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弥生時代の大集落②~縄文からの食生活の変化と継承~

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先回の記事では、弥生時代の環濠集落がなぜつくられたのか? [2]を追求しました。今回は、その環濠集落の中で営まれていた食生活にフォーカスを当てます。

 

知っているようで、実は知らない弥生時代の食生活。縄文時代から受け継がれた部分も多くありますが、中国大陸や朝鮮半島からの影響を大きく受けているのが食文化です。その代表例は水稲耕作が一般的ですが、実は犬食も弥生時代から始まっています(犬食は江戸時代まで続いた)。

 

弥生時代にどのような食生活が営まれていたのか、見ていきましょう。

 

■石包丁と木製農具

石包丁は実った稲の収穫や野菜の採取などに使われた。木製の農具は弥生時代が本格的農耕開始の時代であったことの物証だ。(吉野ヶ里遺跡出土)

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■弥生時代の集落の食生活

ここでは、日本各地の弥生遺跡から検出された遺物を情報源として、弥生人の食卓を想像してみましょう。

 

弥生時代は、稲作が本格的に開始された時代であるため、米をはじめ麦、アワ・ヒエ・キビなどの雑穀が主食となっていたことがわかっています。調理方法は、煮炊きに使われた甕型土器(かめがたどき)に残る炭化物の状態から、水を加えて炊いて食べたと考えられています。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、手づかみ云々と記されていますが、鳥取県の青谷上寺地遺跡から大量の木製スプーンが検出されているため、食べ方は地方によってさまざまあったことが推察されます。

 

動物食も盛んであり、シカやイノシシなどの獣類、カモやキジなどの野島類、マダイやマグロなどの魚介類を口にしていたようです。ちなみに、狩猟用の弓の装備は、弥生時代に最高潮に達したと言われているようです。また、縄文時代の主食であった堅果類も、弥生時代の遺跡から大量に検出されています。これは、稲作が普及した弥生時代にあって、縄文の「食」が継承されていたことがうかがえる貴重な資料と言えます。

 

■四季の暮らし

弥生時代は水稲耕作に代表される本格的農耕と、縄文時代以来の狩猟採取が融合した時代であった。農耕・狩猟採取とも季節の影響を大きく受ける。このため弥生時代の人々は、季節のサイクルに則って暮らしていた。

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■八日市地方遺跡(石川県)

弥生時代中期の遺跡としては、北陸地方を代表する大規模集落遺跡。標高約1.5mの沖積平野に立地し、掘立柱建物、平地式壁物、方形周溝墓が見つかっているほか、多重の環濠がめぐっていたこともわかっている。一連の調査により土器、土製品、木器、木製品、石器、石製品、銅鏃、骨製品が検出された。地域間の交流を物語る遺物も多数検出されている。

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■柄付き鉄製鉇(やりがんな)

木材の表面を削る鉇が出土。美しい円形のグリップエンドは、強いカーブを描いてくびれ、斜め格子の文様を彫り込んだ装飾の帯がめぐる。貴重な道具へのこだわりがうかがえる。

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■「犬」の扱いに見る縄文と弥生の相違点

縄文時代にはなく、弥生時代に始まったのが「犬食」です。縄文時代、犬は狩猟の大切なパートナーであり、死ぬと人間同様に埋葬されたため、「犬を食べる」という食習慣はなかったと考えられています。中国では、未だに犬食の食習慣が残っていますね。弥生時代がいかに中国大陸や朝鮮半島から影響を受けていたのかがうかがえます。ちなみに、この食習慣は江戸時代に徳川綱吉が「生類憐みの令」を出して犬食を禁じるまで続いていました。

 

栽培植物に関しては、モモやウリの栽培が行われたことがわかっています。食用植物も当然ながら口にしたのでしょう。

 

■弥生時代のトイレ事情

ところで、食べたら必ず出るのが人を含む生物の常。弥生時代のトイレ事情はどうなっていたのか。川などがあれば水中に排泄物を落としたことがわかっています。しかし、集落内に水の流れがない場合は、大阪府にある弥生時代の池上曽根遺跡(いけがみそね)や、愛知県清須市にある朝日遺跡の環濠から、寄生虫の卵や食糞性昆虫の遺骸が検出されています。弥生時代の日本には牛馬を飼育する習得はなかったので、食糞性昆虫が人糞を食べ、寄生虫の卵が人糞内にあったことは確実だと考えられています。先に紹介した環濠は、防衛用施設であると同時に、し尿処理施設としての役割を果たしていた可能性もあるのです。

 

■次回は・・・

次回の弥生時代の集落に関する記事は、服装と生業について追求していきます。

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