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2012年07月23日

シリーズ「日本人は何を信じるのか」~6.葬式仏教とは

みなさんこんにちは。
日本人は何を信じるのかシリーズ。
6回目の今回は「葬儀」と宗教について考えてみたいと思います。
死は、誰もが必ず迎えるものです。
死者を弔い、故人を偲ぶ儀式として、世界中には様々な「葬儀」があり、我が国でも時代と共にその様相を変えつつ現代まで受け継がれてきました。
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さて、みなさんは葬式仏教という言葉をご存じでしょうか。
文字通り、葬送儀礼に用いられる仏教様式です。
よくよく思えば我が国の葬式は「仏式」が圧倒的に多いです。
葬式では お坊さんが読経し 戒名 を授かり、墓地は お寺 の境内にあるのが大半です。
さらに遺体は 「ホトケ」 と呼ばれ、位牌は 「仏壇」 に置かれます。
私たち日本人は、自らを「無宗教」な民族と認識している一方で、人生の最後で「仏教」に思いっきりお世話になっており、その事に何の疑問も感じていません。
考えてみれば不思議な事ですが、追究して行くと、この 「葬式仏教」とは実は日本固有の様式であり、このシリーズでも扱ってきた私たち日本人の歴史や精神性と密接に繋がっている事が分かってきました。
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臨済宗の葬儀 写真はこちらからお借りしました。
まず、「葬式仏教」とは何なのか
『日本人はなぜ無宗教なのか(阿満利麿著)』から引用します。

「葬式仏教」の役割
(前略)
 「葬式仏教」とは、日本に固有の仏教のあり方をさしており、日本文化のユニークな産物といえる。タイやヴェトナム、中国や朝鮮半島など、仏教が今も生きている地方で、「葬式仏教」といってもほとんど意味は通じないであろう。それほどに「葬式仏教」とは、日本仏教に固有のことなのである。
 では「葬式仏教」とはどのようなものなのか。まず、僧侶によって死者に戒名や法名がつけられる。法名という呼び方は、教義上戒律を必要としない浄土真宗の教団で使用される。戒名(法名)は、おしなべて「釈○○」と記されるが、その「釈」は、釈迦の「釈」に由来しており、仏弟子になったことを示す。もとは、生きているうちに仏教徒になった証として与えられるものであることはいうまでもない。
 (中略)
 さらに、毎年故人の死んだ月日に僧侶を招いて読経をしてもらう(祥月命日という)ほかに、毎月故人の亡くなった日にも僧侶を招く(月忌法要)。そして春秋の彼岸をはじめ、盆や祥月命日には墓参をする。そのときも、僧侶に読経を頼む。家に仏壇があって位牌があることは、いうまでない。旦那寺には、代々の故人が過去帳に記載されており、住職はその過去帳を繰っては、誰それの何回忌がまわってきました、と子孫に知らせる。それ
にしたがって法要が営まれる。これが 「葬式仏教」 の具体的なすがたなのである。

引用終わり
なるほどこれは、私たちが目にするお葬式やお盆そのものです。
葬式と聞いて思い浮かぶのはこうした光景ですが、これが実は日本固有の文化だったというのは正直驚きです。
古代日本に仏教を伝えた朝鮮や中国はおろか、その発祥の地インドでも葬儀と仏教は縁が薄いばかりか、後述のようにそもそも仏教は死者祭祀に関心を示すことがなかった宗教だというのです。
では何故、日本において「葬式仏教」が独自の発展を遂げたのか。
そこには4.儒教の影響にて扱った「儒教」が大きく関係します。
以下、同じく『日本人はなぜ無宗教なのか(阿満利麿著)』からの引用です。

「葬式仏教」の受容
 
ところで、仏教は、もともと、死者祭祀に関心を示すことがなかった宗教である。開祖のゴータマ・ブッダは、自分が死んでも、葬式は在家の信者に任せて弟子たちは修行に励むように、教えている。インドでは、7世紀後半にいたるまで、仏教徒の葬式は、火葬場で簡単な経文を読み上げるだけであったという。
 その仏教が、死者祭祀に深くかわるようになってくるのは、「孝」という価値を重んじる中国に入ってからのことである。生前に親に「孝」を尽くすのみならず、亡き親に対しても「孝」を尽くす。加えて、中国では、この世でどのような善行を実践したか、その善行の分量が死後の幸、不幸を決めるとも信じられていた。そこで、子は亡き親の死後の幸福を願って、亡き親にかわってこの世で善行を積むのに余念がないことになる。
 善行のなかでも、もっとも効果のあるものが、死者のために仏へ供養することにあった。五世紀にはじまるという竜門の石窟のなかに、「亡夫、亡夫母、亡子、七世父母のために」とう文字を刻んだ仏像がすでに奉納きれているのも、こうした考え方によるものであろう。
(中略)
 このように、日本に伝来した仏教には、すでに中国で発達した死者祭祀義礼がふくまれていた。その死者祭祀の儀礼を日本では、豪族たちたちがまず彼らの先祖祭祀に利用することになった。
 
(中略)
古代人にとって死者はケガレた存在であり、そのケガレをぬぐい去らない限り、カミにはなることができないと信じられていた。「歴代の先祖」は、先祖であっても墳墓で祭られているかぎり、「死穢」をまぬがれていないのであり、その「死穢」を克服してカミつまり、「出自の先祖」に連なる存在となるために、新しく伝来した仏教が注目されたのである。
 そこでは、仏教は高度な哲学体系をもった宗教というよりも、最新の呪術の体系として受容されたといってよい。
 繰り返していえば、古代の豪族が「歴代の先祖」のために仏教を利用したのは、先祖の死のケガレをぬぐい去るためであった。言葉をかえれば、浄化といってよいだろう。死者の浄化のために仏教が利用されたのである。この死者の浄化という機能は、その後、仏教が一般社会に広まってゆく上で、重要な役割を果たすことになる。
 以上引用終わり

興味深いのは、日本に於ける儀式としての葬式が、支配者層の先祖祭祀から出発している点です。
3.神仏と共に生きた時代で扱ったように、日本に於ける古代宗教は自然崇拝を礎としており、故人の霊魂を云々する意識も儀式も無かったようです。
しかしその後やってきた、大陸渡来の支配者層は、血統を重んじ、故に祖先を祀りその事で一族の結束を促し、他の氏族との差別化と優位性を図る儀礼様式を必要としました。
自然崇拝の古代宗教にこの答えはありません。そこで新しい「仏教」にその答えを見出そうとしたのではないでしょうか。
一方、鎌倉時代には一般大衆にも「葬式仏教」が定着します。
村落共同体にあって、自らの出自や祖先を殊更に崇め奉る必要もなかった庶民になぜ広まったのか。
ここでは、5.近世における宗教観で扱った、「浮き世」の精神性と、その思想の中心人物である法然上人が登場します。
支配者層とはまたちがった視点です。
以下引用

加えて、13世紀の法然による専修念仏の登場も「葬式仏教」の成立の上で大きな意義があった。法然の念仏は、それまでの念仏とは異なり、死者の鎮魂慰霊の呪文ではなく、阿弥陀仏の救済原理を明らかにして、生きている人間の救済を対象とした。阿弥陀仏は、その人間が善人であろうが悪人であろうが、自分の名前を呼ぶものはすべて自分の国、西方極楽浄土にむかえとって仏とするという誓いをもっている。自らの力で仏になることが
できないという強い自覚をもった人々は、こぞって法然の念仏を信じた所以である。
 このように、法然の念仏は、あくまでも生きている人間のためのものであり、一人一人が阿弥陀仏を信じるかどうかという決断の上で成立する宗教であって、死者の鎮魂慰霊のためのものではなかった。しかし、次第に、広大な阿弥陀仏の慈悲にすがって、死者の成仏も願うという風潮が生まれてくるようになった。
 生前のあり方は不問に付して、死者を阿弥陀仏の慈悲にゆだねるという、生きている人間のいわばおもいやりが、 「葬式仏教」を支えることになったといえる。 「葬式仏教」では、教義に対する各人の決断よりは、死者へのおもいやりが、重要だと考えられたのである。

この辺から、徐々に日本の独自色が強くなって行きます。
そもそも仏教とは、釈迦族の王族であった仏陀が厳しい修行の末に悟った観念体系です。
おそらく仏陀の中では修行と悟りは切っても切れない関係だったのでは無いでしょうか。
それがまさか数百年後に遠い島国で、「念仏を唱えれば誰でも極楽に行けます」といった形で大衆に広まるとは、文字通り「お釈迦様でもわかるめえ」といった所だと思います。
しかし、これが大宗教に良くある腐敗と堕落を意味するのかというと、決してそうではない、と著者の阿満氏は言います。

「自然宗教」という回路 
そうなると、 「葬式仏教」とはなにか、ということになろう。はたして、それは仏教なのであろうか。仏教は生きている人間を対象に、「苦」の人生からの解脱を教える宗教ではなかったのか。それが、死者を対象とすることに専念するとは、敗北ではないのか。
 
敗北とまではいわなくとも、 「葬式仏教」は、仏教としては、二義的な役割を果たしているにしかすぎないのではないか。僧侶たちは、死者のためにひたすら経を読み、人々も、死者の戒名が立派であるかどうか、その字数が少なくないかといったことだけに心を痛める。 「葬式仏教」のどこに、「覚者」を目指す仏教があるのか。
 
仏教を、 「葬式仏教」にとどめておいて不思議と思わない心情とは、なんであろうか。人生には、苦しみや不条理や悔恨があとを断たない。どうかして安楽な人生を手に入れたいと願うのが人情である。しかし、そのために特別の教えを選択して、それに従うということには気乗りがしないのである。せっぱ詰まれば、気乗りがしないなどといってはおられないであろうが、それでも、創唱宗教はイヤなのである。死者のための仏教は認めても、
生きている自分のために仏教の教えを選ぶことには、ためらいがあるのだ。どうしてなのであろうか。
 それは一言でいえば、日本人の間に「自然宗教」が根強く生きているからだというしかない。 「葬式仏教」とは、この「自然宗教」との妥協の産物なのである。「自然宗教」の先祖崇拝や霊魂観をそっくり認めた上で、仏教的色彩を施したのが「葬式仏教」にほかならない。 「葬式仏教」とは、 「自然宗教」 に仏教の衣を着せたものなのだ。 
このような形でしか日本に根をおろすことができなかった仏教について、評価はさまざまであろう。さきにものべたように、なによりも敗北だといわなくてはならないかもしれない。しかし、死者のあつかいや死後の世界に一定の見通しを与えることができた点では、簡単に否定はできないのではないか。
 
日本において、仏教が 「葬式仏教」という形でしか浸透できなかったということは、表面的には仏教側の敗北のように見えても、実は、仏教の理想である慈悲行が貫徹されたといってもよいのではないか。
死をめぐって不安に陥っている民衆に、安心の手をさしのべるということは、慈悲行の実践以外のなにものでもない。民衆の側も、自分たちの 「自然宗教」の足らないところを補うものが、仏教、とくにその儀礼にあると考えたからこそ、仏教儀礼を受入れたのである。
ともかくも日本人の多くは、 「葬式仏教」によって、死後に安心できるようになったのである。
(中略) 
ここまで見てくると、「無宗教」は、 「自教宗教」と不可分の関係にある宗教意識であることが、ますます明らかになったといえよう。現代の日本人の多くが、「無宗教」だといってはばからないのは、近代以後の科学的精神のなせるところではなく、きわめて伝統的な 「自然宗教」に原因がある現象なのである。
 

以上引用終わり。
ここからは、私たち日本人の類い希な特性と可能性を見出すことが出来ます。
すなわち日本人特有の受け容れ体質と、それらを自分達の精神風土や生活基盤になぞらえて組み替え昇華させる思考の柔軟さと創造力。
そしてこうした特質を長年にわたり維持し培ってきた、縄文時代から続く共同体基盤の存在です。
「葬式仏教」とは教義教典に基づいた「創唱宗教」ではなく、縄文以来日本人に伝わる「自然宗教」に、祖先崇拝や生死感、他者への想いを塗重ねていったものです。
「仏教」はそれを儀式として顕在化するために活用したに過ぎず、そこで示したかったのはより深いところにある私たち日本人の精神性であったと言えます。
現在私たちが、無宗教を標榜しつつ、死に際して接する「葬式仏教」に何の矛盾も違和感も覚えないのか。
それは葬式仏教はいわゆる「宗教」と呼べる物ではなく、そしてそこに私たち日本人の潜在思念に刻印された自然観や、共認充足を中心に置く精神性、共同性等を矛盾無く包含しているからではないでしょうか。

もちろん、もともと仏教に他の宗教に見られるような独善性や排他性が薄く、この様な変質を受け容れる特性自体が備わっていた事も大きいと思います。
その意味で「葬式仏教」とは、このような仏教自体の可能性と、日本人の可能性が融合し生み出された結晶物とも言えます。
古来より日本人は、外来の文化を受け容れ、それを自らに合うように変質昇華させる思考と可能性を持っています。「葬式仏教」を通じて、その可能性と能力の深甚さを改めて感じます。

さて、次回はいよいよ近世、すなわち明治維新以降の日本人の宗教観や信仰心を扱いたいと思います。
明治政府は、富国強兵をスローガンに、欧米列強と肩を並べる強力な中央集権国家の成立を目指します。「宗教」もまたその政策の一つの柱として統制と教化の対象となりますが、日本人の意識は変わったのでしょうか?将又変わらなかったのでしょうか?
近代国家の思惑と並べながら検証して行きたいと思います。
乞うご期待

投稿者 yama33 : 2012年07月23日 List  

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 過去記事におもしろいのがあります。
 これからも 日々 新聞を読まれるように記事更新をご覧いただけると 知らないより知っていたほうが お得なこと♪ たくさんあると思います。
百済仏教で検索してお邪魔しました。
先のブログ主はたくさん本も出版されています。
「森羅万象7」を先日購入しまして、P242に聖徳太子の背後には百済仏教があり、釈尊の仏教とは 違う系統かもと書かれて今ましたので♪ ちょいと検索してみました。
「内在神への道」「森羅万象」シリーズ
その他たくさんあります。
書店にお立ち寄りの際はお手にとってみてください。
8/27は藤さんについてと思われる記事。
私も彼女のように悩める女性でしたが 7年間心ひとつでできることを日々実践しているうちになんだか 心が強くなったんです。
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1300年も式年遷宮が続けられてきた奇跡。
日本という国を理解することができたブログです。
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投稿者 ひたすら : 2013年9月26日 11:20

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