2022年8月7日

2022年08月07日

弥生時代の大集落③~服装と生業~

画像はコチラから引用

庶民と富裕層に衣装の相違/最先端の生業は鉄の生産

弥生時代のファッションは、一般庶民と富裕層で異なります。庶民階級は「貫頭衣(かんとうい)」という衣服を着ていたとされています。これは従来、長い布の真ん中に穴を開けて頭を通す衣服と考えられていました。しかし、これには肩から膝までを覆う布が必要になりますが、各地の弥生遺跡から検出される織布は幅30センチ前後が最大です。このため、現在では2枚の布をたすき掛けして頭と肩を露出させ、胸部で綴じ合わせた形態の衣服ではないかと推定されています。

 

こうした形態の衣服はシンプルで動きやすいため、弥生文化との親近性が指摘される東南アジアの稲作民族が現在も、日常着として着用していることが注目されています。

左が庶民/右が富裕層

富裕層とは、集落内にあって権力を有する層のことを指します。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、「道で『大人(たいじん)』に遭った『下戸(げこ)』は、あとずさりして道端の草むらに入り、うずくまるか跪き、平伏の姿勢を取って敬意を表さねばならない」と記されています。この『大人(たいじん)』に相当するのが富裕層であり、『下戸(げこ)』に相当するのが一般庶民と推察されるでしょう。佐賀県の吉野ヶ里遺跡での発掘調査の結果、富裕層を葬ったと思われる甕棺墓(かめかんぼ)から、袖を縫い合わせたと考えられる絹織衣服の部分が見つかりました。富裕層は貫頭衣(かんとうい)とは作りが異なる絹製の袖つき衣服を着用したようです。

 

衣服以外では、成人男性の髪形がミズラであること、「魏志倭人伝」が記すように全員が素足ではなく、地方によっては木製の履物を履いていたことなどが、近年の発掘調査によって判明しています。

 

弥生時代は、農業経済社会であり、生業のほとんどは稲作をはじめとする農業でしたが、山野での狩猟、河川・湖沼・海での漁業、堅果類の採集が生業として成り立っていたと考えられています。また、製塩や石斧製作など専門的な生業に携わった集落もあったことが明らかになっています。

 

弥生時代において最先端の生業となったのは鉄器の生産と考えられています。鉄器使用は縄文最晚期及び弥生草創期に北部九州で始まりました。鉄器は当初、舶来品を使用していたと考えられますが、弥生前期末には北部九州で小型の鉄器生産が開始されるまでに国内の技術力が進展し、弥生中期には用具のほぼすべてが国内生産の鉄器に移行しています。ゆえに、鉄器生産は、弥生時代繁栄の基盤となった技術であり、生業と言えるでしょう。

 

■吉野ヶ里遺跡(佐賀県)

吉野ヶ里遺跡は、神埼市と吉野ヶ里町にまたがる、日本最大級の弥生時代の環濠集落遺跡。発掘調査では、環濠集落跡、墳丘墓、楼閣跡、甕棺墓(かめかんぼ)列などの貴重な遺構が次々と出土。弥生時代700年間の移り変わりを知ることができる。発掘当初、遺構が「線志人伝」の配す邪馬台国に酷似していたため、「幻の邪馬台国ついに発見」とセンセーショナルに報じられ、世間の大きな注目を集めた。

 

→鉄製品

製鉄は、弥生時代を代表する先進技術。鉄斧、鉄製鋤先、鉄鎌など多数の鉄製品は、吉野ヶ里遺跡の先進性を物語る物証といえる。

 

→身分が高い人の衣服と貫頭衣

本格的農耕の開始は、身分の序列を生んだ。土地の所有者など集落の運営に携わる人々は、高貴な身分となり、そうでない人々は一般庶民となった。衣服は、身分の差を一目でわからせる重要なアイテムだった。縫い目が残る絹織物も見つかっており、服飾史上の点からも貴重な遺物。仕立て技術という観点からも多くの情報を提示している。

貝の腕輪

遺跡からは、ゴホウラやイモガイの腕輪が出土。これらは奄美大島や沖縄に生息する貝で、当時既に交易があったことを示す。

 

管玉・小玉・勾玉(くだたま・こだま・まがたま)

当時としては最高級の装身具である管玉・小玉・勾玉。ヒスイは新潟県糸魚川産の貴重なもので、宗教的用途で使われたと考えられる。

■戦いの痕跡

弥生時代は集落問の闘争が激化した時代でもあった。吉野ヶ里遺跡からは明らかに「戦死者とみられる人骨が多数検出されており、弥生時代の素顔を伝える。

投稿者 asahi : 2022年08月07日  



 
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