2019年6月6日

2019年06月06日

るいネットから縄文体質を炙りだす~第3回 史実を正すことが縄文を再生する事に繋がる。

縄文体質は縄文時代が終焉して以降も度々歴史の場面で登場します。縄文時代が残した最大の功績は日本人に縄文体質を植えつけた事かもしれません。第3回は弥生時代以降に現れる縄文体質、縄文資質について書かれた記事3編を紹介します。今回も短文で内容を表し、後から原文を紹介します。

ヤマト政権は、富と権力を嫌った縄文の末裔たちの連合体2
ヤマト政権は九州の王朝が東へ移動したのではない、東から結集した集合体であり、大陸的変容を遂げた北部九州に対して東国的≒縄文的体質を色濃く残していた→後の日本の歴史に縄文的要素を残す事に繋がる起点

白村江海戦の謎~戦ったのは大和朝廷ではなかった?~
教科書の歴史の矛盾~倭国と日本は別の国(勢力)であり、唐・新羅と戦ったのは倭国である。そして倭国は戦争責任を取らされ、滅ぼされた。
→こういう事からも倭国=日本という嘘の史実を正すことが必要

飛鳥盆地は日本人の空間意識の原型
日本最初の都が飛鳥地方に誕生し、その土地が盆地であったということは、日本文化を考えるうえで、一つの重要な鍵ではないか
盆地のなかに包まれている限り、都は一ヵ所に定着しないで、水のように流動を続けている。日本の建築は美しくはあっても、弱々しく見える。明らかに、それは外の空間と対決したことのない建築であり、視覚的に自分で自分をささえる必要のない形なのである。
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投稿者 tanog : 2019年06月06日  



 
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