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縄文と弥生の境目~縄文人が朝鮮半島南部に流れ込んでいた

弥生時代を追求していく上で、実は縄文から弥生への転換が実は未解明です。
(年代もいまだ研究が進んでいます)

弥生時代は縄文とのつながりが追求されていないhttps://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=378593

弥生時代を解明していく上でも、まず縄文と弥生の境目を追求してみたいと思います。

(福岡県板付遺跡 写真上部が水田跡)

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以下の記事から、縄文と弥生の境目について学びたいと思います。

縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6134

まず、弥生時代は稲作(水稲)が始まったことが一般的な認識です。

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(前略)
>昭和53年(1978)から翌年に板付遺跡(福岡県福岡市)の調査が行われ、弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ。縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から、水田遺構と木製の鍬、石製の穂積具(石包丁)、炭化したコメ(ジャポニカ)がみつかった。明らかに「縄文人が水田稲作をやっている!!」という、それまでの常識では考えられない事態に、みな戸惑ったのである。

>水田遺構は、幹線水路、井堰、出水路、排水路、畦畔など、しっかりとしたものだった。

>水田から水が流れ落ち、下の段の水田に水を供給するシステムまで、すでに登場していたのだ。

>興味深いのは、戦後すぐ、板付遺跡で板付Ⅰ式土器が発見されていたこと、(中略)板付Ⅰ式土器は、遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ。遠賀川式土器といえば、弥生前期を代表する土器である。

>考古学者はこう判断した。夜臼式土器は縄文時代の終わりに、板付Ⅰ式土器は、弥生時代の始まりに作られた、というのだ。つまり、板付遺跡は、縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか。

(中略)
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福岡県にある板付遺跡は、縄文晩期の土器と弥生前期の土器が出土しています。

(出土した縄文晩期の土器)

(出土した弥生前期の土器)

弥生土器は、よく文様がないと区別されがちですが、縄文に比較して文様は少なくなったものの、文様はあります。形をみても意外と似ていて、縄文をかなり受け継いでいるのではないかと考えられます。

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>縄文晩期から弥生時代中期にかけて、日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた。釡山市の東三洞貝塚から、九州の縄文土器が大量に発見されてもいる。

>北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に、渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。

>この結果、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたのだ。縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた。
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面白いのは、朝鮮半島南部に日本の土器が流れ込んでおり、朝鮮半島の土器も九州に流れ込んできた。
この事実は、土器を持ち込んだ縄文人がいた可能性があること。また朝鮮半島の土器を持ち帰ってきた可能性があることを示しています。

弥生時代は渡来人が来て…と認識されていると思いますが、それだけでなく縄文人が朝鮮半島の文化や技術を持ち帰ってきたのではないか。そういう仮説も成立すると考えられます。

次回も引き続き、縄文と弥生の境目は追求していきます。

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