2020年2月13日
2020年02月13日
海洋シリーズ第4回~現在知られている編み方の殆どが、7500年前には成立していた(それも漁労から派生)
に続く海洋シリーズです。
日本人は海洋民的な特性を色濃く備えておりそれは交易や産業という形で既に縄文時代前期からかなり高いレベルで加工工場、生産専門集団を作っていた。また今日私たちの生活に密着している編み物とは漁労の網が起源になっていた。既に非常に複雑な編みの技術が7500年前の縄文前期には完成していたというのは驚きだ。
以下、http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/16a1index.htmlから紹介。
縄文時代を正しく評価する為には、縄文人は海洋民族だった事の認知が大前提になるから、この項でそれを確認する。中国の歴代史書は、「倭人は海の彼方から来るが、中国人は倭人の島が何処にあるのか知らない」と指摘しているから、縄文人と倭人が海洋民族だった事は誰の目にも明らかだが、史学者はそれを無視し、縄文人は日本列島に閉じ篭って原始的な生活をしていたと主張している。
■籠を編む多彩な加工技術は、縄文早期に成立していた。
下のページは「さらにわかった縄文人の植物利用」 国立歴史民俗博物館編 新泉社 85ページの転写(クリックすると鮮明になります)
現在知られている編み方の殆どが、7500年前には成立していた。 東名遺跡(ひがしみょういせき)は、佐賀県佐賀市の7500年前(縄文早期)の低湿地にあり、太平洋が湿潤化して気候が安定し、海進が終了した頃の遺跡。遺体のタンパク質同位体分析により、陸上植物を主食とし、魚介類を副のタンパク源とする食生活だったと推定され、漁民と共生する縄文人の遺跡だった事を示している。
矢尻の材料には鬼ノ鼻山(佐賀県多久市付近)産のサヌカイトが主に使用されたが、腰岳(佐賀県伊万里市)産の黒曜石も出土し、交換の広域化が進んでいた事が分かる。出土した精緻な加工品は網籠だけではなく、鹿角を素材とした装飾品や、櫛(日本最古)も発掘されている。
この様な多彩な編み方を考案したのは、交換価値を高める為だったと考えられ、交換品に付加価値を付ける意識、即ち商品意識が生れていた事、それが競争的に行われていた事を示している。この地域が籠編み技術の発祥地だったとは考えにくいから、7500年前の日本では既に商品意識が芽生え、この様な技術が日本全域に広がり、競争的にその技巧が使われていたと考えるべきだろう。この様な技巧は、縄文人が漁網や魚籠を製作し、それを漁民に供給していた結果として生まれた可能性が高く、これらの技法から漁網の進化を類推する必要がある。
※私の意見:この記事では商品意識とかかれているが、これは現在の貨幣経済の商品意識と異なり、贈与や交換品としての商品であったと思われる。
当然利益を得る為ではなく、技術を伝える為、広げる為、共有するためであった。そのエネルギーは現在の企業の商品開発と同様あるいははるかに高いものだとったと思われる。この交易ネットワークこそ漁労民たる縄文人の資質であろう。
■新潟県大角地(おがくち)遺跡(7000年前頃:早期末~前期前葉)のヒスイの加工工場
大角地遺跡は、糸魚川市の姫川河口に近い海岸にあり、海岸で採取できる蛇紋岩から、磨製石斧を製作する工房だった。
蛇紋岩は磨製石斧の素材として最も好まれ、完成品10点に対して未完成品が133点出土したから、交易用に石斧を製作する工房だったと推測される。 この遺跡から長野県産の黒曜石も出土し、異種の石製品の、産地間交易が行われていた事を示している。近くの海岸でヒスイの原石を拾う事ができただけでなく、近くの山に滑石もある。 大角地遺跡から、滑石で作った玦状耳飾りなどの石製装身具だけでなく、その加工途上品が多数出土し、磨製石斧と装飾品を作る工房だった事を示している。この時代には、硬いヒスイは製品にではなく、加工用の道具として使っていた。
1kmほど離れた所に、縄文中期の磨製石斧の大工房だった寺地遺跡がある。寺地遺跡では、工房に使用した竪穴住居7基が発掘され、そこからヒスイ製の玉類も発見され、ヒスイの加工も行っていた事が分かった。 新潟県南部や富山県東部には、蛇紋岩やヒスイを加工していた縄文遺跡が多数あり、この辺一帯は、それらを製作する産業地帯だった。
投稿者 tanog : 2020年02月13日 Tweet