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2011年10月04日

初めまして

初めまして。新規グループ承認を受けましたスサノヲと申します。
歴史(古代史)に興味がありまして、会員申請してました。古代史は謎の部分が多くて魅力を感じます。またみなさんと絡むことで自分の持ってる謎が1つでも解決すればな と思ってますのでいろいろ教えてください。
休日にはちょくちょく自宅近所の史跡・神社や仏閣に散策に行きます。自身のブログにもアップ予定ですのでアップしましたらコメントします。
みなさん、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿者 susanowo : 2011年10月04日 List  

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コメント

>イスラーム教は「だまし」をだます統合(倒錯)観念
というのがちょっとイメージがつきにくかったです。
具体的な事例がありましたら、教えてください!

投稿者 みつこ : 2012年6月19日 19:41

>規範群が「だまし」を倒錯するために、より現実世界に密着しているという点も着目するに値する大きな視点だと思います。
ここの表現はちょっとわかりにくかったです。
きっと何かよい事を言おうとしているように思いますが、それを少し出してもらえればありがたいです。
よろしくお願いします。

投稿者 イスラム人 : 2012年6月19日 19:45

みつこさんの記事に注目すべき記事があります。
http://www.jyoumon.com/blog/2009/01/000692.html
唯一神アラーの信仰を確立し、拡大していくためにはどうしてもメッカの守旧勢力を打倒しなくてはなりません。彼らこそが伝統的な多神教と偶像崇拝をどこまでも守ろうとしている1番の強大な勢力であり、金銭的に大きな利権もからんでいたからです。ムハンマドはメッカとシリアの間を往来する隊商を片っ端から襲い、積み荷を略奪します 。略奪はメディナに移ってから1年半の間に7回にも !! また、ムハンマドは地盤の拡大にも努め、散在するオアシスの町や遊牧民の部族を味方に引き入れ、敵対する勢力があれば容赦なく軍勢を差し向けました。これはアラーの正しい教えを広めるためのジハード(聖戦) だったのです。
それまでアラビアの住民は多くの部族に分かれて、対立抗争 を繰り返していました。ほとんど全ての部族がイスラムに入信した結果、果てしなく続いていた対立に終止符が打たれたのです。そして仲間同士の戦いに費やされていたエネルギーが、イスラムの旗の下に統合され、外征へと向かいます 。 ムハンマド自身も跡を継いだカリフ(指導者)達も、部族の間で欝積していた戦闘意欲と略奪願望に捌け口を与えるため、アラビアから外に撃って出ることを奨励します。それは同時にイスラム勢力を拡大することにもなったのです。

投稿者 ちわわ : 2012年6月19日 21:59

イスラム人さん、イスラム人さんらしいコメントありがとうございます。
これまたみつこさんがすばらしいことをおっしゃっています。
http://www.jyoumon.com/blog/2009/01/000692.html
また、イスラム教団国家が短期間にこの様な大発展を遂げたもう一つの背景に、現地住民の協力があったと言われています。イスラム教団国家の支配下に入ると、税金は数分の1に軽減され、行政や裁判なども極めて簡明かつ公正に行われたので、住民はイスラム勢の進出を喜んで迎えたのです。信仰の面でもイスラムへの改宗を強制するようなことはせず、住民の自由に任せました。
人頭税さえ払えば改宗を強制しないというのは、まさに商人の宗教=実利優先(?)だからこそだなと思いました!
★もともとアラブ部族の多神教も、部族闘争を正当化するものでした(ex.自部族の守護神を奉り、競い闘う。) それがイスラム教という一神教によって一本化され、私権闘争の規模は部族から国家へと引き上げられたのです!!

投稿者 ちわわ : 2012年6月19日 22:04

イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の教えの一部を紹介します。
■イスラム教
嘘をもって真理を被ったり、また(確かに)知っていながら、真理を隠してはならない。
礼拝〔サラート〕の務めを守り、定めの施し〔ザカ―卜〕をなし、立礼〔ルクーウ〕に勤しむ人たちと共に立礼しなさい。
あなたがたは、人びとに善行を勧めながら、自分では(その実行を)忘れてしまったのか。あなたがたは啓典を読誦しながら、それでも尚理解しないのか。
忍耐と礼拝によって、(アッラーの)御助けを請い願いなさい。だがそれは、(主を畏れる)謙虚な者でなければ本当に難かしいこと。
■キリスト教
私たちを真の幸福に導く「悔改め」と「信仰」についてお話ししましょう。
 「悔改め」とは、自分の生き方を変えることを意味します。それは、単なる”後悔”や”反省”ではありません。後悔や反省は、しばしば”後ろを振り向く”だけで終わってしまいます。
 しかし悔改めは、一八〇度生き方を変えることなのです。今まで神に背を向けて歩んでいた生き方から、神と同じ向きになって、神と共に歩んで行くことなのです。それが悔改めです。
 「ああ、私は今までなぜ神様を知らなかったのか。何と自分勝手で、利己的な、身勝手な生き方をしてきたことだろう。神様、すみません。私の生き方を変えて下さい」
 そのような気持ちを持つことです。愛の神を知らずに生きてきたことを、深く悔やむのです。そして今までの自分の罪の人生を深く悲しむことです。
■ユダヤ教
自信を失うという事は、自分に対して盗みを働く様なモノである。
真の対立とは、優れた者が競い合って、そしてお互いに切磋琢磨していく事であり、これは社会の進歩にとって、欠く事の出来ないファクターである。
人を傷つけるモノが三つある。悩み、いさかい、空の財布だ。その内、空の財布が最も人を傷つける。
世の中には度を越すと行けないモノが八つある。
旅行、性、富、仕事、酒、睡眠、薬、香料だ。
柔軟な木は折れないが、硬直した木は折れる。
豚は食べ過ぎる。苦しんでいる人間は話しすぎる。
賢い者は、自分が何を話しているのか知っており、愚かな者は、自分の知っている事を話す。
金は、よいセンス意外のモノなら何でも買える。
粉屋が煙突掃除屋と喧嘩をすると。粉屋は黒くなり、煙突掃除屋は白くなる。
かゆいところをかく事と、困ったときに金を借りる事は、一時しのぎに過ぎない。
イスラム教は「こうしなさい」という中身が具体的に示されています。
キリスト教は頭の中だけで満たされるきれいごとのように感じられます。
ユダヤ教はなんだかよくわかりません。
これらに各宗教の特徴があるものと思われます。

投稿者 ちわわ : 2012年6月19日 22:30

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