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地域再生を歴史に学ぶ~最終回 ノートとして

地域再生を歴史に学ぶとして第1階~9回まで続けてきましたが、最終回はこのシリーズで佳作となった記事を対象に10行程度の短文にまとめて紹介します。このテーマを考えていくノートとして読んでいただければ幸いです。

地域再生とはお上(中央)のチェック機構として必要不可欠であり、自治の本質とは一人ひとりが社会の当事者として組織を運営していく事だと思います。そしてその因子は縄文1万年間の間に私たちのDNAに刻印されており、有事の現在、まさに縄文、惣村で築いていった自治の精神が再生する絶好の機会なのではないでしょうか。そして地域や自治の本質はそれらを繋ぐ広域ネットワークにあるという事も今回学んだポイントでした。私たちがこれから地域論を考える際に忘れてはならないのが、いかに”繋がる”かという行動方針だと思います。

第1回「縄文時代の地域の真髄は”ネットワーク”だった」 [1]
縄文人のネットワークは単に隣町、隣地域に留まらず、200kmも300kmも離れた遠隔地まで届いています。また、福井県の鳥浜の事例では遠く中国大陸まで物資や人が移動しており、交通技術のない時代としては破格の長距離交易が行われていた事が特徴的です。
これは日本が四方を海で囲まれており、沿岸部を通じて舟で移動する、安全な海の交通網を持っていた事と、半分程度いたと思われる漁労民の存在がそれを可能としていました。
そして情報を求める動きは現代人も古代人も同じで、集団の安全、安心を確保する為に外部情報は貴重で価値あるものでした。まして古代には新聞も守ってくれる警察もいません。自らの集団は自らで守らなければ生きていけませんでした。インターネットを使って誰でもいつでも知りたい情報が手に入る現代とは情報の価値が全く違っていたのです。言い換えれば縄文人のネットワークとは集団として生きていくために必要不可欠なものであり、互いに助け合い、情報を共有し、刺激を与え、与えられる中で無限に伸びていった、そういう意味で縄文の地域意識とは現代より広域で重層的だったのではないかと見ています。

第2回 地域空白期は力ずくの律令制が作った [2]
日本の地域共同体の歴史を見ていく際に、6世紀から13世紀にかけての中国風の律令制の禍根が負の足跡として残っています。縄文時代から弥生時代にかけて共同体の存続させてきた、人々の生きる基盤となった自治力はこの時代に影を潜めていきました。
日本は九州から西日本、中部地方にかけて10世紀を境に古代集落が消えるという現象が起きています。これはヤマト時代から奈良時代、平安初期にかけて繁栄した地域が9世紀から10世紀にかけてきれいさっぱりと無くなっているのです。これは考古学的に証明されており、自然災害など、いくつかの複合的な理由はありますが中心的な理由は社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊にあるとされています。
日本の古代地域はヤマト、奈良時代に再編され、平安中期に再び解体再編されました。平安中期の再編の牽引役となったのが受領であり、彼らが略奪私有した土地で始めた新たな荘園制度が次の地域の牽引役でした。しかし律令制度を初めて本格的に実施しただけであり、中央から受領が送り込まれ、実質彼らが庶民を土地に縛り付けて徴税を貪ったという段階に過ぎないのです。この段階は大衆史的には地域としての主体性も土着的な共同性もまったくもって失われていた暗黒の時代と言わざるを得ません。平安後期の10世紀から鎌倉時代の13世紀にかけては我が国で最も共同体が失われた日本史の中の地域共同体の空白期に相当するのです。

第3回 日本列島、東と西の違い [3]
惣村は主に西側、畿内を中心に鎌倉時代後半から発生しています。さらに惣村が成熟し、政治勢力に対抗する一揆を起こしたのも近畿が発祥でした。一方、関東以北の東側地域には中世において武家社会による安定した社会が形成され、中世以降は庶民においても西側世界と大きな差異を発生していきます。 この日本列島の東と西の違いはどうやら共同体の再生過程においても大きく影響しているのではないか、むしろこの西と東の違いが日本の地域論を解明するひとつの鍵にならないか、そう考えてみました。
惣村=天皇家のお膝元であり最も国家支配の強い西側、それも畿内を中心にこの百姓の自治組織が形成されていったことです。これは稲作、畑作と言った生産形態だけでは説明できない問題です。私はやはり真っ先に律令制が入り込み、本来共同体である日本社会において、水と油である外来の律令制を推し進める矛盾の中で大衆自身が防衛的に結束したのではないかと見ています。つまり最も強い支配圧を受けた地域から先に共同性が再生した、そういう見方ができるのではないでしょうか?

この西と東の違いは現在にも多少なりとも伝承されています。大転換の時代にあって、未だ古い秩序が支配して社会が混迷を極める中、関西、特に京都を中心に元気な中小企業が萌芽し、逆に大企業中心の東京型は没落の兆候を示しています。これも自治の西、管理の東を表している一現象ではないでしょうか。まだ結論を出す段階ではありませんが、地域社会の自治の有り様が社会体制を決定付ける根拠の一つになるのではないかと思っています。

第4回 惣村の形成とはなんだったのか? [4]
これは全くの私の仮説ですが、惣村をお百姓さん自身が自立的に立ち上げたというのはあまりにも突然変異的で少々考えにくい。どうも総合プロデューサー的な人物、職能が存在するのではないか?非農業者である職人や漁民、山民といった移動や交易といった横の繋がりを生み出す人々が惣村に絡んでいたのではないかと思っています。
影の主役に山の民、漁労の民が居るとしたら、彼らこそ、律令社会の狭間でその影響を受けずに縄文的資質を残してきた人たちです。律令制機能不全のこの時代に縄文の共同体資質、交易資質が再生したと見る向きもありますが、逆に縄文的ネットワークを持っている集団が農民集団に加わり、リードすることで組織が再生されたと見ることはできないでしょうか?
そういう意味で惣村の形成とは日本の大衆史において、危機発⇒縄文的共同性の再生であったと見ています。

第5回 共同体にとって自由とは何か [5]
惣村=共同体再生以前は共同体はなかったのか?そこが疑問が出る所でもありますが、私はあったと思います。勿論、惣村のように掟を決めたり、自前で組織を運営するような行動性はありませんが、生きる基盤としての共同体社会は惣村が出来上がる以前にも連綿とあったのではないでしょうか?
日本での最初の徴税は「初穂」と呼ばれ、稲の苗を朝廷からいただく代わりに品物を納めるわけです。神物だから踏み倒すわけにはいかない、どうしても返済しないといけない。 負担の自発性を支える要因に上記の公民の自由と、神様に捧げるといった両方の意識があったように思います。これは結構現在でも残っていて、納税について人々の抵抗感は意外と強くありません。税は必要なもの、捧げるものという意識は共同体社会となんらか繋がっているのかもしれません
>日本で自由という言葉そのものの意味が決してヨーロッパで使われている自由とは同じでないということです。自由とは共同体の成員権のことです。公への負担を出して共同体で一人前だという感覚の事です。年貢廃棄闘争は日本史では一つもありません。公に奉仕するという意識が、日本の場合、自己の自由を保障する形になっているのです。~網野氏著書

第6回 一揆が成したのは共同体の結集 [6]
さて、一揆といえば百姓一揆、農民特有の反抗行動だと思っている方も多いと思いますが、一揆の本質は反旗ではありません。一揆の本質は連携であり、結束であり、決断であり、行動だったのです。著者は現代で言うと“運動”に近いとしています。また、一揆は農民特有ではなく、武士、寺院が先行し、やがて農民も同じ形態を取るようになったとされており、いわば中世の乱世の中でそれぞれの集団が新しい課題を前にして集団決議を取る方法論の一つだったのです。
>一揆が、構造への対置的措置として、この時代の社会を活性化し、その体制の一部を構成するほどその役割を拡大するにいたったと言える惣村自体は閉鎖的な集団として形成されるのであるが、その閉鎖的集団を一単位とする一揆を結ぶことにより、より広い共同の場をつくりだしていったのである。~勝俣鎮夫著

日本は乱世、混乱の時期ほど、集団的力を発揮し、その組織の作り方から決定の手法、実行の力まで豊かに創造してきたのです。日本人の問題解決の手法に武力や権力によらず、平和的解決、話し合いでの解決とはよく言われますが、一味神水で神の力を借り、それを集団的決議として事に当たる。集団で共認された事は森羅万象の神の決定と同義とする手法、慣習は実に縄文的資質を引き継いでいるように思います。

第8回 江戸時代は惣村自治の集大成 [7]
江戸幕府は中央集権ではなく封建制でもなく、地方の事は地方に任せるを徹底した「村の自治」、「藩の自治」をベースにした信任関係を機軸にした世界でも稀に見る政府でした。家康自身が乱世、戦国時代の教訓を基に作り出した政治手法だったのでしょうが、大衆(=農民)を支配する発想を自治力を生かす発想へと全く逆転させたところに徳川家の凄さがあります。
江戸時代の村とは中世の惣村を受け継いでおり、幕府や藩の信任関係を受けてさらに磐石、確固たるものにしていくのです。では幕府は大衆の自治に対して全く放任、無関心だったのか?これが実にうまい運営をしています。お国自慢で藩同士の競争を煽り、また参勤交代で藩同士、幕府と藩のネットワークを形成する、そして何より市場の発達がバラバラになりがちな地方の自治を繋ぎました。法においても今日的な法治国家の色彩はありません。「お触れ」で示すのです。

江戸時代が地方自治に支えられた、かなり完成された社会であった事は想像がつきますが、この「お触れ」にあるように、決して固定的ではなく、時々の事象(=外圧や課題)に対してその都度、中央(=幕府)も藩も村も自前で方針を考え対応していた事が優れていた点だと思います。

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