2021年9月24日
2021年09月24日
縄文再考~縄文時代の母系社会について~
縄文の母系制社会はどんなものだったのでしょうか?
現在日本では父系社会が一般的となっていますが、江戸時代の庶民(貴族・武家階級をのぞく)は母系社会が存続されていました。
では改めて、母系社会の中身は?どんな風に子供を産んだの?女の役割は?男の役割は?について追求していきます!
まずは当時の人口構造や生殖をしていたのかを当時の社会について紐解いていきましょう。
■縄文時代の人口推移
日本大学松戸歯学部 五十嵐由里子さんの『縄文時代の出産率と寿命-骨からの推定-』の研究から、出土した遺跡の骨から集団の男女の比率について調査しています。
彼女の研究では北海道、蝦島(宮城県)、三貫地(福島県)、吉胡(愛知県)、伊川津(愛知県)、津雲(岡山県)の6ヵ所から出土した人骨(いづれも縄文時代後期から晩期、北海道に関しては続縄文時代の人骨)を対象に調査し、
(1)頭蓋骨の形、(2)骨盤の形、(3)骨格筋の付着部の発達程度、(4)骨の大きさから性別の判断をしています。
分析した結果、いづれの地域も出土した骨の性別は女性の方が人数が多い(多いところでは9人、少ないところでは1人)ことが分かります。
遺跡によって骨が埋葬されていた時期や期間は異なるので一概には言えませんが、墓に埋葬されている骨が女性の割合が高いことから、定住しているムラでの集団の生活の中心は女性だったのかもしれませんね。
■縄文時代はどのように生殖をしていたのか
縄文時代の集団規模はおよそ15~20人ほど(大きくて50人)と言われています。もし集団間の結婚だったとしたら血縁者同士の結婚になりそうですが、実際はどうしていたのでしょうか?
譽田 亜紀子さん著『日本人が知らない「縄文人」の意外な恋愛事情』のブログでは以下のように述べています。
“縄文時代は私たちが思う以上に列島内での交流、交易が盛んに行われていて、伊豆諸島の八丈島にある倉輪遺跡からは、関東、東海、近畿を中心に、遠くは青森の土器も見つかっている。縄文人たちは小さな丸木舟に乗って荒波を越え、島に向かう旅をしているのだ。
もちろん、陸路もある。70カ所ほどある黒曜石の産地のうち、縄文人たちにとって最高のブランド黒曜石は長野県産のものだったようで、数百キロ離れた遺跡から見つかることも多い。
もちろん、物だけが移動するはずもなく、人が運んでいる。集落から産地に赴き、入手することもあれば、現在のように仲介人のような存在が運んでいたことも考えられる。つまり、集落以外の人間がやってくる機会がそれなりにあったということ。
これは、年頃の娘がいる集落にとっては絶好のチャンスである。
物も欲しいが、婿はもっと欲しい。
集落のオサをはじめ、総出で旅人をもてなし、少しでも長く滞在させたことだろう。居着くこともあれば、娘と恋仲になって子どもだけをつくり、外に出ていってしまうこともあったはずだ。”
ムラでは長期遠征に行っている男性もいるのであれば、ムラに定住する女性比率が高くなり、女性中心の生業が行われていそうなのは想像できそうですね。
〇参考文献
・日本大学松戸歯学部 五十嵐由里子 『縄文時代の出産率と寿命-骨からの推定-』http://minato.sip21c.org/humeco/anthro2000/igarashi.pdf
・譽田 亜紀子 著 東洋経済『日本人が知らない「縄文人」の意外な恋愛事情』
・縄文の移動交通手段・丸木舟制作 性能とデザイン いい家大研究 https://blog.goo.ne.jp/replankeigo/e/f96b98b148a8494becbe4f368f75b9e7
投稿者 hanada : 2021年09月24日 Tweet