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2008年09月04日

シュメールの交易は神殿が牛耳っていた

前回、『シュメールの余剰穀物、どこと交易してた?』という投稿をしましたが、そこで「穀物は強制的に神殿に集められたものでしょう」というコメントをいただきました。
(ありがとうございます
そこで、今日はそのあたり調べてみました 😀
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「海上交易の世界と歴史」より引用
シュメールの国家は、神殿の組織や経済力が圧倒的であったことから、商業的神政の国家ともされてきた。神殿は、喜捨や租税によって大量の穀物を集積し、土地を開拓や購入して農業を営み、また工房を開設して工芸品を生産した。神官とともに、豪族も育っていった。この神殿経済を取り仕切る人々のなかから、「王」が生まれたとされる。こうした階級社会の形成とともに、対外交易が行われるようになった。(中略)
この神殿や王の交易は、それら宮廷の「外交的・取引的才能に恵まれた者が経済外交官」となって行われた。そうした人々も、「後に代理商人(シュメルのダムカラ、バビロニアのタムカルム)と呼ばれるものとなった。この者はやがて、みずから[は]神殿のために取引をするほかに、自分の配下に自分の支配する貨幣(多くの場合、銀)を貸与して、国内で交換用の物資を買いつけ、これを外地に売って銀その他を獲得させる、という単なる請負への委譲、または私利的行為を行なうに至った如くである。かくして下請商人が発生し、この者は借用の貨幣に対して利潤の一部、すなわち利子(例えば借用額の3分の1を支払うようになった」とする。
 このように、初期メソポタミアにおいても、当然のありようとして、対外交易はまずもって神殿や王が直轄する交易として行われ、その担い手からいえば宮廷交易あるいは官僚交易であった。しかし、それが発達すると、かなり早い時期から代理商人が生まれ、御用交易として行われるようになった。さらに、その代理商人あるいは御用商人による私的交易もはじまり、その下請商人が発生するまでになる。しかし、その時代における主たる交易はあくまで神殿や王の交易であった。それがかなりの程度御用交易として行われたことであろう。

確かに、農民は穀物を租税として神殿に吸い取られ、交易は神殿に牛耳られていたようです。
交易のシステムが急速に発達し、驚くことに、金融家まで登場しています。
そして、神殿がどうやってそこまで力をつけたかというと・・・

るいネット「国家需要が基盤となり市場が形成された」より引用
たとえ武力支配国家といえども、共認なしには統合し得ない。したがって、シュメールの部族連合や都市国家においても、力による制圧の後、支配者の正当化としての観念、すなわち守護神信仰を創り出した。
守護神信仰も精霊信仰と比べれば本源価値を大部分失っており、万人にすんなりとは共認され難い。そこで、さらに正当化するために感覚にも訴える手法をとった。支配者の力を正当化する観念=守護神信仰を具現化するもの、それが神殿であった。
したがって、国家事業は軍事、農業基盤整備、神殿造営が中心となった。
神殿建設のために石材・木材や装飾品が必要となり、遠隔地交易が活性化した。もちろん当初は略奪から始まり、徐々に食糧を中心とした交換で取引を安定化させていった。
武力支配国家は軍隊を中心とした統合階級=非農業労働者を大量に必要とした。したがって、彼らに食糧を再分配するシステムが必要になる。神殿経済は神殿に食糧が納品され、倉庫番=財務官僚としての神官が統合階級に食糧を再分配するシステムである。これが麦本位制の基盤となった。

支配者が非支配者を操るために守護神信仰 を創り出した。
そして、それを具現化したのが神殿だったんですね 😥

投稿者 pingu : 2008年09月04日 List  

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