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「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?~統合様式と宗教の関係~第2回 仏教とインドの歴史(概要)」

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ここからお借りしました。 [1]
意外と知っていそうで知らない「仏教とインドの歴史」の概要を、以前に当ブログで扱った内容をダイジェスト的にまとめて見て行きます。 🙄
おおまかに見ると、仏教は、カースト制度(身分制度)と女性蔑視を生んだバラモン思想への違和感から生まれました。その時代は、交易から商工業が発達し、貨幣経済に入り、私権意識が顕在化し、貧富の格差が拡大する時期でした。豊かになるとカーストのトップは腐敗し、最下層は困窮します。その一方、王侯や商工業者の新勢力は、自らの私権の拡大を阻害するバラモン思想への反を希求し、仏教を支持して行くようです。
まずは、上記の流れを見て行きます。 😉
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ここからお借りしました [2]
まずは、上記の流れを見て行きます。
シリーズ「インドを探求する」第9回なぜインドで仏教が誕生して衰退したのか<その1> [3]以下引用。
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インド仏教史の概略を下の図にまとめました。
画像の確認 [4]
<その1>では、仏教が誕生する直前のインドの状況を押えていきます。
1.仏教成立の時代背景
○バラモンの思想
 紀元前15世紀ころ、西方よりインド西北部に進入したアーリア人たちは、先住民族と同化しながら定住し、農耕生活を始めました。その中で、次々とインドに進入してくる異民族との抗争を避けながら、アーリア人たちは西北インドからガンジス川の下流地域へ東漸するに従って、それまで経験したことのない厳しい気候・風土にさらされることになります。そこで、登場するのが呪術的信仰です。
 なぜなら、呪術的信仰は、人をして災いを逃れしめ、福を得させるという現実生活の直接的な欲求に応えようとするところに生まれるためです。インドの場合、東漸により、新しい環境・風土の厳しさがいや増してアーリア人に襲いかかってきました。
ガンジス川流域のジャングルを切り開き、開墾しつつ、東漸していくアーリア人の前途は多難であったであったろうし、予期せぬ災厄や病気が、いつ降りかかるかも知れぬ危険にさらされていたでしょう。そのような状況により、人間に恵みと喜びを与える自然の諸現象を、人格的な神として崇め讃える、多神教的なおおらかで明朗な信仰は維持できなくなります。そして、いかにして予期せぬ災厄や病気が降りかかるのを防ぎ、生活上の直接的な福徳を招くかが課題となっていきました。
 そこで、土着の民が行っていた呪術的な信仰を取り入れていくことになります。そうやって、彼らは神々への祭式を発達させ、祭式を通して神々を動かし、闘いに勝利したり豊穣をもたらそうとしました。そして、神々への讃歌や祭式の方法が述べられたヴェーダとよばれる聖典が編纂されました。
そのヴェーダ哲学は、一言で言うなら祭式の意義、祭式の時唱える言葉についての哲学的考察、祭式の対象である神々についての考察などです。ヴェーダの祭式の伝統では、人生の節目、毎年の季節の節目毎に種々の儀式が行われていました。つまり、時間の経過とともに人生や自然からは、創造的なエネルギーが失われ混沌と化して行くので、種々の儀式によって力を補ってやり、再び人生や世界を調和へと導くことができる、と言うのです。
 人々が自然とともに生き、自然に畏敬を感じつつ生活していた時は、毎年毎年円を描きながら循環していました。
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 ヴェーダ文明の最前線地帯、ガンジス河中下流域は、盛んだった稲作による穀物流通で、非常に潤っていました。当然、そのような時代状況では、富と財力を背景とした物質的、享楽的風潮も広がっていました。バラモンと呼ばれたヴェーダ祭式文化の中心者たちの中には、それを嘆かわしい堕落と考える人もいました。その人々にとっては、ガンジス河中下流域は「堕落の地」でしたが、彼らはただ、ヴェーダの伝統を墨守するだけでした。
また、バラモンの中にも、物質的、享楽的風潮に流され、追従する輩が出てきました。
そんな物質的繁栄をただ一つの目的として生きる人が恐れるのは、貧困、病気と老いと死です。自分の望みの追求が、それによって断絶してしまうからです。今の自分への固執は、他の状態、異なるものへの嫌悪、恐怖となります。
 それで、その人々は儀式を行い、財産・子孫・長寿を得る祈祷をバラモンに行ってもらうことで、功徳を積み、その望みの達成を願ったのです。ここで、「循環的な時間観」から「蓄積的な時間観」へと、大きな変化が生じ、祭式の意味について思索が深められ、前6世紀にはウパニシャッドと呼ばれる哲学的思索の書が形作られました。そのウパニシャッドの中で展開されたのが輪廻と解脱の思想でした。
○輪廻と解脱、カースト制度

 「輪廻」とは、生き物がそれぞれの業(過去の行為による報い)によって生と死をくり返すことをいいます。つまり、現在の生のあり方が次の生のあり方を決定するというのです。しかし、エジプトとは違いインドの過酷な自然のもとでは、生と死の繰り返しは苦痛だったのでしょう。この輪廻転生は、何とかして断ち切られるべきものと考えられたのです。
 この「輪廻」を循環的な時間観と捉えがちですが、輪廻が業報(がっぽう)思想と結びついた時、それは無限の因果の連鎖になってしまいます。もはや、人は元いたところには戻れず、善業も悪業も蓄積され、無限にその連鎖が続くのです。循環ではないのです。しかも、その場合の、善業は現実の欲望(自我)を満たすという目的にかなったものが、善とされているだけなのです。
 そして、祭式を司っていたバラモン(祭祀階級)たちは、祭式を行いその意味を知る者だけが、神秘的な智慧と儀式の力によってその善業を積み、輪廻から抜け出し得ると言い、その解脱の境地を、個々の人間の魂であるアートマン(自我)と宇宙の原理ともいうべきブラフマン(根本原理)との合一(梵我一如)であると説いたのでした。
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ここからお借りました。 [6]
 こうした祭祀の根底には、行う側、行ってもらう側双方に、自分を呪縛する「欲望(自我)」があります。それを釈迦は発見し、「祭式」を強く批判しました。『人々が祭式を行うのは、「今の自分」に執着しているからである。老いなど「今の自分」と異なるものに不安と嫌悪を抱くから儀式を行うのである』と。
 「今の自分」は「今の社会の仕組み」「今の世間の常識」に複雑に呪縛されています。「今の自分」「今の境遇」の延長に対する欲望は、「今の社会の存続」を何の疑いもなく受け入れることなのです。しかし、実際には自分は変化し、世間も、社会も変化する。変化する自分が変化する世界と出会う。その出会いの瞬間の多様なきらめきを如実に捉えようとしたのが、釈迦でした。釈迦の「慣習的祭式」批判は、祭式の深層に潜む「欲望(自我)」からの解放の運動だったのです。もちろんその批判の対象として、「カースト制度」も含まれてきます。「カースト制度」というものは、変わることを恐れるが故に、生涯固定の身分を作り出し、上層(バラモン)階級に至っては、そこに安住することを求めた結果なのです。
○女性蔑視の思想
 バラモンを頂点とするカースト制度に縛られたヒンドゥー社会においては、上記の輪廻観と、浄・不浄観の広まりによって、月経の際に血を流す女性は、本質的に「不浄」「邪悪」「軽薄」「淫ら」なものとされ、「女は出産の手段」「男児を産んでやっと一人前」「娘は厄介者」とされていました。 そして、宗教的にはシュードラと同位相に位置づけられ、「三従(子供の時には父親に従い、嫁いでは夫に従い、夫の死後は子に従う)」が規範化されていました。
○商工業の発展→自由思想家の登場
 紀元前7世紀を過ぎると、<中略>次第に商工業が栄え、いくつもの都市国家が成立することになります。
 
 私権時代になり、新しく力を持った王族や商工業者は、従来のバラモン的祭祀では、新たな貨幣経済においては、何ら役に立たないことを痛感し、これまでのバラモンの思想に代わる新しい思想を求め始めました。また、王族や商工業者に富が集中するに従って、人工的な貧富の格差が生じ、シュードラより下位の階級の民衆は、その苦しみからの脱出を願っていました。
 
 そして、それら脱出への勢力を代表する思想家が多数出現しました。その中の1人が釈迦です。
○釈迦の登場から仏教の衰退までの流れを、シリーズ「インドを探求する」第9回なぜインドで仏教が誕生して衰退したのか<最終回>から引用して見て行きます。
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以下、引用
インドで発生した仏教がなぜインドに根付かなかったのか?
シリーズ「インドを探求する」第9回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その1> [3]
シリーズ「インドを探求する」第10回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その2> [7]
シリーズ「インドを探求する」第11回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その3> [8]
 釈迦はバラモン教の拡大により肥大する私権社会を何とかしなければと純粋に思い、本源回帰の道を探った。しかし仏滅以降の仏教は上座部と大乗に分断され、かつ土着の大衆意識を汲み取れなかった。同時期に発生したヒンズー教がインドの第一宗教となり、仏教が排斥されたのはイスラム教による影響はあるが、本質はインドの(私権)秩序維持に対して仏教が適応していなかったからではないか。他民族が共存し様々な民族間の軋轢があるインドを統合するにはヒンズー教的土着のバックボーンが必要不可欠であった。仏教が根付かなかったのは思想の問題でなく、統合手法の脆弱さ故であった。
ダイジェストは以上です。
参考に釈迦の悟りとその後の仏教
シリーズ「インドを探求する」第10回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その2> [7]
の引用から見て見ます。
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ここからお借りしました [9]
○釈迦の悟った真理
 仏教において、釈迦は真理を悟った人であり、人々は釈迦の教えを学びながら、自らも真理を悟る(ブッダになる)ことを目標にします。これが例えばキリスト教のように、唯一絶対の神による救済といった考え方や、ヒンドゥー教のように限られた人間(バラモン)だけが悟りを得る、といった考え方とは異なるのが、仏教の大きな特徴です。では、その釈迦が覚った真理とはどのようなものだったのでしょうか。     
釈迦が世の人々に説こうとした教えの本質は、一人一人に与えられた固有の人生を、積極的に肯定しつつ生き抜いていくことのできる智慧と、たくましい生命力が、人間の内なる心に厳然として実存していることを明らかにすることでした。
 しかし、人生を積極的に肯定して生きることを人々にストレートに語れば、煩悩(自我的欲望)と、自己中心的な人生をそのまま肯定する誤解が生じるため、この教えの本質をそのまま明かさなかった。<中略>
 そこで、釈迦はいったん、人々が生きている人生を「苦」として否定し、煩悩や享楽に振り回される自己中心的なあり方を、徹底的に克服することを強調しました。そして、その否定的な教えを通して、人々が目前の人生に対して、懐疑の眼を持ち、より高い次元の人生へと眼を向け直すことを願いながら、教えを説いたのです。
 ところが、仏教徒の一部の人々(主に上座部派)は、この釈迦の教えを、その奥にある真意に気付かずに、文字通り受け止めたため、仏教を厭世的・消極的なものとして、展開してしまったのです。それが終には、「灰身滅智(けしんめっち)」といって、煩悩を起こす自らの身体を灰にして無くし、様々な迷いを生じる人間の智慧を滅することこそ悟りであると捉えて、結果的に、この現実の生とこれを取り巻く社会から逃避することとなったのです。
 この傾向を是正し、釈迦の本来の真意に立ち返って、仏教の真実の精神を躍動的に継承したのが大乗派でした。ここにおいて、単に形式的に、人間の煩悩や迷いの心を断ち切るというような考え方ではなく、人間一人一人の生命の奥底に内在する仏の智慧と生命の力を、引き出し顕在化することによって、煩悩の持つエネルギーを正しく活かす道を浮かび上がらせました。
 これが、煩悩を菩提へ、生死の苦を涅槃の悟りへと転換する原理として、大乗派では特に大切にされた道です。それゆえに、大乗の教えは、極端な禁欲に囚われるのではなく、かといって煩悩・欲望に翻弄され、享楽に流されるというのでもなく、その「中道」を生きるあり方を積極的に切り開いたものと言えます。
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引用終わり
 以上が前回のブログ投稿からの抜粋です。一般的に理解されている内容に関して、よくまとまっています。
 これを元に、プロローグで提示された、新たな視点:統合様式(支配様式)と最先端の観念との関係構造(統合様式は宗教を含む最先端の観念を規定する)を見て行きたいと思います。
具体的には、共同体社会から私権社会に変化してゆく中での、思想とは?という見方で切って行きます。期待してください!!

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