- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

弥生時代の大集落①~環濠集落はなぜ形成された?~

[1]

画像はコチラ [2]より引用

弥生時代の集落は掘立柱建物と竪穴建物が混在するかたちで営まれていたことがわかっています。そして、集落は例外なく防衛用の堀である「環濠(かんごう)」で囲まれていたことも。

 

弥生時代の集落は、戦いに備えていたことが考えられます。それら環濠集落から見えてくる弥生時代の真の姿とは何か、これから数回にわたって検証していきましょう。

 

[3]

画像はコチラ [4]から引用

↑ 大塚遺跡(神奈川県横浜市)

弥生時代の大規模環濠集落跡。この東南100mには遺跡居住者の墓地遺構の歳勝土遺跡がある。居住地と墓地が並存する稀有な例であり、両遺跡は現在、横浜市歴史博物館の管理のもと、「大塚・歳勝土遺跡公園」として整備されている。

 

 

環濠集落が語る、当時の軍事的緊張とは?

弥生時代の建物は、掘立柱建物(高床式建物)と竪穴建物に大別されます。前者は、何本かの柱を立てて床面を地面から持ち上げ、その上に屋根と壁を組み立てるものです。こうした形式の建造物はすでに縄文時代に誕生していたことが明らかになっていますが、稲作の本格的普及と並行して、収穫した稲の貯蔵用倉庫として各地で造られるようになったと考えられています(虫害・鼠害対策)。この形式の建物は首長クラスの住居や神殿としても用いられており、西日本の各地からしばしば大規模な遺構が検出されています。

[5]

吉野ヶ里遺跡(画像はコチラ [6]より引用)

楼閣(ろうかく)に用いたと思われる重層式の掘立柱建物もこの時代に造られました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では検出された遺構をもとに、高さ12メートルにも及ぶ楼閣が再現されています。奈良県の唐古・鍵遺跡では、楼閣の描かれた土器片が検出されており、同遣跡には現在、この絵をもとに再現した中国風の楼閣が建っています。

 

掘立柱建物が普及しても、庶民は縄文時代同様、地面を掘り込んだ竪穴建物に住んでいたと考えられています。特別な意味合いを持つ掘立柱建物と、庶民階級の住まう竪穴建物。弥生時代の集落にはこの2種類の建物が混在していたのです。

 

ところで、稲作が本格化したことから弥生時代=牧歌的時代とイメージされやすいですが、実際は真逆であったと考えられています。弥生時代は、戦乱のはじまりの時代でもありました。そして、このことを示すのが環濠(かんごう)なのです。

[7]

環濠とは集落を囲む防衛用の堀のことを指します。弥生時代の集落はほぼ例外なく環濠で囲まれているため、「環濠集落」と呼ばれているのです。この集落形態は、弥生時代開始とほぼ同時期に中国大陸からもたらされたと考えられています。

 

日本史上、防衛用の堀で囲まれた集落が登場するのは、弥生時代を除くと、応仁元~文明9年(1467~1477)。後者は「応仁・文明の乱」があった時期で、政治の中心だった近畿地方で見られます。弥生時代がいかに軍事的緊張をはらんだ時代であったのか、察しがつきますね。

 

この軍事的緊張は稲作が本格化し、豊かになったことで生じたと推定されています。確かに、食うや食わずの状態では、混乱は起こっても戦争までにはいたりません。環濠敷設に膨大な労力が投入された点を考えると、蓄積された富の奪い合いが、環濠集落という形態の背後に見えてくるのではないでしょうか。

 

 

弥生時代の主な集落分布図

弥生時代の主な集落跡は西日本に多く、東日本に少ないのが特だ。これは弥生文化を日本にもたらした渡来系の人々が、最初に北部九州を離点とし、同文化が北上する形で広まったことによる。東日本に弥生時代の大規模点集落が少ないのは、同地で生活している文系の人間集団が長らく弥生文化の受け入れを拒んでいたためとも考えられる。

[8]

  1. 板付遺跡(福岡県福岡市)

弥生時代を中心に、旧石器、縄文時代や古墳~中世の遺跡もある複合遺跡。縄文晩期の地層から水田跡や水路、取水排水の遺構などが出土。縄文晩期終末には水稲耕作が始まっていたことがわかっている。

 

  1. 吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)

弥生時代の約600年にわたる、日本最大級の環濠集落遺跡。弥生時代中期には大規模な墳丘が築造された。

 

  1. 菜畑遺跡(佐賀県唐津市)

縄文前期~弥生中期の遺跡。矢板列によって区画された畦を持つ、縄文晩期後半の水田跡が出土した。

 

  1. 荒神谷遺跡(島根県出雲市)

358本の銅剣、16本の銅矛、6口の銅鐸が見つかった。

 

  1. 加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)

弥生時代の青銅器埋納遺跡。39口の銅鐸が1カ所から出土。

 

  1. 唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)

弥生前期~後期の環濠集落遺跡。唐古池の底から大量の木製農具が見つかっている。

 

  1. 登呂遺跡(静岡県静岡市)

弥生時代後期の集落跡と大規模な水田跡が出土した遺跡。

 

  1. 弥生町遺跡(東京都文京区)

最初の弥生式土器が発見されたことで知られる。向ヶ岡貝塚とも。

 

  1. 垂柳遺跡(青森県田舎館村)

本州最北端の弥生中期の水田跡。畦で区画された656面の水田跡が見つかっている。

 

  1. 砂沢遺跡(青森県弘前市)

弥生前期末の東日本最古の水田跡。農具などが出土しないことから、水稲耕作が定着しなかったとも。

[9] [10] [11]