2013年7月2日

2013年07月02日

江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由

江戸は縄文の再来では?を検証すべく、新しく江戸シリーズが始まりました!
今日はその第一回「家康が江戸を目指した本当の理由」です。
n021_03kidai.jpg
画像はこちらよりお借りしました。
確かに。そう言われれば、なぜなんだろう 🙄 ?家康自身は三河の出身ですし、戦国時代は西の京都と大阪が中心でした。天下を取るならそこに幕府を置くのでも良かったような・・・。
江戸に幕府を開いた理由としては、一般的には以下のように言われています。
京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため。
幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた。
戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた。
領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった。
また最近では、水運(経済・流通)の要所としての重要性が取り上げられてもいます。

江戸は中世かあるいはそれ以前から水運の重要なポイントとなる土地であって、ずっと昔から栄えていた場所だと言います。それなのに、鎌倉幕府などが江戸を拠点に選ばなかった理由の方が重要であると言います。その理由として、関東は、(本来の)利根川を境に強く対立する歴史が続いていたため、大きな勢力の根拠地には適さなかったのだと言います。しかし、太田道灌の時代の後、後北条氏の時代には関東は1つの勢力に統合され、ここを根拠地にする安定性ができたと言います。後北条氏は小田原を根拠地にしていましたが、その後で関東に入ってくる家康から見れば、江戸を根拠地として選ぶことは必然だと言います。(こちらより引用させていただきました。)

しかし、東北→関東を扱ってきた縄文チームとしては、果してこれだけなのだろうか 🙄 と思ってしまいます。
家康は東日本を組み込むことが天下泰平に繋がることを、直感していたのではないでしょうか?
家康がそう直感したのは、なぜでしょうか?
応援、お願いします!!

(さらに…)

投稿者 mituko : 2013年07月02日  



 
Secured By miniOrange