2016年10月6日
2016年10月06日
諏訪と縄文第2話~出雲族とは何か?
第2回は諏訪を語る上で触れておきたい存在で出雲族の話である。
出雲族と言えば出雲に集まっていた古代人と捉える向きがあるが、実際には中国の夏王朝の時代に黒竜江から日本列島に流れ着いた製鉄技術の民の一派、総称である。
出雲族は樺太―小樽―日本海側を経て最終は出雲に辿り着いた。もう一方の流れが諏訪にあった。従って諏訪の出雲族は出雲から来たのではなく、出雲と同時期(3000年前頃)に日本で拠点を築いた製鉄部族なのである。まだ弥生時代が始まる前である。
第2回はこの出雲族の事を書いた随筆を紹介してみたい(出典はなかったが、おそらく梅原猛氏の文章だと思われる)
出雲族は諏訪土着の縄文人と神社を作る事で融和し、御柱祭りを催す事で縄文ー弥生部落の結集を成した。おそらく、渡来人が日本で定着し縄文人と融合していったというくだり、決して簡単な事ではなかったという事を慮る。彼らは融和しなければ生きていけないという切実な状況にあった。
出雲族
縄文と弥生のはじめての接触という歴史的役割をはたしたのは出雲族であった。西村真次博士の著書「大和時代」によれば、出雲族は黒竜江あたりのツングース(女真族)で、BC1800〜1000 年頃、船で日本海を南下して、樺太―小樽―陸奥―出羽さらに出雲に進出したという。そして出雲の地が良質な砂鉄が取れる為、ここに大きな王朝を作ったとある。
当時の縄文人は、森に近い乾燥した高台に住み、その土地では合理的といえる竪穴式住居に住んでいたが、一方の出雲族は、木造の高床式の住居文化を持っていた。この高床式は湿気の多い平地でも作ることができ、変化に富む住宅形式であった。一言で言って、日本の縄文人たちとは異質のより高い文明をもっていた。
この出雲族が日本大陸で出会ったのが、武力争いとは無縁の、平和な交流しか知らない縄文人たちであった。この集団が日本列島に入ってきたとき、どのように縄文人たちと接したのだろうか。その舞台はまず、新潟から北陸、そして諏訪でおきた。
出雲族の勢力範囲
出雲族はどのように諏訪に定着していったか~諏訪大社は誰が作ったのか?
さてこれほどの縄文銀座であっても、諏訪湖周辺に注目すれば、諏訪湖湖畔には遺跡は発見されていないのだ。縄文遺跡はすべて水面から 800mより上に存在しているという調査結果がある。水位が変化しても土地が浸水しないところでないと竪穴住居はできないのだ。
この地を代表する4つの諏訪大社も見事にその線上にある。これが縄文由来の神社である証拠でもある。現代の湖畔は高級リゾートで開発され尽くしているが、諏訪湖南東の湖畔にぽつんと遺跡がある。これが数少ない弥生遺跡なのだ。
さてこの地に落ち着いた建御名方命の集団はまず諏訪湖湖畔に耕筰地を開き穀類の栽培を指導した。先に示した湖畔にわずかに残る弥生時代の遺跡だ。縄文人たちはおずおずと800m 下の湖畔に降り立った。ここはアイヌ語で言うサハ(平野)だ。弥生文化の特別な意味を込めて湖畔をサハと呼び、やがてサワ(沢)からスワ(諏訪)と呼ぶようになっていったのではないだろうか。
諏訪の名前を得た出雲族即ち建御名方命の集団は、この地の成功を元に、次々と南下していった。勢力範囲を広げないと生きていけなかったのだ。農耕を初めて、収穫にいたるには何年もかかる。その間は狩猟採取の縄文部落からの貢物で生きていかなければならない。その生産力は低いので、ひろく多くの縄文部落を支配下に収めなければならなかった。各地に見る諏訪神社はその浸透の地域を示すものであろう。
諏訪大社は出雲族が建てたが、縄文人と一体となって信仰していたのでは。
切りとった4本の巨木を立てて聖地を囲むのは縄文由来の祭りに違いない。三内丸山の 6本柱,チカモリ遺跡 真脇遺跡の列柱は太陽の祭りに関係付けられたが、諏訪の4本の巨木は聖地を聖別した。柱の巨木はここでは杉だ。栗の木のようには長持ちはしない。7年毎に立て替えになる。祭りにするには良いタイミングかもしれない。八ヶ岳の西山麓は縄文遺跡の宝庫だが、ここで御柱の原木が取り出されるまでには多くの準備の神事がある。そしてこれを縄文の各村を通って、諏訪大社まで運ぶのが御柱祭だ。途中の山おろしの勇壮なところだけが有名だが、この全行程で全部落総出で担ぎ送るのが、縄文から現代まで続くお祭りなのだ。最後にこの高さ16m もの巨大な宮柱を綱で引き立てて終わる。
縄文人たちは、自然に出雲族の指導に服しながら、狩猟採取の山麓生活から平野でも農耕生活に移行していった。その過程で諏訪地方の神事もその支配体制に準じていった。最高権威である大祝(おおほうり)という生神は建御名方命の子孫を名乗る諏訪氏が任じ、縄文信仰の神官守矢氏はその配下に置かれた。生神様がいるのは、明治時代までは良かったが、天皇御一人が現人神でおられる明治政策ではゆるされなかった。誇り高い先住の出雲族としては、大祝(おおほうり)の地位家系をそのまま継続したかったが、抵抗むなしく明治の宗教政策に屈し廃止された。
縄文人の子孫は、多分神社の上層部のことはどうでもよかったのではないか、この御柱祭の祭りの熱狂さえ残れば。
第3回は諏訪で現在でも活躍する人、これまで歴史上活躍した人物を追いかけてみたい。日本人の中の縄文性とは何かに一歩でも近づきたい。
投稿者 tanog : 2016年10月06日 Tweet