2022年8月16日

2022年08月16日

海外の墓制から見る日本人のルーツ

みなさんこんにちは、前回(土葬から古墳への進化の過程~弥生時代の埋葬・墓制より考える~ )で縄文・弥生時代の人々の「死」についての価値観や意識の変化を押さえていきましたが、今回はそこに海外の墓制からの視点を加えて日本人のルーツに迫っていきたいと思います!


前回の最後に
>縄文時代では”死”を生命の循環の一つと捉え常に死と身近に生きていたが、弥生時代に「有権者」が現れたことにより人々の意識が循環→消失へと移ろい、その消失を避け固定(=墓)へとしていったものと思われる。<
と、書きましたがこの「有権者」は国内で誕生したのでしょうか?また日本の墓に代表される古墳はどこから来た文化なのでしょうか。

以下リンク参照
東アジア世界の中で北部九州は、古来より中国や朝鮮などの文化を受け入れる窓口でした。福岡市内における板付遺跡やこの吉武高木遺跡などをみれば、中でも朝鮮半島からもたらされた文化(無文土器文化・青銅器文化)の影響が色濃く表れていることが分かります。しかし、その背後には東アジア世界に多大な影響を与えた中国の存在があります。つまり、日本における弥生文化の成立とは、中国文化の東進を遠因とするもので、中国を核とする東アジア社会の一員となったあかしであるということもできるでしょう。

このように、大陸よりもたらされたさまざまな文物や技術は、日本の文化を一変させ、さらに社会を複雑にしていきます。そして、人々はより強力なリーダーの存在を求めるようになりました。

消えた?「早良国」
そこで誕生したのが、吉武高木遺跡の特定集団墓、そして「最古の王墓」3号木棺墓です。「国」の原形は、古くから「早良」と呼ばれるこの地、早良平野にできあがりました。

『漢書地理志』の「分かれて百余国」、『魏志倭人伝』の「伊都国」(糸島市周辺)・「奴国」(春日・福岡市周辺)のように、中国の歴史書では、中期後半以降の弥生社会における地域的なまとまりは「国」と記述されています。弥生時代中期の初頭、吉武高木遺跡は早良平野の中核となる有力集団であったと考えられますが、この中で「早良国」という記述はみられません。国や王墓の萌芽がありながら、早良平野では結果的に伊都国や奴国のような「国」と呼ばれるほどの広範な地域的統合を形成できなかったようです。

樋渡古墳(墳丘墓)
「伊都国」や「奴国」に王が出現した弥生時代中期後半(約2,100~2,000前)、吉武遺跡群では樋渡地区に墳丘墓がありました。墳丘墓とは、土盛りを持った墓のことです。墳丘は南北約26m、東西約17mの大きさで、発掘調査により甕棺墓など32基の墓が発見されました。甕棺墓からは、青銅製武器(銅剣)に加え、鉄製武器や中国製の鏡が出土しています。

樋渡墳丘墓は優れた副葬品を持つ、吉武高木遺跡の特定集団墓に続く有力者たちの墓であると考えることができますが、それでも、鏡などの大量の副葬品を中におさめた奴国・伊都国の王墓とは大きな格差が存在しています。なお、吉武高木遺跡の大型建物も同じ時期の所産です。

ところで、樋渡墳丘墓最大の特徴は、5世紀前半の前方後円墳(帆立貝式古墳)である樋渡古墳(吉武S-1号墳)の下から発見されたことです。つまり古墳は、弥生時代の墳丘墓を利用し、さらに土を盛り上げて築かれていたことが分かりました。

また、藤井氏の見解では
戦国時代以来、中国では、墓は墓主の「住宅」と意識された。埋葬施設、外部施設の各空間は、墓全体を包括する脈絡のなかで意味づけられる。
元来、墓地は「寝」「廟」から構成され、「寝」
は被葬者の魄が居する所、「廟」は降神すなわち被葬者の魂を一時呼び寄せ祀る場である。東漢魏晋以後、家形の喪葬施設あるいは房屋壁画が供献飲食器を伴う現象が広くみられ、そうした家屋形の喪葬空間は、生者が被葬者を祀る儀礼の場であると同時に、被葬者の「住宅」そのものであった。
東漢代以後の墓地では、墓は「栖魄」の場、祠(廟)は「栖神」の場となり、すなわち両方
とも魂(神)と魄の「居住」場所であった。

中略

日本の古墳は、喪葬空間として、いかなる「場」を形づくろうとしたものか明確にされているだろうか。中国の場合、その「場」の意味を失わず高次に昇華させることが、社会性・秩序の維持装置機能を生み出した。
たとえば、南朝では、墓―居宅=帝陵―皇宮=世界の中心、という思想
世界が構想された。北朝では、墓―祖廟=帝陵―国家的祖廟=秩序の具現化、という陵墓観念が存在した。
それゆえに社会秩序の象徴たりうるのである。日本の古墳の場合、大規模な墓=権力・
政治性と自明的に理解されるが、その脈絡は不透明である。古墳の政治性・階層性はいわば常識化しているが、しかしそれを真に説くことができるためには、古墳の根幹にある墓としての文脈を見出す必要があるのではないだろうか。

とある様に日本の墓(古墳)には中国・朝鮮に見られるほどの”場の意味”が薄いことが窺える。
これは縄文時代からいた日本人らが自ら作り上げたものではなく、外から来た人々の文化と相まって生まれたもののために”模造品”となっているのだろう。

投稿者 yanagi : 2022年08月16日  



 
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