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日本の源流を東北に見る(10)~エピローグ(東北を通して見る日本への期待)

こんにちは。 🙂
8月から始めてきた東北シリーズ、いよいよ最終回となります。残課題もたくさんあり追求は尽きないのですが、一旦今回のシリーズを締めてみます。
扱ったテーマとそこでの追求のエキスをまずはいつものように紹介していきます。
時間のない方の為にこのシリーズを今回1投稿でも味わえるよう編集してみました。
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奥入瀬の自然 [1]なまはげ [2]漆塗りの土器 [3]
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月山の山岳信仰 [4]賢治の絵 [5]
>シリーズイメージ画像<
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第1回~火山がもたらした東北の縄文 [6]
東北地方は縄文人の集積地です。それは単に縄文時代の温暖期に北方が住みやすかったというだけではなく、日本列島の中で特に火山が集積していた一大火山地帯であった事が豊かさを作り出した最大の要因です
火山周辺には養分のある黒ぼく土が集積し、そこに豊かな植物が育ち、サケマスや海浜の漁撈資源が縄文人のたんぱく質を満たしました。東北の豊かさとはこうした自然の連鎖の中にあり、その源である山に対しての信仰心は他地域に比べ際立っています

第2回~賢治にみる東北・縄文の世界 [7]
東北の詩人宮沢賢治は生涯、東北の地で生活しました。明治、大正、昭和、平成を通じて、未だに賢治のファンが多く、その詩歌の言葉に触れる事で現代人は癒しと共になにか懐かしさを感じます。近代主義にも染まらず、当時の明治の文豪とも交わらず、賢治がひたすら会話していたのは東北の地に残る縄文の魂でした。
>宮沢賢治は岩手の山野を好んで歩いたそうです。農業研究者(自然科学者)として地質調査するためだけではなく、きっと賢治は、この風土の中にいまも激しく脈動している原東北の縄文人の感情をまさぐり、一体になろうとしていたのではないでしょうか

第3回~水稲を拒否した縄文人 [8]
東北の稲作を追求していたら、たまたまこの史実に遭遇しました。6000年前、大陸で水田稲作が始まったわずか600年後に日本(岡山、北九州)に稲作栽培の痕跡が残っています。長江流域の人が稲作技術を携えて渡来してきたことを示しています。しかし、その後の縄文社会には稲作は根付かず、途絶えてしまいます。稲作を受け入れる必要のないくらい豊かだったという説もありますが、本質は次のようです。
>呪術的リーダーの意見を全員が賛同することで集団を統合する共認原理の社会では、自然外圧をそのまま受け入れる狩猟・漁労・採集といった生産様式が適しており、序列で単純労働を強い、自然外圧を技術で克服せんとする水田稲作という生産様式は受け入れられなかったと考えます。<

第4回~東北に根付かなかった水田稲作 [9]
東北地方は稲作が本格的に日本列島に伝わって、かなり早い時期に水田稲作を取り入れています。青森県の砂沢遺跡では弥生時代前期中葉の水田遺構が残っています。
ただこの遺跡では西側地域に代表される農業とセットになる鉄器や青銅の祭祀具は発見されておらず、稲だけがやってきているのです。さらに狩猟や漁撈の石の道具が多く発見されており、決して農業に全面的に依拠する状態にはありませんでした
そしてその数少ない水田遺構の遺跡を残して9世紀まで東北地方は稲作を放棄します。
東北で水田が始まったのは蝦夷征伐が行なわれた後、力ずくで朝廷の為政者によって組み込まれていきました。しかし以降も結局、品種改良が行なわれた明治時代までは定着せず、何度も飢饉と餓死を繰返したのが東北の悲劇の歴史の一幕でした。
裏返せば、明治以前は長く稲作以前の狩猟や漁撈、採集に食料を頼る続縄文の状態にあったとも言えます。

第5回~東北人は同化の民~縄文時代から塗り重ねられた、まつる心~ [2]
東北といえば祭り。その祭りの本質を探っていきました。
世間一般の祭りでは神様や祖霊が別に居て迎えるかたちが多いですが、東北では精霊と一体になる事が特徴的です。その風習は縄文時代まで遡り、全国の7割を占める土偶にその源流があるように思います。その土偶文化はアイヌに引き継がれ、また現代の東北にも各家庭の中に祀られる「おしら様」という形で残っていきます。
>東北に限らず祭りというと発散系の行事が思い浮かべますが、これは弥生以降の稲作文化の収穫祭の系譜であり、東北地方のまつりの底流にあるのは、身近にいる精霊に対して静かに祈る心です。東北の人々は、その豊かな自然に守られ、いまでも精霊とともに生きつづけているのです。

第6回~東北弁が残り続ける限り、縄文体質は残り続ける~ [10]
東北弁と言えば、「ズーズー弁」。私たち東北出身でない者までが何ともいえない懐かしさや、温かさを感じます。なぜ、東北弁を聞いてこのような感覚を覚えるのでしょうか。
それは、東北方言のルーツの中にありました。
東北地方ではトンボをアケズと言います。小泉保氏は、そのアケズの原形を「アゲンヅ」とし、そこに含まれる半有声の「ゲ」や「ンヅ」は、東北方言でいまも聞かれる半有声の「ゲ」や「ンド」に近似していることから、東北方言は原日本語の、すくなくとも縄文後期の音形をよく保持していると分析しています。
>渡来人にとって聞き分けにくい言語であった縄文語<こそ、何千年もの月日を重ねてこの日本に根付いた言語であり、縄文人の思考に合った言語であると言えます。そして、その末裔である東北弁は、やはり日本人にとって“ふるさとの言葉”なのです。<

第7回~東北地方の「絆」の源泉を探る~ [11]
今回の震災で“絆”という言葉が流行しましたが、これは日本人特有のものであり、また、東北地方には歴史的に絆(=地域の連携)を生み出すしくみがありました
>東北の文化や集団間の関係とこの地域の「サケ・マス」という食料資源との関係は密接なものがあり、集団間の贈与関係を超えて、複数集団での「共働」する慣習がすでに早期にできあがっていたと推測されます。これがその後の東北地方の地域ネットワークの基盤となり、「絆」の強さ・深さの源泉になったのではないでしょうか。<
>寒冷化が進んだ晩期の東北地方で繁栄はなぜ可能だったのでしょう? おそらく縄文早期から中期に培った地域ネットワークが基盤にあったのだと思われます。豊かな時代は互いに贈り物をしあいながら緊張圧力を解消し、一旦外圧が厳しい時代に突入すると互いに助け合い、何とか生き延びる。まさに集団の枠を超えた“共働”を軸に結ばれた社会が東北地方ではないでしょか?

第8回~芸術とは自然の表現そのもの [12]
東北地方には世界最古と言われる漆が生息しています。縄文人の凄いところは、毒性に富み、扱いの難しい漆を危険を承知で鉱物と混じりあわせ、赤や黒といった自然界にない色を祭祀具に施した事です。現在でこそ、色は簡単に自由に用いられますが、古代では鮮やかな赤を表現するのに命がけだったのです。
>太陽が沈むとあたりは漆黒のような闇につつまれしばらくしてまっ赤な朝を迎えます。生と死、そして再生を赤漆と黒漆になぞらえで器物に塗りうつし、精神世界を造形の中に表現したのです。<
漆を世界で最も早く発見し、使いこなした縄文人。彼らは自然に同化し、その自然そのものを表現しようとして土器や土偶に塗り付けました。それら自然への眼差しこそ芸術の原点です。芸術とは本来、自然の表現物そのものではないでしょうか?そんな意識の元で培われた伝統工芸、東北は現在でも名もなき芸術家を多く輩出しています。

第9回~大和支配の外にあったもう一つの日本 [13]
最終回では東北へ訪れた渡来民の影響を見ていきました。
大和政権の支配から長い間、反発、独立していた東北とはどのような地域だったのでしょう。大和が百済、新羅、任那といった朝鮮の南の影響、渡来民で構成されていたのに対して、関東から東北は高句麗渡来民の影響を大きく受けていた事が伺えます。>東北の歴史は高句麗渡来の影響を受けた歴史である、こう考えると天皇中心の百済系支配の日本史から東北や古墳時代の関東の歴史が意図的に削除されている理由も附に落ちます。ただ、高句麗渡来民の支配が百済や新羅系の勢力より弱く、また日本支配において後発であった故に、組織化が進まず縄文人集団が比較的温存されたのかもしれません。さらに稲作で土地とセットで縛られなかった為、生産という点においては渡来系氏族とは別に存続できた点が東北の特徴ではないかと思われます。<

ドラマ「おしん」に代表されるように東北人は我慢強く、打たれ強い部分をもっています。
また、中央や国家になびかない強い地域の絆を歴史的に保有してきました。欧米化が進み日本人のよい部分が失われつつある現在、東北地方は最後の砦でもあり、私達日本人が学び残していく本丸かもしれません。原発事故で明らかになってきましたが、これまでの物質文明、経済効率優先の社会は今、まさに限界に来ており、人類史的にも大きな転換点を迎えています。
日本人や東北の地が持つ縄文体質はそれらを変える大きな可能性を持っています。
あらたな日本の共認社会への転換に向けて、震災を機に示した彼らの行動や東北が培ってきた歴史や共同性が大きな力になると思います。
今回のシリーズはそれらを考えるひとつのきっかけになれば幸いです。

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