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2008年02月13日

祖神(オヤガミ)はなぜ生まれたか?

縄文時代後期、集団規模が大きくなり、集団を分割せざるを得なくなったとき、彼らはどのように複数の集団を統合していたのでしょう。従来の精霊信仰を土台としつつも、新たに祖神(オヤガミ)という観念を生み出し、それによる統合を図っていたのではないでしょうか?
      宗教的心情の起源を参照させて頂きました 🙄

当時の人間は森羅万象に隠れ身のカミの気配を感じており,いつもカミと共に生きているという実感を持っていた。自分たちが喜べばカミも喜ぶ,悲しいとき,辛いときは気持ちを切り替え,奮い立たせるために大騒ぎをする。自然という名のカミと苦楽を共にしていた。
自然に対する畏怖の念。自然に生きること。
いつ気が変わるかもしれないカミに翻弄されながらも,精一杯生きてきたのが,われわれの祖先の姿なのである。

縄文人の精霊信仰については、異論のないところです。
引き続き、沖縄・奄美諸島の習俗・伝説を見て行きたいと思います。
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縄文時代の日本の原始信仰を色濃く残している沖縄,奄美諸島の習俗,伝説の分析からは,次のような信仰の特徴を見いだすことができる。

①古代日本人の思考
彼らは,自分の身の回りで観察できる現象,事物からの連想,類推によってカミ,自然,人間を理解しようとした。
すなわち,彼らは太陽の運行,人の生死,植物(穀物)の実りと枯死などを信仰,神話,祭りに結びつけていった。

②太陽の運行
原日本人のなかでも南方に起源を持つ「海の民」は太陽に対する畏敬の念を持っていた。
南の島で見える太陽は,朝日は暁に咲く大輪の花にたとえられ,水平線の彼方に沈む巨大な夕日は島を瞬時に闇をもたらす畏怖を喚起した。
沈んだ夕日は「太陽の洞窟」を通って再び東方に新生すると信じられた。
この信仰が,その後中国で形成された道教,陰陽思想と合わさって,神道の源流となる。

③方角の重視
沖縄地方では,東をアガリ,西をイリと呼ぶ。
その東方のはるか彼方に常世の国,根の国,<ニライカナイ>がある。
ニライカナイには太陽の昇る場所,祖先神,火の神,水の神など神々の居場所があり,一切の生命の種の根源となる場所であると考えられた。

④人間と太陽を結ぶ連想
太陽は東から昇る。人の種も東方,常世の国から渡来する。
太陽は毎日新生と消滅を繰り返し,輪廻転生する。
人間も同様に輪廻転生し,つまりは太陽も人間もこの世には常在しない(無常)。
輪廻転生の間には「穴」が想定される。
太陽の場合は「太陽の洞窟」,人間の場合は生まれるときには「母の胎」,死んだあとには「墓」という疑似母胎の穴に籠もるというように考えられた。

⑤神の概念
古代日本人にとって目に見えず形もないカミは重大な存在だった。
カミは基本的に「隠れ身」の存在としてとらえられた。
しかし,他方で彼らはこのカミを抽象的なもの,観念的なものとしてではなく,具象,目の前の現象や事物の中に見いだそうとした。
そのカミの原型が自分たちの祖神(オヤガミ)であり,同時に穀神(農耕神)=宇賀神でもあった蛇である。

血縁関係を中心として統合されていた単位集団も、規模が大きくなったとき、分割せざるを得なかったと思います。
そのとき、観念の力抜きで、分割された集団を統合するのは極めて困難です。
そこで生み出されたのが「それぞれの集団に共通の祖神(オヤガミ)を敬う」という観念ではないでしょうか?
共同体の成員の死に際し、その霊に祈りを捧げるということと、先祖という特定の人間関係にある霊を敬うということの間には、おおきな転換点を感じざるを得ません。
この祖霊神をもとに様々な「神」が生まれていくことになります。

投稿者 naoto : 2008年02月13日 List  

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コメント

僭越ながら。
「なぜ縄文人が稲作を受け入れなかったのか?」
という問いに簡単に答えるならば,それは
「稲作を受け入れる必要がなかった」
という答えになると思います。厳密に言えば,
「一部には受け入れた人もいたが,多くの人は受け入れる必要がなかった」
ということになるでしょう。
縄文時代から弥生時代へ移行する背景には「気候の冷涼化」があります。
6,500~6,000年前をピークとする縄文海進を境に気候は冷涼化し,
4,000~3,000年前には一旦温暖化しますが,2,500~2,000年前頃には
もっとも気温は低くなるようです。
この2,500~2,000年前頃というのは,弥生時代の開始期にあたります。
気候の冷涼化は植生の変化をもたらします。植生の変化はそこに生息する動物を変化させます。
すなわち,生態系の北上を促すと考えられます。
自然に依拠する生活において植物相・動物相が変わるということは
ライフスタイルそのものの見直しを迫られることになります。
現代人でもそうですが,ひとは余程のことがないと生業を変えることはありません。
世間に様々な職種があふれている現代社会において,
どんなに安月給でも嫌な上司がいて転職を考えていても,
なかなかそれまでの仕事をやめるには至らないと思います。
それと同じで,例えば2,500年前頃に稲作技術を伴なった人々が大挙したとしても,
縄文文化のもとでの生活が成り立っていたならば,
西日本一帯が,言い換えれば西日本人のほぼすべてが稲作はじめるとは到底思えません。
その背景には,気候の冷涼化によって生活ができなくなった縄文人の姿があり,
稲作文化の伝来は,それまでの狩猟採集生活にどうしようもなく行き詰っていた彼らにとって
まさに「渡りに船」だったのではないでしょうか。
ただし,縄文時代に稲作がなかったのかというと,決してそうではありません。
近年少なからず縄文時代の水田も見つかっています。
これを営んだ人々は冒頭で書いたような
「一部には受け入れた人もいたが,多くの人は受け入れる必要がなかった」うちの
稲作を受け入れた一部の人と考えられます。
縄文時代でも様々な植物が栽培されていたことは分かっていますし,
朝鮮半島でも紀元前8~7世紀頃からは稲作が行なわれていました。
したがって縄文時代に稲作は伝わっていても何ら不思議はありませんし,
中には受け入れた人もいたということです。
このことは農業国に猟師もいれば漁師もいるということと同じことだといえますし,
そういう意味では律令時代に朝廷の頭を悩ませた蝦夷も,
縄文文化を担い続けた狩猟採集民の名残であるといえるでしょう。

投稿者 べろろん : 2008年3月25日 21:32

べろろんさん。コメントありがとうございます。
貴重なご意見拝聴します。
>稲作文化の伝来は,それまでの狩猟採集生活にどうしようもなく行き詰っていた彼らにとって
まさに「渡りに船」だったのではないでしょうか。
確かに現代人の感覚で見ればそういう結論になると思いますが、縄文時代は中期から晩期にかけて人口が減少するという時代を経ているにも関わらず、稲作文化を受け入れていないという事実もあります。寒冷化に伴い採集生活が立ち行かなくなって死滅した集落もあったと思います。
縄文人は自然の恵みを得ていたと同時に極めて強く自然崇拝をしていたと思います。彼らにとって農業とはどう映ったのでしょうか?そこがポイントになるように思います。
引き続き考えていきたいテーマですね。
ありがとうございます。べろろんさんのブログにもぜひ訪問させていただきます。よろしくお願いします。

投稿者 tano : 2008年3月25日 23:38

縄文人が、水田稲を受け入れたのは、縄文人が朝鮮半島の南に移住していて鉄や水田稲作を考え出し、日本列島に帰ってきて伝えたんじゃないでしょうか?
言語も同じ、習慣も同じだったから直ぐに広まったんじゃないかなと思ってます。
大陸から様々な物が伝わったという観点で見る人が多いですけど、日本が自立的に考えた物を朝鮮半島を通って中国に伝わった物もあるかと思います。

投稿者 倭人 : 2008年8月18日 16:40

稲作は、朝鮮半島起源でもありませんし、経由でも有りません。日本から朝鮮半島に伝わったのです。
実証論でお話しする気は無い方々のようですね。
TNOHは知らない?

投稿者 jyoumon : 2011年6月8日 17:22

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