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2011年07月26日
日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史4 三韓・新羅・高麗の歴史と意識構造
前回は朝鮮儒教を切り口に、現代・朝鮮半島特有の意識構造を見てきました。
今日は、現代の意識構造がどのように確立していったのか?朝鮮半島の歴史を遡って調べてみたいと思います。
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■三韓(さんかん)
紀元前2世紀から4世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した部族とその地域。
・馬韓
西部に位置し、五十数カ国に分かれていた。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。のちの百済、現在の京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道に相当する。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。
・辰韓
馬韓の東方に位置し、12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり、弁韓と類同していた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。
・弁韓(弁辰)
12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり、辰韓と類同していた。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた。のちの任那、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より西・南の地域である。ただし、全羅南道を含むとする説もある。
■新羅の歴史(668年~935年)
朝鮮半島の北西部で中国と直接国境を接しているため、高句麗、百済、新羅などは中国王朝の皇帝から冊封を受けて臣下の礼をとることにより独立の保障を得たり、また、朝鮮半島内の敵対国との抗争に有利な立場を得るため、積極的に中国王朝に事大してきた。そんな中、半島を統一したのは、以外なことに文化的にも、制度的にも最も遅れをとっていた新羅だった。
唐、高句麗、百済という強国の中央に位置していながら、互いの利害を風見鶏のごとく利用し同盟国を乗り換えることで結果的に強国高句麗にも勝利する。では、新羅が半島統一の為にとった手法とはどんなものだったのでしょうか?
主な出来事は以下。詳しくは「新羅の歴史」をご覧下さい。
①【新羅の発生】
→4世紀初め:高句麗の属国?として建国。
②【新羅建国~百済と手を結ぶ】
→5世紀後半:新羅―百済で高句麗と対抗。
③【三国の緊張関係】
→6世紀中盤:百済が高句麗から奪い返した漢城を新羅が奪う。
④【朝鮮半島統一~唐と手を結ぶ】(朝鮮半島統一)
→7世紀中盤:唐との連合によって百済(660)、高句麗(668)を滅ぼす。
⑤【唐との戦争~停戦】
→7世紀後半:唐は新羅を攻めきれず、676年新羅と唐が停戦。
最終的には朝鮮半島から唐の勢力を追い出すが、旧高句麗領の北部に渤海が興り、共通の敵を持つことで唐と新羅はまた良好な関係に戻る。
⑥【新羅の発展・栄華~高麗に敗れる】
→10世紀中盤:935年高句麗の末裔である高麗に滅ぼされるまで270年間余り朝鮮半島を統一した。
新羅の歴史をみると、解りやすい程に同盟と裏切りを繰り返し、時には大国・中国にも噛みつきながら半島の統一→栄華に邁進していたことが見て取れます。この段階では、当時の中国・唐の存在は半島統一という目的の為、利用すべき対象ではあっても心から敬うような対象では無かったようです。
では、高麗の時代はどうだったのでしょうか?
■高麗の歴史(936年~1392年)
高麗の建国期は中国では五代十国の混乱期にあたり、自国の年号と中国王朝の年号を交互に使用することになる。つまり、独自の年号を使用しつつ、中国に安定した政権が現れると事大しその政権の年号を受け入れていた。
また宋と遼が並立するようになると、両者に事大し両者の年号を併記した。ただし高麗にとって遼への事大はその武力に従ったもので、宋に対する慕華の念が薄れたわけではなく、北宋と遼、あるいは後に南宋と金、両朝の年号を併記する際にも宋の年号を先に記していた。
現存する文献中「小中華」「小華」の文字の初見はこの頃のもので、宋へ派遣された高麗使節の詩を、宋人が高く評価し詩集にまとめた『小華集』がそれに当たる。この詩集が「小華」と名付けられたことから、朝鮮人は「自己の文化は、中国王朝に準ずる高い水準に達したと、中国人から評価された」と解釈(勘違い?)し、以降文化的優越観を込めて「小中華」「小華」の文字が使われ始めることになる。
自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想を「小中華思想」といい、この思想は高麗の時代に芽生えたもののようです。
また、この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明への同化の程度によって文化の高低が判断されるものだったようです。
宋(960年~1279年)の時代に芽生えた小中華思想ですが、元からの抑圧(1271年~1368年)の時代を経て、中国に新王朝、明(1368年~1644年)が樹立すると、高麗内部での政策は大きく揺れることとなった。元・蒙古兵による度重なる侵略・略奪により衰退の一途を辿っていた高麗にとって、大国・明の出現は復興に向けて大きな希望となったが、半島北東部・高麗の領地を明の支配下に置く意向を明言されたことで対立関係となり、結局は出兵している最中に国内でクーデターが起こり滅びることとなってしまった。
長期に渡って朝鮮半島を統一した新羅・高麗の歴史を見ると、いずれにしても大国・中国の顔色を伺い、朝貢しながら国を保ってきた歴史であることは間違い無いようです。しかし、新羅の時代では唐に攻め込まれれば応戦したし、小中華思想の芽生えた高麗の時代であっても、支配下に置かれることに対しては明確に反発したりと硬軟織り交ぜた対中政策を取ってきたようです。
それでは、高麗を滅ぼしたのち1392年~1910年まで続いた朝鮮半島最後の王朝「李氏朝鮮」の時代はどうだったのでしょうか?明・清といった巨大帝国を築き、安定期に入った中国とどうのように渡り合って国を維持していったのか?
次回は李氏朝鮮時代の意識構造を調べていきたいと思います。
投稿者 dai1028 : 2011年07月26日 TweetList
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