- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【2】同じ神を信じるキリスト教・ユダヤ教と何が違う?

 775c2b601174b1e9f5ae244d67a39091_L [1]

イランにおける最高指導者アリー・ハーメネイー師。彼は最高指導者(政治家)であり、かつ最高のイスラム法学者でもある。前任のルーホッラー・ホメイニー師も同様であり、アラブ世界では一般的。
画像はこちら [2]からお借りしました。

■イスラム教・・・同じ神を信じるキリスト教・ユダヤ教と何が違う?

イスラム国家とは、市場や都市に対する考え方、集団→国家の統合方法、そこでの宗教(イスラム教)そのものの役割、宗教というより規範とも考えられるイスラム教そのものの魅力等、他の国や宗教とは、統合形態が大きく違うのでは?と考えられます。「宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【1】プロローグ」 [3]より

 他の宗教との違いを明らかにする上で、まずは同じ神=ヤハウェを唯一絶対神として信仰する兄弟宗教とも言えるキリスト教(ユダヤ教)との違いを、それらの成り立ちなども踏まえて見ていきたいと思います。
因みに、預言者ムハンマド(マホメット)によるイスラム教の誕生は今から約1400年前の紀元622年頃であり、約2600年前のユダヤ教、約2000年前のキリスト教を下敷きとしつつ生まれた“後発”宗教であることが一つのポイントだと考えられます。

 

 ■部族共同体が残存

 まず、第一に注目すべき点は、イスラム発祥地であるアラビア半島においては、当時未だ部族共同体が残存していたという点です。

 イスラム前史における遊牧民は、安定して部族集団どうしでもオアシスを分け合う等協働関係を持ち、しかも、紀元後7世紀になるまでは、母系集団であり、環境の厳しい辺境の地でありながらも、協働性≒本源性を残しつつ、安定した生活を営んでいた。シリーズ:『イスラムを探る』第2回 イスラム教誕生前夜の状況」 [4]より

 これは超肥大国家であるローマ帝国支配下氏族共同体が解体され、根無し草のバラバラな個人にされたキリスト教誕生期とは全く異なる状況であり、部族共同体の規範の元、各人の自我も一定抑えられていたと思われます。
また、当時宗教的には各部族共同体が各々の土着の神を信じる多神教であり、部族単位で多様な生活を行っており、未だ「国家」というものは存在していませんでした。

 

■共同体秩序崩壊の「現実を直視」し、突破口としてイスラム教は生まれた

 こうした中、イスラム教が人々に必要とされたのはなぜか?人々の期待を受け始祖であるムハンマドが登場したのはなぜか?誕生の契機となったのは、メッカやメディナで直面した部族共同体崩壊の危機(という現実)であると考えられます。 

 アラビ~1 [5]

画像はこちら [6]からお借りしました。 

 

①メッカの退廃→共同体規範の崩壊の危機

 始祖ムハンマドは元々商業都市であるメッカに生まれ、彼自身隊商貿易を行う裕福な商人だったわけですが、当時のメッカの様子は・・・

以下、るいネット「都市の金銭の洪水の中から生まれ、自我を封鎖したイスラム」 [7]より

 読者の多くは、イスラムがどのようにして発生したのかと問われたならば、そのとき頭の中に例えば次のような情景を思い浮かべるのではないかと思う。砂漠の中で黒い布に顔を包んだ遊牧民たちが、厳しい砂漠の自然の中でそれに畏敬の念をおぼえていつか夕日に向かって祈り始め、やがてマホメットがそれらの風習を一まとめにして宗教として統合していくという光景である。   
しかしこれほど実情とかけ離れたイメージもないと言ってよい。そもそもイスラムというのは、砂漠の遊牧民の中から生まれたものではなく、高度に経済的に繁栄した都市の真中で誕生したものなのである。そして当時のメッカというのは、まさしく砂漠の真中に忽然として出現した金銭万能の小宇宙だったのである。

 このような社会においては金さえあれば何でもできたし、逆に金がなければ何もできなかった。恐らくは人間関係も相当にドライに金銭に帰着されていたようである。

 さてこのようなむき出しの金銭万能の社会においては道徳の退廃は必然であり、個人のエゴと短期的願望が金銭を軸にして増殖し、共同体の秩序を凄まじい速度で食い潰しつつあった。つまりメッカは「コラプサー」への坂道を転がり落ちる途上にあったのであり、イスラムはまさしくその転落を阻止する防壁として築かれたのである。

注:コラプサー⇒秩序崩壊

 つまり、行き過ぎた利益追求が自我の肥大化を招き、結果元々彼らのもっていた商業規範(ex.貧しいものには手をさしのべる)や、生きる基盤である部族共同体の規範を破壊し、社会秩序は破壊されつつあった・・・
これは、預言者として覚醒した後メッカにて弾圧を受けた際のムハンマド=神の言葉にも表れています。 

「世界史講義録」 [8] より

 「悪口、中傷をなす者に災いあれ。彼らは財を蓄えては、それを数えているばかり。財が人を不滅にするとまで考える。必ずや地獄の炎に焼かれるであろう。」
「お前は最後の審判などうそっぱちだなどという輩をみたか。連中は孤児を手荒に扱い、貧しい者に糧食を与えようとはしない。災いあれ…。」

 蓄財に走る商人や、貧しいものを救おうとしない金持ちに対しての呪いの言葉が投げかけられています。

 

②メディナにおける部族間対立の激化

 そして、メッカでの弾圧を逃れるように622年、拠点をメッカから約200キロのメディナに移したムハマンドが直面したのは、アラブ人同士の部族間対立の現実です。

  [8]「世界史講義録」 [8] より

 当時メディナの町はアラブ人、ユダヤ人が住んでいた。アラブ人住民は部族間の対立が激しく、またアラブ人とユダヤ人との対立もあって、非常に不安定な状態だったのです。

 メッカの退廃、そしてメディナにおける部族間対立・・・こうしたアラブ世界の秩序崩壊、部族共同体崩壊の現実を直視し、そこからの脱出といった人々の潜在的な期待を掴んだムハマンドがその秩序回復の突破口として、「アラー」(唯一絶対神)の言葉を“借りて”生み出したのがイスラム教です。
これは、巨大ローマ帝国支配の現実を捨象し、架空存在である“神”や“あの世”といった架空観念に救いを求めたキリスト教とは正反対の成立構造と言えます。

 

■「政教一致」のイスラム教・・・宗教の力で部族を統合し、更にアラブ民族を統合しイスラム帝国へと拡大

 メッカでの弾圧を受け、メディナに移住して以降、イスラム教は急速に拡大します。

   [8]「世界史講義録」 [8] より

一方移住してきたムハンマドと信者たちは、みんな部族の絆を断ちきってムハンマドについてきた。部族を超えてアラブ人がまとまっている。これは、アラブ人の歴史上始めてのことで、かれらもこのことを意識している。
部族を超えた信者たちのまとまり、共同体のことを「ウンマ」という。

部族対立が激しくなっていたメディナの町でムハンマドたち「ウンマ」の存在は、部族を超えた中立な調停者としての立場を得ることになった。ムハンマドは、相争う勢力を自分の同盟者、ウンマの一員にすることでメディナに安定をもたらした。宗教的というより、政治的に勢力を拡大するのです。

ムハンマドはそういう部族に対して、信者になったら助けてやる、という。いわれた部族は丸ごと入信します。敵対部族もやっつけられないためには、自分たちもウンマの一員になればよい。こっちも部族丸ごと入信するわけだ。
こんなふうに、あとは雪崩式に勢力は拡大していった。これが、イスラムの発展になるのですが、結果としてこういう布教方法は国家を持たなかったアラブ人に政治的まとまりをもたらすことになったのです。

 部族統合、秩序回復という政治的現実課題に対し、ある意味既存の神(ヤハウェ=ユダヤ教、キリスト教共通の神)を統合軸として利用した意図が見て取れ、結果、イスラム教は「政教一致」的な色彩を帯びることになります。
これも、「政教分離」・・・つまり、社会問題、政治的課題を捨象し、ただただ頭の中で神を信仰するキリスト教と正反対の構造です。 

そして、ずっと敵対してきたメッカを630年に征服し、631年にはアラビア半島を統一したムハマンドは、翌年632年には死去しますが、後継者達によってイスラムの拡大は続きました。

 islam2 [9] 

 画像はこちら [10]からお借りしました。

 るいネット「イスラム国家は民衆の支持で成立した」 [11]
 「社会を運営する気などなかったキリスト教、社会を運営するためにできたイスラム教。」 [12]より

 マホメットの死後、カリフ(後継者)たちは、イスラム教指導者というよりアラブ族長としての立場から、部族民の生活を安定させるため、周囲の地域の遠征を始めた。これがいわゆるアラブの「大征服」である(633~650)。

 こうして最初の大征服が一段落するまで(~650)に、イスラム帝国は旧ササン朝の全領域を合わせ、東ローマ帝国からシリア、エジプト、北アフリカを奪っていた。

ここで誰もが抱くのが、なぜこんな大征服が可能だったのか?という疑問だろう。装備も貧弱な砂漠のらくだ部隊が、いかにしてペルシアと東ローマという大帝国を倒すことが出来たのだろうか?
 その理由は、意外にも、イスラム軍が宗教に寛容だったからである。そもそも大征服は、イスラム布教の為ではなく、アラブの同胞を養うというカリフの族長的責任から行われたものだった。その証拠に、初期の遠征にはイスラム教徒ではないアラブ人も多数加わっていた。だから初期のこの大征服は、むしろアラブ人の民族的発展または民族移動の一過程と見てもいい。

だから極端に言えばイスラムの征服は、ペルシア民衆や東ローマ属州民が自ら政権の交替を望んだ結果であり、一種の“市民革命”的性格すら持っていたのである。

当時のメッカの退廃とは、彼らがもともと備えているそうした商業的機略が近視眼的欲望と結び付いて自家中毒を起こしていたものなのであり、それに対するワクチンとして要請されたのがイスラムだった。そのため宗教の体系そのものが社会というものを深く洞察し、むしろその欠陥を巧妙に補完しようとする意図をもっており、イスラム世界においては政治家であることと宗教家であることは本来矛盾しない。

 キリスト教が巨大ローマ帝国の支配下において虐げられた貧民の宗教であり、絶えず「国家>宗教」という力関係の下、国家統合に利用され続けたのに対し、イスラム教は始祖ムハンマド以降、部族を指導する族長や数学や天文学・医学や歴史学・地理学の専門家、そして、イスラム法学者(ウラマー)らエリート層がリードする宗教であり、初めから「国家=宗教」(政治的指導者=イスラム法学者)といった対等な関係の下、急速に政治課題を解決し拡大したところが、キリスト教だけでなくほとんどの宗教との大きな違いと言えます。

 参考:るいネットより「キリスト教が300年かかった覇権奪取。イスラムがたった数十年で成し遂げた理由は何か?」 [13]

 

 ■イスラム教における“唯一絶対神”とは何か?

 このように「現実捨象」「政教分離」「国家>宗教」のキリスト教に対し、「現実直視」「政教一致」「国家=宗教」と、対極のイスラム教が、キリスト教、ユダヤ教と全く同一の神“ヤハウェ”を唯一絶対神として信仰するのはなぜでしょうか?
 一つ考えられることは、元々が部族毎に異なる多神教であり、ゆえに対立を生んだ諸部族を統合するために、多神教の“神々”を超越した“唯一絶対神=超越観念”を必要としたと思われる点。
またもう一つは、イスラム教は他宗教に寛容であるという特徴を持ち、キリスト教徒やユダヤ教徒ら同じ神を信じる者たちを否定せず、「啓典の民」として受け入れることで、急速な拡大を可能とした点。
つまり、あくまで最重要課題はアラブ民族同士の対立を止揚し統合することであり、そのために後発の利を生かし既存の“唯一絶対神”を上手く利用したムハンマドの卓越した戦略を感じずにはいられません。

 

■全く修行せずに“信じるものは救われる”キリスト教と、日常に至るところに修行過程、追求過程が組み込まれているイスラム教

 そして、もう一つ、ただただ“信じる”だけで救われるキリスト教に対し、イスラム教においては日々の生活の中に「六信五行」に代表される「修行」や「追求」が組み込まれているのはなぜか?
 「六信」とはイスラム教徒が信じなければならない六つ・・・「神」「天使」「啓典」「預言者」「来世」「天命」であり、「五行」は、イスラム教徒が行わなければならない「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つです。

 この「六信五行」については、次回記事にて改めて追求する予定ですが、イスラム教成立の経緯や、彼らが直面した現実の壁から考えるに、利益追求を優先し部族共同体破壊の元凶たる個々の自我の肥大化を抑制し、また、部族共同体を、そして今や民族を超えて拡大するイスラムの同胞をまとめ、一体感を創出するための“規範”として「六信五行」に代表される修行≒追求過程が日々の生活の至る所に組み込まれているのではないかと思います。 

 

■まとめ・・・イスラム教とキリスト教(ユダヤ教)の違いとは?

◎部族共同体が残存している
(キリスト教は共同体が解体されバラバラな個人に)

◎現実課題を直視し、その突破口として誕生
(キリスト教は現実を捨象し架空観念・・・「神」「あの世」に収束

◎「政教一致」「指導者(政治家)=法学者」であり、宗教の力で国家統合
(キリスト教他宗教は一般的に「政教分離」、宗教は国家に利用される立場

◎日々至るところに修行過程、追求過程が組み込まれている
(キリスト教は修行などせず、信じるだけで救われる)
 

次回は、イスラム教徒の生活の至る所にちりばめられた“規範体系”である「六信五行」について追求したいと思います。

 by TSUTA

 

 

 

 

[14] [15] [16]