「私権文明を問い直す」 シリーズ 1 ~人類の同類闘争=性闘争から掠奪闘争へ~ |
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2010年01月26日
「稲作伝播は私権社会の引き金か?」7(最終回)~縄文・弥生論争への視点
◆吉野ヶ里遺跡(弥生時代)
「稲作伝播は私権社会の引き金か?」シリーズもいよいよラストになりました!
これまでの記事から、私権時代への移行の原因は「稲作伝播」という一生産様式に規定されるものではなく、「渡来人の価値観と制度」そのものが根源にあるということが明らかになりつつあります。
ラストは、これらの「価値観と制度」がもたらしたものの本質とは何か?についてるいネットより縄文・弥生論争への視点を紹介したいと思います。
現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている。
現在縄文時代と弥生時代を分かつモノサシは、稲作の開始、鉄器、土器の変化、階級社会化等に求められている様だ。しかしこれらの視点は次のように連関付けられている。
稲作の開始=農耕の開始→生産力の上昇と開墾⇒鉄器(鉄農具)の普及⇒余剰生産物の蓄積→階級分化、という図式である。(因みに土器の変化は自然信仰を反映した紋様から、機能性重視の形態への変化として連関付けられる)
つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。あるいは近代経済学も含めて生産力の発達が文明の発展の根底にある、という見方である。
言葉を換えれば米を日本人の原点としてみなす見解ともいえる。
従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。
しかし私はこの見解自体に異論がある。それは農耕=栽培と採取の間には連続性も存在するからだ。極端な言い方をすれば湿地にもみを撒けば稲は生えてくる。あるいは芋そのものを埋めればイモは生えてくる。それくらいの知識は採取文明にもあったはずだ。だから過去の投稿でも明らかにされているように起源を遡れば農耕の開始はかなりの年代まで遡れる。(世界史的には現在分っている範囲でも8000年から1万年前)また縄文時代においても現に三内丸山ではクリの栽培が行われている。従って農耕=栽培の開始が社会構造の転換において決定的であるという根拠が希薄である。従って農耕(稲作)の開始とそれに付帯する指標で歴史を区分することは本質を見誤る危険性を持つ、と思う。
私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合されるが、私権社会は土地と女の私有権を共認し、それを巡って合い争う事で勝者敗者が生み出され、それが身分秩序のヒエラルキーを生み出し、最終的にはその力で統合される社会である。(従来の)弥生時代史を俯瞰すると、弥生前期に環濠集落登場つまり、集落間の(おそらく武力を含む)同類圧力が高まっている。そして後期には倭国大乱そして邪馬台国の登場にいたる。つまり弥生時代とは、私権圧力とそれを背景にした武力闘争の圧力をへて私権時代確立への過渡期の現象を示す時代であり、この見方の方が本質的と思われる。従ってこの弥生・縄文の時代区分論争においても中心に置かれるべきは、私権の共認と私権圧力の高まりを示す諸現象群で、これによって時代区分とその時代の位相を考察すべきではないか、と思う。
渡来人により伝播された「価値観と制度」はこれまでの統合様式・共認原理を破壊し、私権統合の社会を生み出す程のパラダイム転換をもたらした。
やがて、集団の体制は統率者の下で生産の役割分担から領地の防衛に至るまで取り決められ、権力体制が築かれていったのではないでしょうか。その権力社会の始まりが古墳時代であり、弥生時代は縄文の共同体社会から移行する正に過渡期と捉えて良いのではないかと思います。
弥生は縄文と古墳の境目より引用。
弥生時代が私権社会の引き金となったこと自体に間違いは無いように思います。ただし、その主要因が稲作伝播という「生産様式の変化」では無く、「私権の共認と私権圧力の高まり」である以上、時代区分の捉え方としてもこちらが本質となるのではないでしょうか。
投稿者 dai1028 : 2010年01月26日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2010年4月5日 19:36
Hiroshiさん
コメントありがとうございました
この蘇我と藤原の婚姻は、意外と知られていないかもしれません。何といっても県犬養三千代との婚姻が強調され、彼女との間に生まれた光明子が強調されています。娼子との間に生まれた子供は、後の藤原四家の南家、武智麻呂と、北家の房前です。不比等は5人の女性と婚姻を結び、宮子の母は、賀茂比売という人ですが、不比等の家系に蘇我の血がはいったことをもって、宮子の母が誰であろうと、それで良しとされたのだと思います。もし、宮子の母が娼子であれば、宮子は皇后の地位を獲得できたのかもしれません。やはり夫人という地位が限界だったのでしょうね。
大王は最初、唯一の一族による継承では無く、家系が一つに定まったのは継体からというのが、一般的ですが、あえて「大王は何者?」と聞かれたら恐らく「大王は大王」としか答えられないでしょうね 笑
不思議ですよ、日本の王様は♪
投稿者 milktea : 2010年4月5日 20:08
milkteaさん
>『王位そのものの奪取』は憶測の可能性が高い
という全体を通じての考え方には同感です。
これは、日本人的協調・温和路線と言えるかもしれませんネ。だからこそ、一部のはねっ返り(崇峻、山背、古人?)は、容赦なくケサれた、ということでしょうか。
そう考えると、葛城→蘇我→藤原への移行も、乗っ取り・権力闘争というより、むしろ禅譲、必然の継承の流れにあったのかもしれません。
それにしても、彼らのその後は気になるところですが・・。
最終章、楽しみにしています!
投稿者 うらら : 2010年4月6日 12:02
うららさん
コメントありがとうございました
崇峻、山背は、確かにはねっかえり、古人は、油断という気がしますね。軽皇子(孝徳)を甘くみてたんですよきっと!
平家物語ではないけれど「おごれるものはひさしからず」が、その後かも…
投稿者 milktea : 2010年4月7日 06:45
milkteaさん、こんばんは、
>葛城と蘇我の婚姻、蘇我と藤原の婚姻、これにより蘇我・藤原は、かつての葛城氏が独占していた重要な役回りを継承し、繁栄していった一族となったわけです。
藤原も蘇我氏と婚姻していたのは驚きでした。
そして、その中心にいるという大王って一体何者なのかな~?というところも気になりました。古くは葛城そのものという気もするし。
次回最終回楽しみにしてます。