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日本人らしさを方向づけた母系家族の由来と様相

日本人らしさを方向づけた母系家族の由来と様相

日本の歴史的な家族形態の特徴は、先史時代から「母系家族」でその名残が平安中期頃まであったこととされる。 母系家族は、父系家族の逆で、祖母から母、母から娘へと系譜がつがれていく。

先史時代は、命を生み出す女性である母が家長だった。 成人すると男子が家を出ていき、娘が家に残って後をついだ。 通い婚や嫁取りが行われた。

それは、何らかの合理的な慣行である筈で、その背景や理由はどういうことだったのだろうか。

日本らしさ、日本人らしさを方向づけた母系家族の由来とその様相

文化力で発想しよう! [1]

気候変動動による人口推移からサバイバルする家族形態を考える

この時期、サバイバルする食糧確保は、基本的には採集で安定し、狩猟によって補完された。  大型獣の狩猟がメインだった時は、狩猟をする男に女に対する優位性があった筈である。  採集がメインとなると、木に登るなどを除いて男の優位性は低減していった筈である。むしろ、出産をして子育てをする女が土器を用いて煮炊きをすることで女の優位性が増加していったと考えられる。  この時期に、女は子供を産む性であるという理由に加えて、縄文人の場合、土器を用いて煮炊きをする女は生では食べられない採集物を食べられるようにしたり美味しくしたりする性であるという理由が加わって、女が男に対する優位性をもち続けたと考える。

一般的に言われていることとしては、後の弥生時代、稲作によって食糧確保を高度に安定化させる弥生人渡来し、大陸から稲作漁労民が西日本に渡来して縄文人との同化が進んだ。

一方、中国大陸では、もっと複雑な中間過程の経過があった。  北方では、大型獣を穫り尽くした狩猟民が小型獣を狩るようになるのは同じだが、ヒプシサーマル(気候最適期)を経て遊牧民化しさらに定住化して畑作牧畜民になる。  南方では、ヒプシサーマル(気候最適期)に野生種のイネの北限が広がり栽培種に転じて長江流域で稲作をするようになり、縄文人と同じいわゆる「森の民」が稲作漁撈民になる。  やがて4000年前の冷涼化、3000 年前の厳しい寒冷化が起こり、北方の畑作牧畜民が南下して南方の稲作漁労民が駆逐され、その一部が海を渡って日本列島に来ったと考えられている

日本列島でも4000年前の冷涼化、3000 年前の厳しい寒冷化のために植生が変化し、東日本の縄文人が南下したと考えられている。(ちなみに、大規模拠点集落跡である三内丸山遺跡は、約5500年前~4000年前とされ、冷涼化が放棄の一因と考えられている。)  暖温帯落葉広葉樹林が寒冷化によって壊滅的打撃を受け、東日本の高い生産力を誇ったドングリの森林はその生産力を大幅に減じた。一方、西日本の照葉樹林は気温に対する適応性が大きいためかほとんど気温変化の影響を受けなかった。

2500年前には現在より1度以上低く、ピーク時より3度低くなり、日本人の人口は大きく減少した。栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかったためとされる。

この時期の縄文文化はすでに、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた食糧確保を高度化させていた。その背景には基本的には、栄養不足を解消し免疫力を高めてサバイバルするというニーズがあった。  このニーズを満たす手段として、西日本においては、東日本人の南下によってもたらされた東日本で成熟化していた「山の幸の食文化」と、中国大陸南方からの渡来民によってもたらされた「海の幸の食文化」と稲作を基軸とする「里の食文化」とが総合化された。  大陸と違って、海と山が迫って平野が狭い日本では「山の幸」「海の幸」「里の幸」が日常的に流通するから、容易に食材として組み合わせて調理できまた料理として組み合わせて食することができる。大陸を追われて海を越えてやってきた渡来人にとっては文字通りの新天地だったのではなかろうか。大陸では海浜部と内陸部で相互に干物を交易して保存食材として用いることが発達していく。    私は、こうした日本列島ならではの食材の多様化と調理や保存の高度化と並行して、収穫物の調理や保存をする性である女の優位性が定着していったのではないか、と想像する。  たとえ収穫するのが男でも、女においしい料理にしてもらわなければ食べられなかったり、美味しさを楽しめなかったりする。さらに栄養価の高い旬の食材を活かす調理や料理をすることで健康が維持され病気にならずに済むのである。

定住拠点での優位性は女にあるということと、  移動を要する狩猟や漁撈といった定住拠点以外での優位性は男にあるということは、縄文人に限らない普遍的な話である。  さらに、定住拠点での食糧確保や集住が充実して集落化していくと、集落同士の縄張り争いや略奪防衛の戦いが起こるようになる。その際の集略や縄張りを守る戦闘や交渉も男の役割とされた

この時期に、対内的な優位性を女が、対外的な優位性を男が担うという普遍的な分担が定着化した、と考えられる。

一般的に集落が出現した当初は、母父子の親子それぞれが住居を建てて暮らしたのではなく、男集団と女集団が共同住居で寝起きして、集落全体の食糧の確保と料理と食事を共同でしたと考えられる。だから、あくまで女集団の幹部が男集団の幹部経由で男たちに分担をディレクションしたということである。  そして母父子の親子がそれぞれ家族として住居で暮らすようになって、各住居で妻が夫にディレクションするという形になったのだろう。

日本の母系の一般庶民レベルの実相は、このような多様で変化に富んだ海山里の栄養価の高い旬の食材とそれを組み合わせる料理の知識を女が占有して活用しながら継承する、というサバイバル日常食づくりの内に捉えることができる。

そしてその継承は自動的に、四季折々のタイミングで栄養価の高い旬の食材を確保するという、男の定住拠点の外での役割を、男たちに適宜に割り振るディレクター的立場の継承でもあった。

妻はどこの国でも強い。あるいは母は強しでもある。  しかし、日本人の妻の夫に対するイニシアティブには、外国にないものが確かにある。  私は便宜的に母父子のことを「家族」と呼んでいるが、縄文人の母父子は、私たちが捉えるような「家族」という集合で括られていたのかどうかはっきりしない。

確かに、家族単位の小集団で移動採集生活をしていた人類原初にまで遡れば、現代の「核家族」と同じ集合である。しかし、 日本人の<社会人的な心性>は、常に<部族人的な心性>をベースとして温存して形成されてきた

「日本型の普遍化」「日本型の文明化」の起源は、縄文人の社会から弥生人の社会に転じた時にあったと考えられる。  主体となったのは、縄文文化の素晴らしさを客観的に理解できた弥生人の方である。  一般的に、日本らしさや日本人らしさの源流を縄文文化に求める人が多い。  しかし、 日本らしさや日本人らしさを「日本型の普遍化」「日本型の文明化」と捉えるので、 縄文文化を培った<部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成した最初が、中国型の<社会人的な心性>を経験しかつその限界を身にしみて理解していた大陸からの渡来民であったということを重視する。

一言で言えば、 日本らしさや日本人らしさのベースとなるコンテンツは縄文文化であるが、日本らしさや日本人らしさに編集した編集者は弥生人だった

大陸からの渡来民が日本列島において展開したこのような物事の捉え方ややり方は何度も繰り返されてきた。この繰り返しこそが、日本らしさと日本人らしさを累積的に先鋭化させてきたのだと思う。