れるようになります。針葉樹ばかりだった大地は常緑樹や落葉樹の美しい森に覆われ、それに伴って動物たちも小型化していきました。現在の私達にもお馴染みのイノシシや鹿が、山野を駆け回っていたことでしょう。日本列島の多種多様な生態系、世界に誇る豊かな自然環境は、縄文時代に作られたのです。<
春には山菜を採り、夏には魚を獲り、秋には木の実を拾い、冬には脂肪をたっぷり蓄えた獣の狩猟をするといった生活になっていきます。これは上記の定住する理由でもありますし、自然を破壊しなかった理由でもあります。
自然と共に生活することを選んだのです。
■人間社会持続のために自然の声をよく聴き、自然と共生した縄文人
温暖化することで春夏秋冬がはっきり訪れ、世界に誇る豊かな自然環境が構築されるなど、これまでに自然外圧の変化に適応するように生活様式を変化(移動的→定住的)させてきた縄文人にとって、自然外圧を捨象するということはあり得なかった、制御・支配するなどの思考にも至らなかったのです。「定住的狩猟採集民族」世界を見ても類を見ません。
彼ら(彼女ら)は自然を注視・自然の声をよく聞いていたのです。
目先的な目的で、食糧を大量に採集することが自然破壊につながることも理解し、持続可能な自然環境を維持していったと思われます。
あくまで自然に生かされている。
だからこそ「人間社会を自然に合わせていく」スタイルをとったのです。
それが縄文時代が1万年以上も続いた秘訣であり、自然と一体化することが勝ち筋だったのです。
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posted by matudai at : 2021年12月09日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2021.12.03
縄文再考:縄文人のルーツ④~旧石器時代から縄文時代への変化~
みなさん、こんにちは!
今回は、旧石器時代→縄文時代の変化について考察します。
これまで当ブログで考察してきた現代日本人につながる祖先集団のルートの仮説は以下の通りです。
①旧石器時代にシベリア経由で到達した(北方ルート)
⇒縄文人への系統
②旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達した(対馬ルート)
⇒渡来系弥生人への系統
③弥生時代に華北・朝鮮半島経由で到達した(航海による対馬ルート)
⇒渡来系古墳人への系統
④南方から沖縄経由で到達した(南方ルート)
⇒縄文人への系統
旧石器→縄文→弥生→古墳の時間の流れを経て、現代日本人につながる遺伝的ルーツが形成(三重構造)されてきたと考察しました。また、ミトコンドリアDNA解析によるハプログループ分析の結果でも、日本は他国では見られないほどの系統(計10系統)が混在していることが明らかにされています。日本列島への人の流れ、日本人の起源が単一ではないことは確実と言えるでしょう。
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posted by asahi at : 2021年12月03日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList