古代オリエントの交易 |
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2008年08月09日
インカ帝国の交易
古代オリエントの交易についての紹介がありましたが、インカ帝国ではどうだったのでしょうか?
インカ帝国には、インカ道が張り巡らされ、交通網がかなり発達していたようです。クスコを中心に張り巡らされた道路網は、カパック・ニャン(インカ道)と呼ばれ、その総延長はなんと40,000kmだったそうです。これは、当時のヨーロッパにもない規模だそうです。
だとすれば、交易が促され、物流の発達とともに市場も発達し、利益を蓄積する商人達が溢れ、利益獲得のための私権闘争が繰り広げられたのでしょうか?そこから私権意識の拡大がもたらされたのでしょうか?
しかし、調べてみると、所謂「交易」で私権を拡大していくのとは、少しイメージが違うようです。
以前にも紹介したように、インカ帝国では、結婚は私有婚ではないらしく、土地も私有は認められていません。また、人々が与えられた土地は、暮していくのに十分な作物を生み、乞食もいなかったということから、暮らしぶりは豊だったようです。
国家の統合様式が、再配分と互恵が中心であったことを考慮する必要がありそうです。
交易に関して、「インカ国家の形成と崩壊」マリア・ロストウォルフスキ著、増田義郎訳という本の中に、いくつかの記述があったので、ポイントを整理して紹介します。
~以下、書式から抜粋、要点抽出~
海岸地方には、交易と交換を仕事とする社会階級がおり、スペイン人達は彼らを「商人」と呼んだ。彼らは扱う商品によって、いくつかの種類に分かれていた。
〇チンチャの交易者
・チンチャには6000人の「商人」がいたと伝えられている。
・これらの交易者は、海路北方に向かう交換のために銅を持っていき、帰りには、北の海の暖流のムリュ貝を持って帰った。(ムリュ貝はワカへの供物として喜ばれ、雨乞いなどの儀式にも用いられた。)
・北部地方の海岸商人自身は、「インディオのやり方」(スペインの方式)で交換を行なっていると言っている。
〇北の交易者たち
・専門化した漁民集団が乾し魚、塩漬けの魚の交易を行なっていた。彼らは自分達が住む領域や隣接した高地地方と産物の交換を行なっていた。
・首長たちも交易を行なっており、その内容は「毛の衣服、チャキラ、木綿、マメ、魚、その他であった。
・以上は、スペイン文化の影響を受ける以前の1566~67年のドクトル・クエンカに対して行なわれた監査の司法書類から得られたものである。
このほかにも、あれこれと交易に関して、記述があるのですが、内容的には大きく2つの形態に分類できそうです。
1.食料や生活必需品を交換した。
2.支配階級の儀式などに使われるムリュ貝などの供給。(献上?贈与?)
しかし貨幣の使用とは縁遠く、記述の中でも「等価物を交換するだけの経済の範囲内で理解しなければならない。」と書いています。
例えば、海岸地方では、職業が分化していったらしく、そのため、生活品を得るために交換の必要が生じたと言えますし、金属や貝などは、また献上や贈与と言った次元の方がしっくりきます。
いずれにしても、大きな市場もなく、交易で商人が莫大な富を蓄積するという痕跡はあまりなく、国家内で大部分の生産を賄い、再配分していく仕組みが、支配的だったといえそうです。
投稿者 hiroshi : 2008年08月09日 TweetList
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コメント
投稿者 Quetzalcoatl : 2008年9月29日 13:09
インカ時代の地方でしょうか?3万人の納税者のうち6000人の商人(という事は1/5が農業も漁業も行わない商人か)というのは多いですね。
これだけの人が社会の上層部の人たちの調達のために専業で仕えたという事はそれだけ豊かだったのでしょうか?(それとも搾り取られていた?)