2021年9月21日

2021年09月21日

【縄文再考】縄文人の寿命はどのくらいか?

縄文人はどのくらいの寿命だったのでしょうか?

「縄文時代の平均寿命って30歳くらいだよね?」と、何となくうる覚えの知識を持っていますが、本当の所はどうだったのでしょうか。

現在の日本は世界トップクラスの長寿命国ですが、太古の昔は医学が未発達であることも踏まえ、30歳説はなんとなく、そうかもしれないと思いがちです。

しかし、本ブログのテーマは縄文再考です。

改めて、どのくらいの寿命だったのか?追求していきます!

 

■縄文人寿命30歳説

「縄文人寿命30歳説」は、1967年に発表された「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」に基づくようです。今から55年前の調査に基づく推測です。

この研究での年齢推定は、

●頭がい骨の縫合線の状態(たとえば20代では縫合線が消失することはほとんどありませんが、50代では消失してしまう縫合線がかなりある)

●骨端の癒合の状態(軟骨だったものが徐々に硬い骨になります)

●恥骨結合面の状態

の3点で行われています。

頭蓋骨骨盤

写真左:頭蓋骨の縫合線で年齢とともに消失していきます

写真右:丸で囲ったところの点線(恥骨結合面)も、年齢とともに変化し、年齢推定に活用

 

分析は、縄文時代前期から晩期までの男性133体、女性102体の合計235体について行われました。この結果、平均死亡年齢が男性で31.1歳、女性で31.3歳となり、15歳まで成長した場合の平均余命が16.2歳(=31.2歳で死亡)となりました。

 

この結果が、「縄文人寿命30歳」と受け止められました。ただし、1967年の論文では、「考古学的に知られている事実から、当時の住民の寿命が本研究で見いだされた程度の短さであったことの理由を具体的に説明づけることは、きわめて困難なこと」とも指摘しています。

なお、1978年の脊椎骨の研究による「縄文時代の35歳=江戸時代の45歳に相当する」という指摘もあるようです。

 

■「もうちょっと寿命が長かったかもしれない」という説

この「縄文人寿命30歳説」に対して、もっと長寿命だった可能性を示す研究結果が2008年に公表されました。

この研究は、1967年の研究と異なり、腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)の観察によるものです。

腸骨耳状面

写真:腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)は、背骨のうちの腰の骨である仙骨(せんこつ)と接合する腸骨(ちょうこつ)の接合面。この面を観察して年齢を推定

腸骨耳状面とは、腰の骨と背骨が接合している面で、若いうちは表面に水平方向のうねりがあり、この面の輪郭もはっきりしているのが、年齢とともに表面のうねりがなくなって大小のくぼみや穴が生じたり、輪郭が盛り上がったりする、といった変化があるようです。

 

この年齢推定方法は、1985年にアメリカの人類学者が体系化し、2002年に別の人類学者らがより客観的な方法を提唱しました。

 

2008年の研究では、2002年の方法を用いて分析したところ、死亡時年齢34歳以下が32.1%で、35歳以上64歳以下が35.4%、65歳以上が32.5%となり、15歳時点での平均余命が31.52歳という結果になりました。

 

65歳以上が全体の3割以上になり、縄文人は思っていたよりも長寿だった可能性が出てきました。

1967年の研究も、2008年の研究も、15歳以上と判定された人骨を対象に研究をしています。したがって、「無事に大人になれた場合の寿命」を算出しているのであって、乳幼児を含んだ全体の寿命を算出しているわけではありません。

乳幼児の死亡率はわからないので、厳密な寿命はわかりませんが、「無事に大人になれた場合の寿命」は、2008年の研究では1.5倍にまで伸びて46歳程度、となります。

 

縄文人、思っていたよりは長生きしていた可能性があるのですね!

もちろん、成人で46歳というは現代からみれば短いため、過酷な環境にあったと思います。それでも、縄文時代は、想像よりも食糧があり、安定した社会環境であったと捉えることができそうです。

 

参考文献

茅野市尖石縄文考古館HP https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/jomonlifespan.html

小林和正1967年「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」(『人口問題研究』第102号)

鈴木隆雄1978年「縄文時代より江戸時代に至る日本人脊椎骨の古病理学的研究」(『人類学雑誌』第86号)

長岡朋人2010年「縄文時代人骨の古人口学的研究」(『考古学ジャーナル』第606号)

投稿者 ando-tai : 2021年09月21日  

2021年09月21日

田中秀道名誉教授「日本史を変える30の新発見」ユダヤ人説への反論試行

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皆さんこんにちは。

田中秀道東北大学名誉教授の著書『ユダヤ人埴輪があった! 日本史を変える30の新発見』から引用するブログ。http://blog.jog-net.jp/201912/article_4.html「田中英道教授の『日本史を正す』戦い」より。幾つか引用し、反論してみようと思います。

(以下引用)『記紀』についても、「天武天皇、持統天皇、そして藤原家によって、高天原に天皇の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨される前に多くの神々がいたと書くことで天皇家の正統性を示す根拠とするために捏造されたもの」と言われてきました。しかし私は、高天原の物語は単なる幻想や作り話ではなく、縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた話だと考えています。(引用終わり)

・縄文、弥生時代の記憶がない、とは恐らく誰も言っていない。日本で書かれたものであるので、歴史風土の積み重ねが当然ある。記紀の不自然な点は、人間の様な「神」が登場すること。釈迦やキリストを神とする宗教は、余り自然なものとは言い難い点がある。

(以下引用)埴輪の中には、異常に鼻が高い人物埴輪があり、飛鳥時代以降の日本人の姿とあまりにも異なっています。特殊な冠や庇(ひさし)のある帽子をかぶり、耳元には鬢(びん)、つまり美豆良(みずら)がついており、顎髭(あごひげ)をはやしています。これはつまり、日本の古墳時代にユダヤ系の人々がいたことを端的に示しており、こういった特徴を持つ人物埴輪は、千葉県や茨城県など主に関東で発掘されています。(引用終わり)

・姫塚古墳出土埴輪で有名な、あごヒゲがあり帽子(又は天冠)を被る男性埴輪。しかし、だからと言って「ユダヤ人」であるとは言い切れない。中国のさらに西の西アジア、東欧の人々が、古来日本に来ていてもおかしくはない。 彼らをユダヤ人とする根拠は何か。

・古墳から多く出土する埴輪は、武具を付けた兵士であることが多い。同類闘争(殺し合い)がこの時代に一般化していることを示している。しかし、日本人(例えば縄文人)がそうだと言い切れない。縄文時代人骨に争いの後は殆どない。

(以下引用)日本に渡ってきたユダヤ系の人々が、機織りの技術や絹の生産技術、あるいは農業技術、灌漑施設の建設技術、そして、古墳を作る土木技術などを持っていたと考えられます。それらは中国や朝鮮にはない技術だからです。同時に彼らは日本に渡ってくる途中で入手したアジア各地での技術や物品をもたらしました。これが、天平時代、8世紀中頃に始まった「正倉院宝物」に、なぜ中国・朝鮮のものよりも中央アジアからペルシャに至る広い地域の様々な装飾品や物の方が多く収められているのか、ということの理由と思われます。(引用終わり)

・中央アジアから渡来人が来ていても、おかしくはない。

・機織り、絹の生産など、建設、古墳など中国や朝鮮にも紀元前からあると言われる。

・田中教授は、秦氏=ユダヤ人説だが、秦氏の血を引く鼻が高く顎髭を生やす日本人は、その後あまり見られないのは何故か。天皇家は、明らかに東アジア人(朝鮮)の面相だが混血はしなかったのか。

日本人のルーツ、成り立ちをどこに求めるかは、重要な課題です。縄文人なのか、その後の渡来人なのか。田中教授の様にユダヤ人(主に秦氏)説は多く、しかしその割にユダヤ人風の人がその後の日本に少ない、そこまで融和したか、と言う疑問が残ります。

引き続き検討します。

(以上)

 

投稿者 sai-yu : 2021年09月21日  



 
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