2022年7月25日
2022年07月25日
弥生時代は均質なものではない
皆さんこんにちは。弥生時代に関し追究していますが、今回は、そもそも弥生時代をどう見るべきか、考えてみたいと思います。
寺前直人准教授による『文明に抗した弥生の人々』
「文明に抗した」とは意味深ですが、要するに、弥生時代に朝鮮半島から渡来した文明に対して、大阪湾沿岸部当たりでは、(縄文時代の)東日本からの栽培や祭祀を取り入れていた、と言う趣旨です。近代日本の「明日は今日より良い」的な史観でなく、弥生が縄文を取り入れる、などの先祖返り的なこともあったという意味です。
「文明に抗した弥生の人々」(吉川弘文館 寺前直人駒沢大学文学部准教授著)より引用します。
(以下引用)
文明と野生の対峙としての弥生時代-エピローグ
発展の日本神話
本書において、私は100年前の近代日本成立期におこった弥生時代・文化像の成立過程にせまった。それは江戸時代、分権的政治体制であった列島社会が中央集権的政治体制に、そして欧米列強の進出におびえる小国が、植民地を有する帝国への歩みを進めたちょうどその頃の出来事であった。
1930年代における山内清男らの活躍によって、弥生時代論は近代ヨーロッパの自我に通じる自立的な社会発展論を得た。それが森本六爾によって水田農耕論と結びつけられることにより、日本文化起源論へと改変されることになるのだ。
さらに、その後の唐古池における木製農具の発見、そして登呂遺跡での水田の発掘は、「天皇」制に依拠しない国民国家の叙事詩となりうる弥生時代像を用意したのである。ただし、1950年代までの議論をみると、山内や杉原荘介といった研究者のみならず、小林行雄も、弥生時代における文化の地域差に言及していることには注意が必要だ(小林一九三八・一九五三)。
ただし、弥生時代の日本列島を文化的小地域に区分しようとする議論は、やがて青銅器の分布、特に銅鐸の分布と銅矛・銅剣の分布圏という、近畿と九州との政治圏の議論に矮小化されていった(岩永一九九七)。また、伊藤信雄をを中心とした東北弥生時代研究は(伊東一九七〇ほか)、東北地方における水田耕作の存在をあきらかとし、この地域が農耕社会への「発展の図式」からとり残されていなかったことを証明していった(高瀬二〇〇四、一三頁)。結果として日本列島の大部分を占める「弥生文化」は、その均質さが重視されていく。それは国民国家として、共有しやすい歴史像の提供でもあったと言えよう。
近代日本の創成期にうみだされた弥生時代像は、このような順当な発展や成長の物語であり、「明日は今日より豊かになる」という大きな物語、「発展神話」への信頼と期待でもあった。この正解感が実社会においても実感できた一九九〇年代前半までの日本社会は、この歴史観をおおむね好意的に受け入れられてきたのである。
発展神話への幻滅
しかし、経済の停滞と人口減が現実となった一九九〇年代後半から二一世紀において、この発展神話は、それまでの求心力を失いつつあるように思える。それと同時に歴史学、そして考古学も大きな物語への関心を急速に失ってきた。
(略)
豊富な資料群のなかで、私が着目したのは、弥生時代の前段階である縄文時代にみられる日本列島の地域的な変動である。縄文時代後期以降、それまで目立った集落が存在しなかった西日本に広域において定住的な集落が出現し、東日本に由来する大量の土偶や石棒類が、局地的に認められる。さらにこの変動に呼応するかのように、中部関東から西関東を中心に栽培されていたアズキやダイズが九州島にまで広がっていったとすると意見がある(小畑二〇一六)。東から西に儀礼とともに、栽培が伝わり、人口が増加していった可能性すらあるのだ。
このような東から西への流れは、朝鮮半島からアワ、キビ、そして水田稲作を伴う文化複合が伝来した弥生時代会式においても儀礼面で継続する。大阪湾沿岸部地域では東北地方の屈折像土偶に起源をもつ長原タイプ土偶が盛行し、主要な環濠集落では関東や中部高地で見られるような大型石棒が使用されていた。
朝鮮半島に近い玄界灘沿岸地域において、石製武器を中心として階層的な社会が形成され、水田耕作経営が定着していったのに対し、これらの地域では東日本で発達した祖霊祭祀を軸にした平準な社会を志向して、儀礼の継続が図られたと私はみた。この志向性はすでに祭器化していた武器形石製品や木製品の影響を受けて非実用化され、銅鈴は在来の文様が付加されることにより、いずれも既存の価値体系の中に包括できるよう記号化された。これらの創出により、一時的とはいえ近畿地方南部を中心とした列島中央部の人々は、大陸・半島からもたらされた魅力的な文明的価値体系に抗することに成功したのだ。
(略)
野生と文明の交差する日本列島史
(略)
この長大な日本列島を論じるとき、文明を基準として地域を序列化することは確かに一つの整理方法だといえる。しかしながら、弥生時代をみる視点は、ここまで議論してきたようにそれだけではない。本書では先学に導かれながら、西からの文明の視点とあわせて、東からの「野生」の視点からの分析を進めてきた。文明と野生の交差した時代としての弥生時代像である。(引用終わり)
縄文、弥生、古墳をどう見るか、どう再編するか
我々の追究は、先人が区分した時代ごとにおおよそ行われます。が、その区分が本当に適切なのかは、あまり考えません。弥生時代の人々は、縄文先住民とどう融合したか、を考えていましたが、寺前淳教授のいうように、栽培や祭祀を取り入れながら、平準化した(階層的でない)社会を営む弥生時代の人々もいた、となると、縄文と弥生は、地域的にはまだら模様となります。
確かに、広大な日本列島で、一度に同じ制度、社会システムに塗り替わるのは恐らく不可能。そういう地域もあればそうでない地域もあるというのが、実情ではないでしょうか。
縄文→弥生→古墳、と言う時代の進化、各時代を均質なものとしてとらえるのは、もはや適切でない、とも言えると思います。
投稿者 sai-yu : 2022年07月25日 Tweet