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なぜ今、人は縄文に惹かれるのか・・・(新)認識収束の萌芽

Posted By tanog On 2019年8月15日 @ 3:18 PM In ⅩⅠエトセトラ(その他諸々) | No Comments

るいネット投稿より面白い記事 [1]がありました。

ビジネス、アート、様々な分野で世界的な注目を集めている「縄文時代」。
なぜ、今、現代人たちは縄文時代に魅せられ、はまるのか?

非常にシンプルで面白い切り口です。この縄文ブログでも少し追求してみたくなりました。

☆先の投稿が少し長文だったので短くエッセンスを抜き出しました。
>縄文の人たちの暮らしを考えると、生きることはそれほど容易ではなかったはずです。縄文時代は温暖化が進んで食べ物が豊富にあったため定住が進んだ時代と言われますが、それでも季節や気候変動によって食べ物に困ることもあったでしょう。それでも縄文の人々は生きるために最低限の道具ではなく、それ以上の意味を持つ道具を使っていたのです。

現代の私たちはどうでしょうか?ただ生きるため以上の何かを暮らしの中で手にとることができているでしょうか?
私はそのような「何か」を縄文の人たちにもたらし得たのは、彼らの暮らしが「いかしあい」によって成り立っていたからだと思うのです。
それは命を支え合う「生かしあう」関係の上に、それ以上の何かを与えあう「活かしあう」関係が築かれていたともいえるのではないでしょうか。

私が縄文に「いかしあうつながり」を見出した一つは、今言ったような人と人とのつながりですが、もう一つ感じたのは、人と自然とのつながりです。そのことについて考えるきっかけになったのは、映画にも出てきた、貝塚に人の遺体も「捨てられて」いたという話です。

わけがわからないかもしれませんが、人間は「私」を主体として世界を見るのが当たり前です。でも、その前提自体を疑ってもいいのではないかと思うのです。そのように思うのは、私という主体に私自身が疲れてしまったからなのかもしれません。自分は何者なのか、自分は社会に対して何ができるのか、自分は世界とどのように関係していけばいいのかと、自分を主体として孤独に世界と対峙するよう求められることが多すぎると感じてしまうのです。
人間がこのように自己を規定するようになったのは、農耕が始まって以降、自然を人間と別物、コントロールできるものとすることで、そこに断絶が生まれてしまったからのような気がします。

縄文展の中で、私がもう一つ感動した物がありました(本当は一つどころかものすごくたくさんあったんですが)。それは「巻き貝型土製品」です。非常に精巧につくられた巻き貝(の貝殻)の焼き物で、そのリアルさと形の美しさに撃ち抜かれました。

この感動の理由は自分でもまだわかっていません。実用的でもないし、神聖なものでも(おそらく)ない、むしろ日常的な食べ物をかたどった焼き物をなぜわざわざつくるのか。その理由を考えていくと、もしかしたら自然との「いかしあうつながり」のあり方のヒントが見えてくるのかもしれません。だから私は意味もわからず感動してしまったのではないかと思うのです。

縄文というのは謎に包まれた時代です。しかし、1万数千年前から数千年前まで日本列島に彼らはいて、私たちの祖先であることは間違いありません。彼らが1万年もの間暮らしていられたということは、彼らの暮らしの中にこの日本列島で暮らしていくための知恵がたくさん詰まっているのではないか、そんなことも思うのです。

☆この投稿はリンク [2]からなされているのでこのブログの記事の最初の文章も転載します。
>最近「縄文がキテる」と一部で言われています。そういう私も縄文が気になって仕方がないのですが、そういう人、他にもいるのではないでしょうか。実際、現在、東京国立博物館で大規模な展覧会「縄文ー1万年の美の鼓動(以下、「縄文展」)」が開催されていて、縄文にまつわるドキュメンタリー映画も公開されています。
私は、この注目は、実は現代から失われてしまったものを取り戻すヒントを縄文に求める人が増えているからではないかと思っています。求めるものは人それぞれ違いますが、そこに共通してあるのは失われた「つながり」を取り戻すことではないかとも思っているのです。

☆また前回縄文ブログでの記事 [3]に書いた以下の文面も縄文を捉える上で重要なので掲載します。
>・・・・など、安易な再現プロジェクトは馬鹿げた企画になる。歴史学者が古代人を貶めているから、その様な発想が生まれるのだろうが、自然に対する対処技能は、現代人より古代人の方が優れた部分も多かったと考えられ、この発想に現代人の奢りが見え隠れしている。縄文時代を深く考察すると、縄文人はこの様な侮蔑的な発想では到底理解できないほど、優れた認識力を発揮していた事が分かる。科学的な知識はなかったから、合理的な発想で自然と対峙しなければ、生き抜く事ができない時代だった。縄文時代を理解するためには、縄文人のその様な知恵を当然とする、柔軟な認識が必要になる。

☆☆以上を俯瞰した上でなぜ縄文に惹かれるのかに繋がるエッセンスを並べてみた
1)それは命を支え合う「生かしあう」関係の上に、それ以上の何かを与えあう「活かしあう」関係が築かれていたともいえるのではないでしょうか。

2)
人間は「私」を主体として世界を見るのが当たり前です。でも、その前提自体を疑ってもいいのではないかと思うのです。

3)
自分は何者なのか、自分は社会に対して何ができるのか、自分は世界とどのように関係していけばいいのかと、自分を主体として孤独に世界と対峙するよう求められることが多すぎると感じてしまうのです。

4)
人間がこのように自己を規定するようになったのは、農耕が始まって以降、自然を人間と別物、コントロールできるものとすることで、そこに断絶が生まれてしまったからのような気がします。

5)
この感動の理由は自分でもまだわかっていません。実用的でもないし、神聖なものでも(おそらく)ない、むしろ日常的な食べ物をかたどった焼き物をなぜわざわざつくるのか。その理由を考えていくと、もしかしたら自然との「いかしあうつながり」のあり方のヒントが見えてくるのかもしれません。

6)
実は現代から失われてしまったものを取り戻すヒントを縄文に求める人が増えているからではないかと思っています。

7)
科学的な知識はなかったから、合理的な発想で自然と対峙しなければ、生き抜く事ができない時代だった。縄文時代を理解するためには、縄文人のその様な知恵を当然とする、柔軟な認識が必要になる。

☆☆☆これらをさらにまとめると以下のような図解になりました。

 西洋型文明社会の閉塞→自然破壊の罪意識→自然肯定、共存の志向
(私権社会)

  ↓                          ↓
答えを模索→ 自我肯定の思考方法が誤り ←  それでも違和感
  ↓        ↓
自然に学ぶ→ 自然と共存した古代人(=縄文)に学ぶ
           ↓(それでも限界)
       縄文時代を理解するには柔軟な(新)認識が必要
           ↓
   これまで人類が作ってきた認識に変わる新しい認識が必要
(言葉にならない意識=)潜在思念で考える直観力、
さらにそれを構造化する構造認識が求められる
           ↓
一人では考えられない。故に仲間を求めて集まる。追求が始まる
         (それが)
    活かしあう“つながり”の再生=人類の本来の姿


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