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縄文再考:縄文土器にみる、縄文人の外圧と生命観

皆さん、こんにちは。

土偶に続いて、今回は「縄文土器」について追求していきます。
縄文土器といえば、火焔土器など、優れた造形力で有名。芸術家・岡本太郎も愛したという形状、模様の魅力。
なぜ土器が創られたのか、形や模様の変遷、その意味するものについて、縄文時代の外圧環境を踏まえながら分析していきたいと思います。

 

縄文土器にふれて、わたしの血の中に力がふき起るのを覚えた。濶然と新しい伝統への視野がひらけ、我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいることを知ったのである。民族に対してのみではない。人間性への根源的な感動であり、信頼感であった――――岡本太郎

 

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■厳しい外圧を生き抜くために

 生まれた「縄文土器」

縄文土器は、その名のとおり、寒い「氷期」が終わりに向かい、寒暖を繰り返しながら、暖かくなっていった縄文時代と共に生まれます。
暖かくなるにつれて、針葉樹が減少し、食べることのできる木の実をつける広葉樹・照葉樹が増えた時代でした。栄養価の高い木の実を安定して採取できるようになり、飢餓の圧力も弱まったことで「定住生活」が可能になったのです。
マンモスの乱獲説含め、非常に豊かな時代だったという説もありますが、当時の縄文人の技術から考えれば信ぴょう性は低い。遺跡人骨の同位体分析データ(歯に残されたストレス)からも、縄文人の平均寿命の短さからも、イノシシやシカを狩ることは難しく、食料は植物性に依存(6~8割は木の実)し、栄養状態・健康状態がたびたび悪化するなど、厳しい生活であったことが推測されます。

 

その中で、木の実(硬いもの、アクの強いものでも)を確実に摂取することが縄文人にとって重要な課題。そこで、火にかけ、煮炊きするための道具として「縄文土器」が登場したのです。

 

土器は、粘土採掘、素地の不純物の除去、成形、模様施文、感想、燃料の確保、醸成、醸成後の目潰しなど手間のかかる工程で、意外とエネルギーを要するもの。必要性があったから創られていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

■1万年間の自然の注視、自然との一体化が

 生み出した「美しさ」

 

縄文土器は、1万年という長い期間塗り重ねられてきたものにも関わらず、製作技術という点では大きな違いはないのです。大きく変化したのは、直接機能性には影響を与えない「文様・形状」。初現期の土器には、製作過程で生まれた簡単な縄文様、粘土を張り合わせたパッチワーク状のものが多く、年を重ねるにつれて、火焔土器のような複雑な形状・文様が施されています。

 

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縄文人は単に利便性を追求していたわけではなく、なにか別の切り口から追求をおこなっていたと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

縄文土器の形状・文様の特徴として挙げられるのが「正面性(装飾の集中、人や動物のモチーフ)」と「アシンメトリー(非対称)の徹底」。ちなみに弥生土器では集中的な文様はなく、形状・文様ともシンメトリー。人や動物には正面性(顔)があり、自然界のありとあらゆるものは非対称であることと一緒です。

 

その背景には、縄文人の世界観があります。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現しています。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という考え方。

 

夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。――――武光誠

 

つまり、縄文人にとって動植物や自然物、人工物は、単なる料理の具材、資源、道具ではない。すべてが、かけがえのないイノチ。だからこそ「生命感」を土器に込めることを追求し、形状・文様が変化していったのではないでしょうか。

1万年という長い時間の中で、自然を徹底的に注視して、そこで感じ取った生命感をカタチ(形状・文様)にした。徹底して生命原理に沿った造形だからこそ、岡本太郎のように、多くの現代人が、縄文土器の魅了されてしまうのかもしれません。

 

■応合による、

 さらなる表現の高度化

 

これだけ、形状・文様とも複雑な縄文土器にも関わらず、実は、時代によって「」というものが存在します(それで時代が推定できるほど)。南北にのびる日本列島で、どのように型が共有され、広がったのか。

それは、集団間の圧力を緩和するために行われた「贈与」が大きく関係していると考えられます。

人口も増加し集団規模が拡大していった縄文時代。「仲間が全て」である共同体集団として生き抜いてきた人類は、生活必需品ではなく希少価値の高い物を贈ることで集団間の緊張を緩和しようとしました。道具の材料となる黒曜石や、装飾品の材料となるヒスイやコハクなどが贈与されていたとされています。

 

しかし、近辺の集団同士では、地域特性のあるモノに希少価値は余り無い。そこで、製作技法を他集団以上に著しく上昇させることで、(縄文)土器を「贈与するもの」とし始めたのでは、ないでしょうか?縄文中期~後期に盛んだった生産様式は採集生産であるが、主要な生産を女が担うため、防衛力を期待された男の時間は余っていた。その時間が、集団間の緊張を緩和するための役割=縄文土器の高度化に使われたと考えられます。

 

「贈与」とは、集団間の応合性の発露であり、珍しい土器の方が喜ばれる(評価される)。また、集団間の距離が近くネットワークが形成されている場合、様々な集団から工夫された土器が「贈与されてくる」ため、更なる応合をと、”凝った”土器を作ろうとする縄文人がいたとしても、不思議ではないですね。

 

つまり、複雑に抽象化された縄文土器とは、縄文人の(他集団に対する)応合性の発露であって、世界にも類を見ない高い芸術性は、縄文人の高い応合性に支えられていたのです。

 

 

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